川内駅から、鹿児島中央へ
新水俣駅(しんみなまたえき、熊本県水俣市)・出水駅(いずみえき、鹿児島県出水市)から九州新幹線でさらに南下すると、鹿児島本線の最後の起点ともいえる川内駅(せんだいえき、鹿児島県薩摩川内市)に着きます。
川内と「仙台」?
「せんだい」とはいっても、もちろん宮城県の仙台(せんだい)は違います。
仙台市(せんだいし)は、宮城県の県庁所在地であり、東北地方で最大の都市です。詳しくは、以下の記事で解説していますので、ご覧ください。
鉄道唱歌 奥州・磐城編 第27番 仙台に到着!伊達政宗が築いた城下町
しかし宮城県仙台市にも、実は「川内駅(かわうちえき)」があります!
仙台市の川内駅は、仙台市地下鉄・東西線の駅で、東北地方で最も偏差値の高い大学である「東北大学」のすぐそばにある駅になります。
こちらは「せんだい」ではなく「かわうち」になります。
こうしたトリビアも、色々調べてみると面白いものですね!
薩摩川内市(川内:せんだい)の由来
川内(せんだい)の由来は、その大昔、「古事記」や「日本書記」などの日本神話に登場するニニギノミコトという神様が、ここに「千の台を作った」ことに由来しています。ニニギノミコトは、天照大神(あまてらすおおかみ)という神様に命じられて、ここ九州南部に来ていたことがあるのです。なお天照大神は、天皇の祖先ともされている、「太陽の神様」ともいわれる女性の神様です。
ニニギノミコトとは、コノハナサクヤヒメという女性の神様の夫でもあります。
コノハナサクヤヒメとは、日本神話きっての美人といわれる女性の神様です。また、日本一の山・富士山の「ご神体」でもあります。つまり「富士山にはコノハナサクヤヒメが宿る」と、昔の人々によって信じられてきたのです。
そのコノハナサクヤヒメを祀(まつ)る神社が、静岡県富士宮市(ふじのみやし)に鎮座ある浅間神社(せんげんじんじゃ)になります。
コノハナサクヤヒメは、ニニギノミコトと結婚してから、なんと一晩で妊娠したというエピソードがあります。なので、コノハナサクヤヒメは「子宝祈願」や「安産祈願」にご利益がある神様とされています。
話がズレましたが、薩摩川内市の由来はそのニニギノミコトに関係がある、ということを覚えておけばOKです。
「国道3号」の交通の要所・薩摩川内市
鹿児島県薩摩川内市(さつませんだいし)は、薩摩地域の北部における代表的な都市であり、また鹿児島県最大の面積を持つ市でもあります。
また、薩摩川内市は国道3号という、とても重要な道路が通ります。そのため薩摩川内市は、薩摩地域の北部における、とても重要な交通の要所となっています。
国道3号は、北九州市をスタートして、福岡県・熊本県・鹿児島県を結ぶ、とても重要な国道です。鉄道でいうと、鹿児島本線のルートに準拠している道路になります。
以下は、日本の主要国道(一桁台の国道)と、おおむね準拠(むしろ競合?)している鉄道の路線の組み合わせです。
国道1号:東海道線(東京都~大阪市)
国道2号:山陽本線(大阪市~北九州市)
国道3号:鹿児島本線(北九州市~鹿児島市)
国道4号:東北本線(東京都~青森市)
国道5号:函館本線(函館市~札幌市)
国道6号:常磐線(東京都~福島県浜通り~仙台市)
国道7号:羽越本線・奥羽本線(新潟市~秋田市~大館市~弘前市~青森市)
国道8号:北陸本線など(新潟市~富山市~敦賀市~米原市~京都市)
国道9号:山陰本線(京都市~鳥取市~松江市~山口市~下関市)
国道10号:日豊本線(北九州市~大分市~宮崎市~霧島市~鹿児島市)
※国道の起点・終点と、鉄道路線の起点・終点は、必ずしも一致しないケースも多いので、ご注意ください。
こうしてみると、一桁台の国道は、鉄道でも重要な主要路線と、かなり準拠していることがわかりますね。
国道は、「国道◯号」の「◯」の数が少ないほど、主要な幹線であることが多いといえます。特に一桁台の国道は、どれも歴史あってかつ日本の経済にも大きな影響を及ぼすほどの重要道路であることが多いです。
逆にいえば、酷道(=酷い国道)と呼ばれるようなひどい道路であれば、例えば
「国道157号(=「落ちたら死ぬ!!」の看板)」
「国道425号(=紀伊半島最凶酷道)」
「国道418号(=キングオブ酷道)」
などのように、三桁台など数が大きいといえます(^^;
話がズレてすみませんが、薩摩川内市は人口約9万人を誇り、鹿児島県では第4位の人口です。
第一位:鹿児島市 約59.3万人
