宮崎からは、日豊本線をひたすら北へ
宮崎駅(みやざきえき、宮崎県宮崎市)を出ると、日豊本線(にっぽうほんせん)にしたがって美々津(みみつ)・日向(ひゅうが)・延岡(のべおか)方面へと北上してゆきます。
宮崎駅から1駅北上すると、宮崎神宮駅(みやざきじんぐうえき)に着きます。宮崎神宮は、後述する初代天皇・神武天皇(じんむてんのう)を神様として祀る神社になります。神武天皇については、後ほど「美々津(みみつ)」のところで詳しく触れてゆきます。
また、かつて江戸時代に高鍋藩(たかなべはん)の存在した高鍋町(たかなべちょう)を通過してゆきます。
「リニア実験線」の跡が現れる
都農駅(つのえき、宮崎県児湯郡都農町)を過ぎてゆくと、右側にはリニア実験線の線路跡が連なっています。これは、1970年代から1996年まで実際に使われていた、かつてのリニア新幹線の実験走行のための線路になります。
現在のリニア実験線は山梨県にあるわけですが、元々は宮崎県にあったのでした。
リニア実験線が1970年代に宮崎に選ばれた理由は、「できれば東京から離れた場所が良かったこと」「地元の宮崎からの多大な協力が得られたこと」などが挙げられます。
そして1996年に山梨県に移転した理由は、宮崎の実験線だと約7km程度と短く、充分な速度試験がやりづらかったことや、またカーブ・勾配もゆるいためにハードな実験ができにくく、充分な実験結果を得るためには不十分だと判断されたためです。
リニア中央新幹線は、2027年の開業にはもはや間に合わないことが確定してしまいました。開業は2030年代になるといわれています。そんな中、品川駅の地下などでは、すでにリニアの駅の工事が行われています。
神武天皇の船出の地・美々津
美々津駅(みみつえき、宮崎県日向市美々津町)に到着します。
ここは、初代天皇である神武天皇(じんむてんのう)のお船出の地になります。
江戸時代からの伝統的な町並み・美々津
美々津港(みみつこう)は、江戸時代は高鍋藩(たかなべはん)の上方(かみかた:大阪のこと)と交易をするための港として栄えてきました。
つまり江戸時代にここで、大阪と商品のの物々交換(トレード)を行っていたのです。この物々交換のことを、交易(こえき)といいます。
つまり美々津のモノ(商品)を(大阪へ)舟に載せて運んで売り、それで得られた利益によって美々津は栄えてきたというわけです。また、大阪からでしか手に入らない商品を、舟で運んできてもらって、商人が美々津の地元で売ったりしていたわけですね。
その「舟で働く人々」「商人たち」が、江戸時代に住んでいた「歴史的建造物」が、今も美々津に残っているというわけです。
そのため美々津(みみつ)の街並みには、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されています。
神武天皇が、奈良の橿原に向けて出港した海岸
神武天皇は、日本の初代天皇です。紀元前660年2月11日に、奈良県橿原市(かしはらし)においてはじめて即位しました。そのため2月11日は建国記念日となっています。
奈良県橿原市と神武天皇については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
鉄道唱歌 関西編 第38番 畝傍山と橿原市 神武天皇の即位した、日本のはじまりの地
その神武天皇が、日向国・宮崎県から奈良県橿原市に向けて出航・船出をした場所が、ここ美々津の海岸になります。
ではなぜ神武天皇がそのとき宮崎県にいたのかというと、それは前回も解説した天照大神(アマテラスオオカミ)の孫のニニギノミコトが、葦原中国(あしはらのなかつくに。神話における「日本」のこと)を治めることを命じられて、日向国に降り立っていたからです。これを天孫降臨(てんそんこうりん)といいます。
そのニニギノミコトの子孫にあたるのがまさに神武天皇にあたるため、より本格的に「日本」という国を造るために、日向国・美々津から奈良県(大和国)へと向かったわけです。
