鹿児島中央からは、指宿枕崎線で、鉄道南の果ての地へ
前回で鹿児島中央駅(かごしまちゅうおうえき、鹿児島県鹿児島市)に到着しました。
今回は、鹿児島中央駅から指宿枕崎線(いぶすきまくらざきせん)に乗って、鉄道最南端の地へと向かってゆきます。
いわゆる、寄り道になります。
ただ「鉄道最南端」とはいっても、実際には後述するように赤嶺駅(あかみねえき、沖縄県那覇市)が「鉄道最南端」になります。なので厳密には、JR最南端の地ということになります。
指宿枕崎線(いぶすきまくらざきせん)は、鹿児島市を南下して指宿(いぶすき)・山川(やまかわ)・西大山(にしおおやま)を経由して、薩摩半島(さつまはんとう)の南をぐるっとまわる路線です。最南端の鉄道路線の一つということで、多くの鉄道ファンが訪れます。
鹿児島のシンボル「桜島」
鹿児島のシンボルといえば、やはり西郷隆盛と、なんといっても「桜島」でしょう。桜島は鹿児島市の市街地からも、非常によく見えます。県庁所在地の大都会から富士山みたいな山がそびえる光景というのは、なかなかない光景です。
鹿児島中央駅を出て、指宿枕崎線をずっと南下していくと、窓の左後ろ側には桜島の容姿が優れています。つまり、鹿児島湾(別名・錦江湾/きんこうわん)の向こう側に、まるで富士山のような大きく美しい山である桜島がそびえるので、その景色はとても圧巻です。
桜島の火山は、人類の長い歴史において、何度も噴火を繰り返してきました。噴火の記録も多く残ってきており、今でもなお活発な火山活動を続けています。ニュースの映像等でも噴火のシーンが登場することがあり、爆音・轟音とともに凄まじい炎と煙を吹き上げる桜島の姿は、なんとも凄まじくて圧巻です。
元々は、本当に「島」だった桜島
桜島は、かつては名前の通り「島」でした。今は東の「大隅半島(おおすみはんとう)」と陸がつながっているため、完全な島ではなくなっています。
しかし、大正時代の1914年に起きた大正大噴火により、大隅半島と陸続きになったのでした。それは溶岩が大量に海に流れたことで、まるで海の上に「自然の橋」ができたようになってしまい、桜島と大隅半島が陸でつながってしまったというわけですね。
大正大噴火は、本当にこの世の地獄絵図のような噴火の仕方でした。あんなに煙が吹き上がるのはヤバい・・・(^^;
桜島は、鹿児島湾の北部にある海である姶良カルデラ(あいらかるでら)の、ちょうど南端あたりに存在しています。
「カルデラ」とは、火山の噴火によって中身がみんな噴出してゆき、中身がすっからかんになったことでできてしまった巨大な空洞のことです。熊本県の阿蘇山(あそさん)は、日本一のカルデラになります。
「カルデラ」とは、ポルトガル語で「大きな鍋(なべ)」を意味します。まさに、地上にある「巨大な鍋」こそが、カルデラというわけです。
このカルデラ(空洞)の中に、水がたまってしまうと「カルデラ湖」になります。例を挙げると北海道の屈斜路湖(くっしゃろこ)が有名ですね。
姶良カルデラ(あいらカルデラ)は、おおよそ3万年前の巨大噴火で誕生しました。
この大噴火によって、中がすっぽりと「巨大な空洞」になってしまい、そこに海水が入り込んでたまってゆき、今の「錦江湾(きんこうわん。別名:鹿児島湾)」が誕生したというわけです。そして、この時の「姶良カルデラ」の大噴火のとき、噴出した火山灰は空高く舞い上ってゆき、風に乗って日本各地へと運ばれてゆきました。なので、日本各地で「姶良カルデラ」の破片が見つかったということです。
その「姶良カルデラ」が出来てから約3千年ほど後に、南側に桜島の火山が「子火山」として誕生したのでした。つまり、「姶良カルデラ」の南端にある小さな噴火口から火がどんどん吹き出し、火山灰・溶岩が山のように積み重なってゆき、桜島が誕生したのです。
なので約27,000年前に誕した桜島は、日本の火山の中では、比較的新しい火山であるといえます。
地球の歴史は約46億年ですから、約3万年前くらいであれば、地球の歴史としてはごく最近のことになるのです。
富士山も誕生したのが約10万年前ですから、長い地球全体の歴史からすれば「若い山」ということになります。
桜島の噴火対策
桜島は、気象庁などの機関から徹底的・重点的に噴火の状況を監視されており、降ってくる火山灰による街中への被害を最小限に食い止めるために、さまざまな取り組みがなされています。
