吉松駅からは、吉都線で小林・都城方面へ
前回で肥薩線(ひさつせん)・吉松駅(よしまつえき、鹿児島県姶良郡湧水町)に到達したわけです。
吉松駅からは吉都線(きっとせん)に乗り換えて、
- えびの
- 小林(こばやし)
- 都城(みやこのじょう)
方面へと向かいます。

ここからは、宮崎県に入ります。
「きっといいことある」吉都線
吉都線(きっとせん)は、吉松駅と都城駅(みやこのじょうえき、宮崎県都城市)を結ぶ線路であることから、この名前となっています。
途中でえびの市を通ることから、「えびの高原線」の愛称もあります。
「きっといいことある」みたいな意味で、吉都線は縁起のいい路線としても知られています。

小林駅に到着 天照大神の孫・ニニギノミコトが降臨した高千穂峰
えびの駅(宮崎県えびの市)を過ぎてゆき、やがて小林駅(こばやしえき、宮崎県小林市)に到着します。

霧島連峰
宮崎県小林市の南には、南西に霧島連峰(きりしまれんぽう)の山々がそびえます。連峰とは、複数の山々という意味です。
主な山に、
- 最高峰の韓国岳(からくにだけ:標高1,700m)
- 高千穂峰(たかちほのみね、標高1,574m)
の山々があります。
天孫降臨の地・高千穂峰
高千穂峰(たかちほのみね)は、古事記(こじき)などに代表される日本神話のエピソードの一つ「天孫降臨(てんそんこうりん)」の舞台として知られす。
天孫降臨とは?
天孫降臨とは、天照大神(アマテラスオオカミ)の孫であるニニギノミコトという神様が、神々がいる天界である「高天原(たかまがはら)」から日向国(ひゅうがのくに:宮崎県)に降りてきた、というエピソードです。
わかりやすくいうと「日本をおさめるため、神様が天から降りてきた地が、ここ高千穂峰だ」ということです。
天照大神とは
天照大神(アマテラスオオカミ)は、日本神話に登場する、日本列島を創造したとされるイザナギという神様の娘にあたる、女性の神様です。
この世を照らす「太陽の神様」だとされており(それが名前の由来)、天照大神が「岩」に隠れたときにはなんと世界が真っ暗になった、という神話のエピソードがあります。
天照大神の子孫こそが、まさしく初代天皇である神武天皇(じんむてんのう)にあたるので、天照大神は現代の天皇陛下・皇室の先祖であるといえます。
ニニギノミコトとは
ニニギノミコトは、天照大神の孫にあたる神様であり、日本(=神話では、「葦原中国(あしはらのなかつくに)」と書かれています)という国を統治する使命をおびて天界「高天原(たかまがはら)」から日向国(ひゅうがのくに)・宮崎県に降臨してきたのでした。
そして日本一の山・富士山のご神体であるコノハナサクヤヒメという女性の神様に一目惚れしてしまい、なんと一晩にして妊娠させてしまいました。
その生まれた子のはるか子孫こそがまさに、初代天皇・神武天皇ということになります。
そして神武天皇は、宮崎県の北東にある美々津(みみつ)という海岸から、奈良県の橿原(かしはら)に向けて船出したのでした。
「高千穂」は、実は2ヵ所存在!?