第二位:霧島市 約12.3万人
第三位:鹿屋市 約9.8万人
薩摩川内市はこれらに次いで、県内第4位の約9.0万人の人口を誇る市となります。
鹿屋市(かのやし)は、桜島(さくらじま)の南東にある、大隅半島(おおすみはんとう)における最大の都市になります。しかし鹿屋市までの鉄道は出ていないため、残念ながら鉄道のみでは行くことはできません(^^; 例えば自動車・バスなど、車一択のアクセスになります。
また鹿屋市は、年間の平均気温が17度という温暖な地域です。なので寒がりの人にとっては、羨ましくなるような気温・地域であるといえるでしょう。
しかし、鹿児島は冬は意外にも寒いので、旅行で行くときはなるべく侮らないように注意し、それなりの防寒対策をしていったほうが良さそうです。
日置市・伊集院駅に到着
川内駅から鹿児島本線で南下していくと、伊集院駅(いじゅういんえき、鹿児島県日置市伊集院町)に着きます。
鹿児島県日置市(ひおきし)は、たとえば「南九州西回り自動車道」や、またJR鹿児島本線によって鹿児島市とのアクセスがとても良くて近いため、鹿児島市のベッドタウンとしても発展しています。つまり、昼間は鹿児島市の職場へと出勤し、夜は日置市の家に帰ってくる、といったライフスタイルの人々が多い街であるといえます。
日置市は2005年に、伊集院町などの周辺の町が合併し、新たに「市」として発足したのでした。
駅名が「伊集院駅」となっているのは、このためですね。
これはいわゆる「平成の大合併」の一つになります。
1990年代後半~2010年代までの当時は「平成の大合併」といって、全国のあちこちで合併ブームがおきていたのでした。
それはやはり合併して「市」になる(つまり市制施行ができる)というメリットがあってこそのことでしょう。
人口が5万人を越えると「市」になる条件を満たせるため、合併によって人口を増やすことで、はじめて市制が施行できるようになるわけです(※ただし実際は、「市」になるためには他にも様々な厳しい条件をクリアする必要があります)。
もし「市」に昇格すると、「町」にはなかったような行政サービスを提供できたり、また街の知名度向上によって観光客や移住者などの呼び込みが期待できます。しかしその一方で、地域によっては役所が遠くなって不便になる、などのデメリットもあります。
日置市では、薩摩の英雄である島津義弘(よしひろ)を祀(まつ)るための神社である徳重神社(とくしげじんじゃ)に対して、みんなで「お参り」をするための行事である「妙円寺詣り(みょうえんじまいり)」が有名です。妙円寺とは、島津義弘の菩提寺(ぼだいじ:先祖代々のお墓がある寺)になります。
また日置市では、伝統工芸品の一つ「薩摩焼」が有名です。こちらは、先述の島津義弘が、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)のときに、島津義弘の帰国とともに来日した朝鮮出身の専門職人によって広められた焼き物になります。
薩摩の教え・序列 あなたも挑戦する人間になろう
薩摩藩は、とにかく「教育」を大事にしていたことで知られます。郷中教育(ごじゅうきょういく)が有名ですね。
そんな薩摩の教えに、以下のようなものがあります。
それは人の「序列(ランク分け)」をしたものであり、上に行けばいくほど優れた人ということになります。
なので、人が素晴らしくなるためには、以下の「一」「ニ」「三」に該当する人にならなければならないのです。
以下、上にいくほど「優秀な人間」ということになります。
一、何かに挑戦し、成功した者
二、何かに挑戦し、失敗した者
三、自ら挑戦しなかったが、挑戦した人の手助けをした者
四、何もしなかった者
五、何もせずに、批判だけしている者
しかし残念ながら、現代の日本には「五」に該当する人が非常に多い気がします。
(あなたももしかしたら「ギクッ」としたのではないでしょうか。昔の私はそうでした。)
それはSNSやネットの書き込みなどを読んでいても、その多くが「他人の批判や愚痴、誹謗中傷」などばかりです。
例えば
「選挙には行かないのに、政治の文句ばかり言う」
「自分は努力しないのに、婚活や結婚生活などで、相手異性の愚痴や悪口ばかり言う」
などが、それに該当します。
その批判の対象は、主に政治家やインフルエンサー、有名人や芸能人などであり、さらには皇室・皇族への批判も後を絶たない状態です。