鹿児島市では、多くの学校のプールにカーテン式の屋根があります(ありました)。これは、降ってきた灰を防止するための屋根を設けることで、プールを安全に使用できるようにするためです。例えば、天気がいいときはカーテン屋根を開けておき、噴火により灰が降ってきたときには、カーテン屋根を閉めるというようなイメージです。
ただし、しばらくの間、噴火と灰がおだやかな状態だったことや、カーテン屋根自体が老朽化していったことなどにより、予算上の都合からかカーテン屋根は次第に撤去されてゆくようになりました。なので、今の鹿児島ではあまり「カーテン屋根」は存在していないそうです。ただその代わり、スイーパーと呼ばれる装置で、灰をホウキみたいに掃いてお掃除するのだそうです。ちなみにスイープ(Sweep)とは、英語で「掃(は)く」という意味です。「掃くもの」という意味で、「スイーパー」ということですね。
鹿児島では道路にも、上記のスイーパーを装備した車があります。つまり、道路に降り積もった灰を掃いてどけるための専用車ということです。
灰が降ってきた時は、まるで街が「霧の中」にいるかのようになってしまいます。ホワイトアウトみたいな感じですかね。そのため、視界がわずか数十メートルにまで狭くなってしまう場合があります。こうなると、遠くはほとんど見えづらくなってしまいますね。
なので、自動車の場合は「ライト」をつけることが必須になります。
桜島が噴火し、ある一定以上の灰が降ってくることがわかると、役所から一般家庭に対して克灰袋(こくはいぶくろ)という専用の袋が配布されます。これは集めた灰を集めて捨てるための袋です。
克灰袋(こくはいぶくろ)とは、「灰に勝つ(克つ)ための袋」という意味の袋です。市民に対して「灰に負けるな!」という意味が込められていて、その気概たるものすごいですね!
家庭では、降ってきた灰を「克灰袋」に入れて、指定された置き場に袋を置いておくと、役所の車がやってきて、灰を回収してくれるというわけです。つまり、市民から集めた税金を使って、灰の回収をしているというわけですね。
指宿駅に到着
だいぶ話題が反れてすみません。
桜島を左後ろにして南下していくと、やがて指宿駅(いぶすきえき、鹿児島県指宿市)に着きます。
鹿児島県指宿市(いぶすきし)は、指宿温泉(いぶすきおんせん)などの観光地として知られます。
指宿温泉(いぶすきおんせん)は古来より知られており、古くは「湯豊宿(ゆほすき)」というふうに呼ばれていました。つまり「お湯が豊富な宿(=滞在場所)」ということですね。
「指宿(いぶすき)」の名称は、この「湯豊宿(ゆほすき)」に由来すると言われています(諸説あり)。
つまり、お湯が豊かな宿ということで、飛鳥時代に天智天皇が指宿まで行幸(ぎょうこう/みゆき:天皇陛下が出張されること)をされたときにつけられました。
指宿温泉は、江戸時代よりも以前は、とても熱いお湯が地面から吹き出してくる「口」がたくさん点在するような湿原であったため、お湯が熱すぎて「危険な場所」であるとされていました。
しかし、熱いお湯は麻(あさ)という植物の加熱をするために使われたり、また炊事(すいじ)・料理や「お風呂の湯」として、古くから役立ってきたのでした。つまり温泉の恩恵をきちんと受けられていたわけで、決してデメリットばかりではなかったわけですね。
また、1960年頃から始まったハネムーンブーム(新婚旅行ブーム)の中、「東洋のハワイ」とも呼ばれた指宿温泉は、そのメッカとして賑わったのでした。
1964年までは日本で海外旅行は禁止されており、本物のハワイに行くのは基本不可能だったからです。その代わりに、南国にあたるこの地域が、新婚旅行の行き先として選ばれたというわけですね。また宮崎県も、新婚旅行ブームの行き先としてよく選ばれていました。あのときは、本当に多くのカップル(当時は「アベック」とも呼ばれていました)が、飛行機やバスなどに乗って、ここ南国(九州南部)を目指していたのです。「結婚は贅沢品」とも呼ばれるような令和の現代からしたら、当時のハネムーンブームはちょっと凄すぎる(羨ましすぎる?)現象だったのかもしれません。