ちなみに宮崎県北部にある高千穂峡(たかちほきょう)で有名な、高千穂町(たかちほちょう)も、同じく天孫降臨の場所として知られています。
これについては、日本神話の中に「高千穂」とは確かに記されているものの、果たしてどちらが正確な「高千穂」なのかは、いまだにわかっていないようです。
宮崎県第二の都市・都城市に到着
小林駅を出てさらに南東へ進めると、
- 高原駅(たかはるえき、宮崎県西諸高郡高原町)
を過ぎて、やがて日豊本線(にっぽうほんせん)との合流点である都城駅(みやこのじょうえき、宮崎県都城市)に着きます。
宮崎県都城市(みやこのじょうし)は、宮崎県で第二の都市です。
ちなみに第3位は延岡市(のべおかし)、第4位は日向市(ひゅうがし)になっております。
「都城」の由来
都城(みやこのじょう)の由来は、街を流れる大淀川(おおよどがわ)に囲まれた土地である
- 都島(みやこじま)
の上に、お城を建てたことから「都城」と呼ばれるようになったとのことです。
昔は、「川と川に囲まれた土地」のことを「島」と呼んだ
昔は「川と川に囲まれた土地」のことを「島」と呼んでいたので、「都島」という地名だったわけです。
また、こうした「川と川に囲まれた土地」は、「川という自然のバリヤーに守られた土地」ということでもあるので、お城が築かれやすかったのです。
なので「都島」に建てられたお城、ということで「都城(みやこのじょう)」という地名になったわけですね。
太平洋に近いことから、かつて軍事拠点になりやすかった九州南部
都城には、太平洋戦争の末期に、日本軍の飛行場がありました。
この時点で日本の戦局はもはやかなり不利になっており、もはや飛行機を飛ばすための燃料もかなり不足している状態でした。
なので、少しでも太平洋の戦地に近い南九州に、日本軍の飛行場が建設されたのでした。これは燃料を節約するための措置です。
そしてこの飛行場から、戦場へと出撃していったのでした。
戦後、昭和天皇は1949年に、戦後巡幸として、全国を行幸(ぎょうこう:天皇が出張されること)をされています。
その際に、昭和天皇は都城を訪れておられます。
日南・志布志方面へと続く「日南線」
南宮崎から、志布志までを結ぶ
南宮崎駅(みなみみやざきえき)からは、宮崎県の南海岸方面へと延びる日南線(にちなんせん)が出ています。
日南線(にちなんせん)は、南宮崎駅(みなみみやざきえき、宮崎県宮崎市)から志布志駅(しぶしえき、鹿児島県志布志市)までを結ぶ路線です。
宮崎県は古い呼び方で「日向国(ひゅうがのくに)」というわけですが、その日向国の南側ということで、「日南」というわけです。
「志」が多い!志布志市
鹿児島県志布志市(しぶしし)は、「志(こころざし)」の文字がとても多いことで知られます。いわゆる珍地名(ちんちめい)の一つです。
志布志市役所には、なんと
「志布志市志布志町志布志の志布志市役所志布志支所です。」
という看板があり、「志」の文字だらけという凄まじさになっています。(^^;
天智天皇による「志のこもった布だ」の言葉
「志布志(しぶし)」の名の由来は、飛鳥時代にこの地を訪れた天智天皇(てんちてんのう)にあります。
天智天皇が南九州での滞在中に、滞在先でお世話になった主人の妻と侍女(じじょ)が、「布」を天智天皇に対して献上したのでした。
これに感激した天智天皇が、
「志として布を(私に)献じた(差し上げた)ことは、誠に志布志である」
とし、この地を「志布志」と呼んだことに由来しています。
「珍地名」をたくさん探してみよう
なお、こうした珍地名は日本・海外問わず、ほかにもたくさんあります。中には笑えるものや、下ネタも混じっているものもたくさんあります。
興味がある方は、ぜひ調べてみてくださいね。
プロ野球・日南キャンプの拠点
宮崎県の日南(にちなん)地方は、プロ野球チームが毎年2月から始める「キャンプ」の拠点になっています。
そもそも野球の「キャンプ」とは?
キャンプとは、プロ野球チームが合同で練習をすることです。いわば「合宿」に近いでしょう。
まずは基本的な体力作りに始まり(これが結構ハード)、また紅白戦(2つのチームに分かれて練習試合をすること)を行ったりするわけです。
なぜ日南地方で、しかも2月からキャンプを始めるのか?
なぜ日南地方でキャンプを始めるのかというと、本州に比べて「暖かいから」です。
なぜ2月からキャンプを始めるのかというと、2月末~3月の「オープン戦」、そして3月末から本格的に始まる「公式戦(一年を通じて戦う試合)」に間に合わせるためです。
真冬の「自主トレ」が選手の命運を左右する
それまでの「真冬の期間」は、いわゆる「自主トレ」の期間になります。
この期間はフリーのため、練習に励んだり、意識が高い選手は「弱点の克服」をしたり、取材を受けたり、主力選手はテレビに出たり、また旅行・温泉に行ったり、また贅沢してサボることもできます。
こうした過ごし方は、本当に人それぞれです(ちなみに、プロ野球選手の年収(年棒)は、他のスポーツ選手や職種に比べ、破格に高いです)。
キャンプの練習はハード!そのシーズンの成果すら決める
キャンプの練習はハードで、冬の「自主トレ」の期間に怠けていたり、また贅沢して太ったりした選手は練習についていくことができません。
そうなると、監督から「こいつは練習をサボっていたな」と判断されてしまい、3月から始まるオープン戦のレギュラーから外されてしまうというリスクがあるのです。
つまり選手にとっては、この「キャンプ」を頑張れるかどうかで、その年(シーズン)のレギュラー選手になれるかが、また活躍できるかがかかっています。
プロ野球選手はこのように、一年の大半は遠征・出張(相手チームの本拠地で試合する)などで自宅にいないため、プロ野球選手の嫁さんは大変なんだそうです。
キャンプは、地元への経済効果が大きい!