つまり世の中の大半の「五」の人は、「一」の人を叩くわけです。
そして「五」の人は、「ニ」の人を笑うのです。
「愚痴や悪口を言う人」の所からは、優秀な人は離れてゆき、逆に「質の悪い人たち」が寄ってきたりするのです。
「五」の人は「五」の人としか友達になれませんし、「一」の人と友達になることも、会ったりすることもできません。そもそも生きている世界や、価値観が違うからです。
また「五」の人は「五」に該当する異性としか付き合ったり、また結婚したりすることしかできないのです。
「五」の人を「一」の人は嫌うので、離れていきます。
そして「五」の人は、「一」の人と友達になったり、また「一」に該当する異性と付き合ったり、結婚したりすることは出来ないのです。
愚痴や悪口・不平不満を言う暇があったら、まずは「勉強」「仕事」「作業」など、とにかく行動することが大事です。夫婦生活でも、相手異性に対して不満があるのでれば、「まず自分がやってあげて、見本を見せる」ことがとても大切です。それは他人を変えることよりも、自分が変わった方が早いからです。いくら文句ばかり言っても、他人は本当に変わってくれません。
偉そうに書いて申し訳ないですが、かくいう私(筆者)も偉そうなことは言えず、昔は本当に無能で、愚痴や不平不満ばかり言う人でした。
私も昔は、まさに「五」の人だったわけです。
それも他人のせいばかりする「他責思考」で、知らず知らずのうちに人が離れていくことに気づいていませんでした。
今思えば、本当にたちの悪い人間でした。
今では反省するばかりです。
今では、私はせめて「ニ」の人になりたい、と思っています。
たとえ「五」の人に笑われようとも。
「薩摩の教え」によれば、誹謗中傷ばかりしている人よりも、何かに挑戦した人の方が「上」なのです。
「成功」の反対語・対義語は「失敗」ではありません。
「挑戦しないこと」です。
あなたも、
「失敗するよりも、挑戦しないことを恐れる人」になりましょう!!
たとえあなたが「ニ」の人で止まったとしても、「五」の人よりは「上」の人間だということを、決して忘れないようにしましょう。
何かに挑戦する人は、魅力的です。たとえ失敗したとしても、意外と後悔は無いものです。
これこそがまさしく、薩摩の教えです!
鹿児島中央駅に到着
伊集院駅を出て、さらに南下すると、九州新幹線の終着駅であり、また鹿児島県の県庁所在地・鹿児島市の中心駅である鹿児島中央駅(かごしまちゅうおうえき、鹿児島県鹿児島市)に到着です。
鹿児島中央駅は、元々は西鹿児島駅(にしかごしまえき)という名前でした。
そして別に「鹿児島駅」という駅が、西鹿児島駅の一つ東隣に存在しているという状態でした(現在もそうです)。
今でもそうですが、西鹿児島駅の方が、鹿児島市のメイン駅であり大きな駅でした。
そして九州新幹線が2004年に新八代駅(しんやつしろえき、熊本県八代市)との間で部分開業したために、より新幹線の駅名として相応しい「鹿児島中央駅」へと改名したというわけですね。
ちなみに鹿児島中央駅は、地元では「中央駅」といいます。私(筆者)が鹿児島に行ったとき、地元民だと思われたのか、ご年配の方に「中央に行くにはどうしたらいい?」と尋ねられて、一瞬何のことだかわからなかったという思い出・エピソードがあります(^^; そのとき、「ああ、鹿児島中央駅のことを言ってるんだな」と、なんとかすぐわかりました。
もはや外国語!?わかりにくいけど、日本的で強い「鹿児島弁」
鹿児島弁は、難解でわかりにくいことで知られます。とても同じ日本語とは思えないほどの乖離(かいり)具合です。もはや外国語ですね(^^;
あまりにわかりにくいので、太平洋戦争中に、日本軍の暗号が米軍に解読されすぎて、作戦がみんなアメリカ側に筒抜けだったため、業を煮やした日本軍が無線を鹿児島弁で早口でしゃべらせたらアメリカ軍が全然理解できなかった、といったエピソードまであったくらいです。
それほどまでに難解な鹿児島弁ですが、どこかとても日本的で、力強い言語ではないかと思います。
鹿児島では「ようこそいらっしゃいました」を、
「ゆくさ おじゃったもした」
と言います。
また「ようこそ」を「おじゃったもんせ」といいます。
さらには、「頑張れ」のことを
「きばれ」
「きばいやんせ」
といいます。
私は元AKB48のゆきりん(柏木由紀さん)と歌手の長渕剛さんが好きなので、この鹿児島弁を覚えました(^^;
これらは鹿児島弁の基礎として、覚えておくとよさそうです!