高度経済成長期だった当時の日本では、人々はたくさんお金を持っていたため、結婚・新婚旅行・ベビーブームが当たり前のような時代でした。だからこそみんな結婚式や新婚旅行を派手かつ豪華に行ったり、赤ちゃんをどんどん産んだりして、日本経済は次々に成長していったのでした。現代のような不景気・少子化の時代に生きる我々からしたら、いささか羨ましいような時代に思えるかもしれませんね。
指宿市(いぶすきし)では、観光を促進することと、冷房を節約するという観点から、市長によって「アロハ宣言」が行われます。これにより、10月末まで市の職員などはみんなアロハシャツを着て仕事をしています。つまり「アロハビズ」という新しい勤務形態です。夏の間だけネクタイを着用しない「クールビズ」と似ていますね。
他にも「アロハビズ」をやっている自治体として、山口県の周防大島町(すおうおおしまちょう)や、神奈川県茅ケ崎市(ちがさきし)などがあります。「瀬戸内のハワイ」とも呼ばれる周防大島町では、かつて地元民が明治時代に大量にハワイに移住したことがきっかけで(=これは当時人手不足だったハワイの畑で働くために、彼らが仕事を求めて移住したのです)、「アロハビズ」を採用しているというわけです。
山川駅(指宿市)で乗り換え
指宿駅を出ると、多くの場合は一つ向こう側の山川駅(やまかわえき、鹿児島県指宿市)で乗り換えになります。
山川駅から先は、列車の本数がかなり減ります。なので、ここからの移動はややシビアになります。しかし本数が減ることで、いよいよ最南端の地になっていくんだなぁ~ということで、テンションが上がってゆきます!
逆にいえば、鹿児島中央~指宿~山川までの列車本数がなぜ比較的多いのかというと、それは県庁所在地である鹿児島市街地への通勤・通学・買い物などの需要が多いためですね。
山川駅は「日本最南端の有人駅」とされています。
JR最南端の駅「西大山駅」
山川駅で枕崎(まくらざき)方面の列車に乗り換えて、さらに西へ進んでゆきます。
やがて西大山駅(にしおおやまえき、鹿児島県指宿市山川大山)に着きます。
西大山駅は、JR社における日本最南端の駅となります。ちなみに、すべての鉄道最南端の駅は、沖縄県のモノレールの駅・赤嶺駅(あかみねえき、沖縄県那覇市)になります。
西大山駅は、日本ではかなり南の「北緯31度11分」という位置にあります。日本最北端に位置する北海道稚内市(わっかないし)は北緯45度の位置にあるため、西大山駅がいかに南にあるのかということがよくわかります。
西大山駅は1960年の開業以来、長らくの間はずっと日本最南端の駅として知られていました。
しかし2003年に沖縄県で、沖縄都市モノレール線(ゆいレール)が開通したことによって、那覇空港駅の一つ南の駅である赤嶺駅(あかみねえき、沖縄県那覇市)(北緯26度)に、その「鉄道最南端」の座を空け渡したのでした。
モノレールは、いわゆる「鉄道事業法」における「懸垂式鉄道(けんすいしきてつどう)」もしくは「跨座式鉄道(こざしきてつどう)」に分類されています。なので、モノレールは法律上は鉄道という扱い・分類なのです。ちなみに「懸垂式(けんすいしき)」とは、レールに”ぶら下がって”走るタイプのモノレールです。「跨座式(こざしき)」とは、レールに”またがって座る”ように走るタイプのモノレールです。沖縄のゆいレールや(羽田空港へ行く)東京モノレールは「跨座式(こざしき)」であり、千葉都市モノレールは「懸垂式」になります。
話を元に戻しますが、上記の理由により沖縄のモノレール「ゆいレール」は鉄道に分類されるために、鉄道最南端は「ゆいレール」の最南端の駅である赤嶺駅(那覇市)である、というわけです。
西大山駅は、沖縄のモノレール「ゆいレール」が出来たその時に「日本最南端の駅」ではなくなったので「本土最南端の駅」ということに改められたのでした。
しかしこれに対して「沖縄は本土では無いのか」との意見・苦情が多数寄せられたことから、再び表記を「JR日本最南端の駅」へ改めています。
モノレールではなく、いわゆる「普通の線路」を用いた路線であれば、鹿児島県屋久島(やくしま)の安房森林軌道(あんぼうしんりんてつどう)が、さらにより南にあります。「森林鉄道」とは、森から切り出した木材を運ぶための鉄道です。今ではほとんどが(トラックなど)自動車に置き換えられたために森林鉄道はほとんど廃止されましたが、屋久島の安房森林鉄道は、現存する珍しい森林鉄道になります。