キャンプは、地元への経済効果が絶大のため、軽視はできません。
例えば、選手の宿泊費・移動費・滞在費・食費などでも、地元の宿舎や商店などに大きな収益を与えます。
また、選手たけでなくマスコミ・報道陣の皆さんが選手の取材のために現地に滞在するため、その滞在費なども貴重な現地の収益となります。
さらに、全国からファンも訪れるため、彼らの滞在費や観光費なども、地元にとっては貴重な収入源になります。
選手がファンと触れ合う時間は、何よりの宝物になるそうです。
選手にとっても2月に暖かい日南地方で過ごすという期間は、とても癒しになるそうです。
日南地方はまるで「東洋のハワイ」ともいえるような、まるで南国のような景色が広がるからですね。
しかし近年は、沖縄との競合も
しかしながら、航空機なのどの交通機関が発達した現代では、宮崎県よりも沖縄県の方がとても便利になっています。
沖縄県はプロ野球チームを誘致するために、キャンプが出来る練習施設や宿泊施設を全力で作っていきました。
そのため、プロ野球チームは沖縄の方に流れていってしまい、宮崎県の日南地方がピンチに陥る、といった事態までもが起きているわけです。
羽田空港から那覇空港までの「空の便」はとても多くて便利な上に、しかも沖縄県の方が「暖かくて気候がいい」ということも、宮崎県にとっては厳しくなる要因になっています。
宮崎県も、より設備を充実させ、選手遺留に努める
しかしながら、宮崎県は長年にわたって、プロ野球チームと苦楽をともにしてきた歴史があります。
そのため、プロ野球チームとしても地域・地元の人々との関係を無碍(むげ)にすることはできません。
そのため、主力選手は沖縄でキャンプ入りしつつも、残りの選手は宮崎県でキャンプを行って現地のみなさんと交流をはかる、という配慮もなされているのです。
そして宮崎県では、プロ野球選手たちが沖縄に流れていってしまわないよう、県を挙げて「引き留め」のための取り組み・声掛けや、選手たちにとってより気持ち良く過ごしてもらいやすいように、練習施設・宿泊施設をより良くアップデートさせていく、といった努力が行われているのです。
宮崎駅に到着 「赤江港」を中心に栄えてきた宮崎市

南宮崎駅を過ぎ、大淀川(おおよどがわ)という大きな川を渡ると、やがて宮崎駅の県庁所在地である宮崎市の中心駅・宮崎駅(みやざきえき、宮崎県宮崎市)に到着します。


宮崎県宮崎市(みやざきし)は、宮崎県の県庁所在地であり、また宮崎県で人口最多の都市になります。
「大淀川」「赤江港」を中心に発展
宮崎市は古くから大淀川(おおよどがわ)のすぐ南にある、城ヶ崎(じょうがさき)という地域から少しずつ町が発展してゆきました。
また、かつては赤江港(あかえこう)と呼ばれていた宮崎港において、上方(かみかた:大阪)との交易(商品の物々交換)をする商人たちの町として発展してきました。
上方(大阪)との交易で潤ってきた
つまり、この赤江港から出ていく舟で大量の荷物(商品)を大阪まで運び、また逆に大阪からも舟で大量の荷物(商品)が宮崎までやってきていたのでした。
つまり「物々交換」をやることで、お互いにほしいものを手に入れていたわけです。
これを「交易」といいます。
港には
- 「荷物を載せたり、下ろしたりする人」
- 「荷物を店まで運ぶ人」
など、たくさんの人が働きます。
この赤江港まわりで働く商人たちを中心に、宮崎の町が発展してきたというわけですね。
しかし貨物列車の一般化もともに、港が衰退
しかし赤江港は、大正時代の1923年に日豊本線(にっぽうほんせん)が開通して「鉄道」が宮崎の街を通るようになったのでした。
このことにより、それまで舟で運んでいたのが「貨物列車での輸送」に置き換えられてしまったのでした。
そのため、港の需要が減ってしまい、衰退のリスクが迫ってきました。
川の土砂がたまってしまい、港が浅くなり、船を停められなくなる
また赤江港は、大淀川の河口(最下流部)にある港であるため、川が運んできた土砂がどんどん海底に堆積(たいせき:積み上がること)していってしまいました。
その結果、港の水深がどんどん浅くなってゆきました。
こうなると、大きな船は港に停められなくなってしまいます。
大きな船は(当然ですが)「大量の荷物を運ぶ」ためにあるため、それが出来なくなるのは致命的です。