キリスト教が初めて伝わった鹿児島
鹿児島市は、1549年にフランシスコ・ザビエルが上陸した場所になります。
そして鹿児島は、日本初の「キリスト教伝来の地」となったのでした。
スペイン出身のザビエルは、キリスト教の素晴らしさを
「一人でも多くの日本人に教えてあげよう! こんな素晴らしい宗教を、自分たちだけが知ってるのだなんて、もったいない!」
ということで、海の向こうからはるばるとやってきたわけです。
ザビエルが日本に興味を持ったきっかけは、日本人の印象が上品でとても良かったからです。
そしてアフリカ大陸をはるか南へ大きく迂回して、はるばると日本へやってきました。
そして鹿児島に上陸したというわけですね。
鹿児島・熊本・長崎・佐賀・福岡といった地域は、当時の日本では「最も外国に近い場所」です。なので「日本の玄関口」でした。
現在の日本で最も「外国に近い場所」といえば、成田空港・関西国際空港・福岡空港などですよね。
しかし、日本でのザビエルの布教活動は、なかなかうまくいきませんでした。
それは「仏教勢力との対立」があり、なかなかキリスト教が受け入れられず拒否されがちだったからです。
鹿児島・長崎・府内(大分)などの地では比較的うまく布教がうまくいきましたが(その結果「キリシタン大名」が生まれたりします)、畿内(関西地方)ではまるで布教がうまくいきませんでした。
室町幕府・足利将軍からは「みやげ物を持ってきていないから」などという理由で断られたりもしました。
なかなか日本での布教活動がうまくいかない理由として、ザビエルは
「日本は中国(明)からの文化の影響を多く受けている。ならば、中国でも布教をすべきだ!」
と思いたち、日本を離れて中国に渡ろうとしたのですが、途中で病に倒れ、残念ながらこの世を去ってしまいました。
鹿児島市や大阪府堺市には、ザビエルの来訪を記念する記念碑・公園があります。
ザビエルは日本人のことを凄く高く評価していたただけに、日本で思うようにキリスト教を広められなかったことは、残念かつ無念だったことでしょう。
幕末の動乱 薩摩藩はより強くなった
幕末になって開国し、欧米列強との接触の機会が増えるようになると、日本の端っこにある薩摩藩は、もし欧米列強と戦争になったときに、真っ先に狙われることは明白でした。
これに危機感をおぼえた薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)は、集成館(しゅうせいかん。現在の尚古集成館)という場所において、近代的な軍事力強化の準備が進められてゆきます。
実際に薩摩藩は、幕末に薩英戦争を経験しています。
それは、参勤交代において生麦事件(なまむぎじけん)というものが発生してしまい、イギリスの怒りを買ったからですね
生麦事件は、幕末に神奈川県の生麦(なまむぎ)という場所で、イギリス人が切り捨てられてしまったという事件です。
当時はまだ開国したばかりで、まだ参勤交代のルール(=大名さまが通りかかったら、頭を下げること)を知らなかったイギリス人が、日本のお偉いさんに対して頭を下げなかったことで、「無礼だ」として切り捨てられてしまったのです。
これに対してイギリスは激怒し、薩摩(鹿児島市)に向けて攻撃を開始します。
これが薩英戦争です。
結果はやはり、近代的な装備を身につけたイギリス側の勝利でした。
しかし薩英戦争では、薩摩藩もかなり善戦・奮戦したため、イギリス側にもかなりの損害が犠牲者が出てしまいました。
なので「お互いにいがみ合っていてもしょうがない。これからは仲良くしよう」
ということで、薩摩藩とイギリスは急接近、協力関係に変わりました。
そして薩摩藩はイギリスから最新鋭の武器を仕入れてくるようになり、その力で江戸幕府を倒し、明治時代が訪れました。その新しい明治政府に、鹿児島出身のたくさんのお偉いさんたちを輩出していくのです。西郷隆盛は、まさにその一人ですね。
しかし西郷隆盛は、その後に明治政府とうまくやっていけず、仕方なく地元の鹿児島に帰ってきたところ、1877年に明治政府との戦いである西南戦争に敗れてしまい、鹿児島市のやや北にある城山という場所に隠れていたところを、銃弾に撃たれてしまい、命を落としてしまったのです。
西南戦争については、以下の記事でもわかりやすく解説しているため、ごらんください。
鉄道唱歌 山陽・九州編 第50番 田原坂に到着 西南戦争激戦の地
次回は、指宿枕崎線で、指宿・西大山・枕崎駅へ
次回は、指宿枕崎線(いぶすきまくらざきせん)で、指宿(いぶすき)・西大山(にしおおやま)・枕崎(まくらざき)へと向かう行程の予定です。
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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