以上をまとめると、「鉄道最南端」ということであれば沖縄県・赤嶺駅であり、モノレールではない「普通の線路」の最南端ということであれば、屋久島・安房森林鉄道になります。したがって、西大山駅は、JR最南端の駅であるというわけですね。
薩摩富士・開聞岳
JR最南端の駅である西大山駅からは、開聞岳(かいもんだけ)の勇姿がとても素晴らしいです。
開聞岳(かいもんだけ)は、標高924mの火山です。開聞岳はいわゆる円錐形(えんすいがた)をしており、まるで富士山のような形・山容であることから、「薩摩富士(さつまふじ)」ともよばれます。いわゆる全国各地の「富士山そっくりの山」である「郷土富士」の一つです。
開聞岳は、飛鳥時代・平安時代にそれぞれ起きた2回の噴火によって、噴出物が積み重なっていったことで出来た(高くなっていった)火山です。
このように、噴出物によってどんどん積み上がり、高さが増していく火山を「成層火山(せいそんかざん)」といいます。富士山は、まさに成層火山の代表格です。
富士山(3,776m)も、数回にもおよぶ噴火によって、吐き出された噴出物が積み上がってゆき、どんどん高くなっていったという歴史があるのです。
つまり、成層火山は
火山が噴火する→噴出物が「頭」と「周辺」にたまっていく→噴出物が重なって積もってゆく→山が高くなる→さらに噴火する→さらに山が高くなる
というサイクルが繰り返されることで、まるで富士山のような、きれいな円錐形の山(成層火山)ができていくのです。
開聞岳は飛鳥時代と平安時代に、2回の噴火によってできました。噴火したのが「飛鳥時代」「平安時代」だと分かっているわけなので、発掘された遺物から、その時の人々の生活が想像できるようになっているわけなのです。
その(発掘された)遺物から、飛鳥時代の噴火では、いまだに古墳時代のような生活が続けられていた、ということがわかったのです。最初の噴火が行われた地面(地層)から、古墳時代に使われていたモノが発掘されたからですね。つまり地方では、なかなか文明が進んでいなかったという地域が普通に存在していた、ということがわかったわけですね。
鉄道の南の終着点・枕崎駅に到着
枕崎駅(まくらざきえき、鹿児島県枕崎市)は、JRグループの中では日本最南端の路線である指宿枕崎線の終着駅となります。
駅には「本土最南端の始発・終着駅」の碑が設置されています。
枕崎駅は、先述の西大山駅よりも、やや北の位置(緯度)にあります。なので「最南端の駅」というわけではないのですが、日本で最も南にあるJR線の鉄道路線である指宿枕崎線の終着駅であるということで、「南の終着駅」という呼び方をされるわけです。
ちなみに日本のすべての鉄道最北端の駅は、言うまでもなく北海道稚内市にある宗谷本線(そうやほんせん)・稚内駅(わっかないえき)です。なので、枕崎市と稚内市は、友好都市の関係にあります。
鹿児島県枕崎市(まくらざきし)は、南国だけあって気候は温暖ではあるものの、とにかく台風が多いことで知られます。特に夏から秋にかけて台風がよく通過してゆき、高知県室戸市の室戸岬(むろとみさき)、また和歌山県串本町(くしもとちょう)の潮岬(しおのみさき)などと並んで、いわゆる「台風銀座」の一つであるとして知られます。
なお、枕崎~加世田(かせだ:南さつま市)間は、戦前の1931年に南薩鉄道という鉄道路線が出ていました。つまり当時は、枕崎駅からはさらに北に、南さつま市への鉄道路線が出ていた、というわけですね。
戦前の当時はまだ自動車が一般的ではなく、人々の移動手段はほぼ鉄道がメインでした。しかも当時は「戦争の影」が世界から迫ってきていたような時代だったので、いつ日本が戦争になってもいいように軍事輸送(兵士・武器・食糧を運ぶ)のためにも鉄道の存在は非常に重要でした。
しかし戦後になると軍事需要は無くなり、また自動車が普及してくるため、日本各地の鉄道は廃止されていくことになります。それに伴って、南さつま市までの路線は、1984年には廃止されています。
鹿児島中央に戻り、次回は日豊本線を北上
指宿枕崎線の観光を終えると、鹿児島中央駅に戻り、次回は日豊本線を北上してゆきます。
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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