こうしたことから、まともに船が浅瀬によって停められなくなってしまい、赤江港は急激に衰退してゆきました。
1937年には、赤江港は「宮崎港」に改称されています。
戦後、大規模な工事により港が復活
戦後になると、高度経済成長が進んでいったため、「やはり港はあった方がいい」ということで、宮崎港の復活の機運が高まってゆきました。
そのため、船が停まれるように1958年からは改修工事が始まったのでした。
つまり、巨大な船であっても停められるように、より港の水深をより深く、さらに港をバージョンアップしていったというわけですね。
日向国・宮崎県 「太陽の向かう方向」
宮崎県のことを「日向国(ひゅうがのに)」といいます。
神の国・宮崎
日向(ひゅうが、ひなた)とは、「日の向かう方向」、つまり太陽が照らすという意味です。
先述の通り、古事記(こじき)などの日本神話において、
天照大神(アマテラスオオカミ)の孫にあたる「ニニギノミコト」という神様が、
高千穂(たかちほ)に降臨したこと
と、何かしらの関係があるのではないかと思われます。
日本神話「天孫降臨」の舞台・日向
天照大神(アマテラスオオカミ)は、先述の通り、天や地上を照らす「太陽の神様」ともいわれる女性の神様です。
また、現代の天皇陛下・皇室の祖先とされています。
天照大神・ニニギノミコトの子孫である神武天皇(じんむてんのう)が、大和国(奈良県)に向けて「お船出」をしたのも宮崎県です。
そのため、日向国・宮崎県はまさに「神の国」ともいえるでしょう。
特急「にちりん」の「日輪(にちりん)」は「太陽」を表す言葉です。
この「にちりん」の列車名はおそらく「日向国」から取られたものと思います。
新婚旅行のメッカとなった宮崎

1964年まで、海外旅行は禁止だった
宮崎県は、1960年代の高度経済成長期の頃には新婚旅行のメッカとされていました。
それは1964年までは、海外旅行は禁止されていたからです(※)。
※ただし解禁後も、
- 海外旅行には、何かと様々な制限があった
- 何よりも、旅行費用が高額だった
ため、海外旅行ができるのは裕福層のみに限られていました。
そのため、当時は一般人にとって、海外旅行はかなりハードルの高いものでした。
このようにハワイに新婚旅行に行きたくても行けなかったため、まるで「ハワイのような南国」ということで、宮崎県が選ばれたのでした。
沖縄も、当時はまだ日本に返還されていなかった
じゃあ沖縄県でいいんじゃないの?と思うかもしれませんが、沖縄がアメリカから日本に返還されたのは、1972年のことでした。
そのため、1960年代の当時はまだ沖縄へ自由に旅行に行ける、という時代ではなかったということですね。
多くの「アベック」が、ハネムーンを楽しんだ
このように、高度経済成長期の宮崎には、たくさんの新婚夫婦が旅行に来ていたのでした。
多くのカップル(当時は「アベック」)が、飛行機やバスなどに乗り込み、南国・宮崎を新婚旅行(ハネムーン)の場所として選んだのでした。
飛行機やバスの中が全員カップルだらけというのは、「恋愛離れ」が進んでいる今では、ちょっと考えられない光景です。
令和の現代は、結婚はもはや「贅沢品」!?
たくさんの人口がいて、お金にとても余裕があった時代。
令和の現代ではもはや、新婚旅行は贅沢品といってもいいでしょう。
いや、もはや「結婚は贅沢品」とも呼ばれるような時代ですからね・・・。
荒川和久(あらかわ かずひさ)さんというライター・コラムニストの、
「一人で生きる」が当たり前になる社会
という書籍を、ぜひご参考にされてみてください。
ちなみに日本で初の新婚旅行を行ったのは坂本龍馬であるといわれます。
そのときは、ここ・南九州を訪れていたそうです。
次回は、美々津・日向・佐伯方面へ
次回は、宮崎を出て美々津(みみつ)・日向(ひゅうが)・延岡(のべおか)方面へと向かいます。
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
ちゅうい!おわりに
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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