神武天皇は本来、出港の日の「昼」に発つ予定だったのですが、風向きが「順方向」という船が進むのに有利な向きに変わったために、元々昼だった予定を急遽「早朝」に繰り上げたのでした。
そのため、神武天皇は
「起きよ、起きよ」
と、周囲の地元の家の人々を起こして回ったのでした。「急遽出航することになったぞ!」みたいな感じで、村人たちを起こして回ったわけですね。
このことから、美々津町では旧暦8月1日には「起きよ祭り」というお祭りが開かれています。
昔の舟は「風」で動いていたため、「風向き」は舟が進むのにとても重要でした
なので、神武天皇は朝がベストだと判断したのでしょう。
そのために「起きよ、起きよ」と命令したのです。
しかし村人からすると、朝に急にそんな事言われても時間がなかったので、村人たちは神武天皇の着物のほつれに気づいても直す暇がなく、神武天皇が立ったまま着物を縫ったのでした。
そのため、美々津のこの地は「立縫いの里」とも呼ばれています。
地元の住人たちは、神武天皇の出航に合わせて「おもち」を作る予定をしていたのですが、出航の時間が早まったために急いで小豆(あずき)と餅米(もちごめ)を一緒について、「お団子」として神武天皇に渡したのでした。
これを「お船出団子」と言い、これも現在に至るまで美々津の名物となっています。
耳川の戦い
美々津駅を出ると、耳川(みみかわ)という大きな川を渡ります。この耳川は、戦国時代に「耳川の戦い」という合戦が行われた場所でもあります。
耳川の戦い(みみかわのたたかい)は、
1578年に豊後国(ぶんごのくに:大分県)の大友宗麟(そうりん)と、薩摩国(さつまのくに:鹿児島県)の島津義久による戦いです。
結果は薩摩・島津の勝利です。
この「耳川の戦い」は、当時の九州北部で絶大な力を誇っていた大友氏と、九州南部で絶大な力を誇っていた島津氏との戦いです。まるで長野県で武田氏と上杉氏が争った「川中島の戦い」みたいですね。なので個人的には、この「耳川の戦い」は九州版「川中島の戦い」みたいな印象があります。
戦国時代初期以前の大友・島津の関係 とても仲良かった
戦国時代初期までは、豊後・大友氏と、薩摩・島津氏との関係は、長い間はとても良いものでした。後に耳川でケンカする仲とは到底思えなかったのです。というのも、大友氏と島津氏は、お互いの勢力圏には「お互いに干渉しあわない」という、事実上の同盟関係にあったのでした。
薩摩・鹿児島の情勢が不安定な状態が続いていたリーダーの島津氏にとっては、自領の安定を保つ上でも、豊後・大分の大友氏との関係を良好に保っておくことは、とても重要なことでありました。
ただでさえ鹿児島が不安定なのに、そこに漬け込まれて大友氏が攻めてきたら、それはたまったもんじゃありませんからね。
対する豊後・大友氏にとっても、当時は南蛮貿易などで挙げた利益で大分県をうるおしていたこともあり、鹿児島沖を通過する自分たちの貿易船の海上の安全を守るという意味でも、薩摩・島津氏との関係を良くしておくことは、とても重要だったのでした。もし島津氏とケンカしてしまったら、鹿児島沖で豊後の舟が攻撃・撃沈させられたしまうリスクがあったからですね。
このように、島津氏・大友氏の関係は、まさしく同盟関係にあったわけです。
この仲のよい同盟関係の結果、薩摩・島津氏はなんとか不安定な薩摩の領地を落ち着かせていったのでした。
また豊後・大友氏の側も、九州北部で万一争いがあったときに、そこにつけ込んで南から島津氏や伊東氏などから背後を突かれてしまうというような、そんな不安を豊後・大友氏は(仲良くしておくことで)解消できたと考えられています。
豊後・大友家の日向侵攻 ここで仲悪くなる
しかしそんな「蜜月の仲(みつげつのなか:とても仲がよいこと)」も、とある争いで崩れてしまいます。
1572年の「木崎原の戦い(きざきはるのたたかい)」で、日向国(宮崎県)にいた伊東氏が、薩摩・島津氏に敗北してしまいます。木崎原(きざきばる)とは、宮崎県えびの市(=都城市の西にある市)の地名です。
伊東氏は、元々は伊豆半島の、静岡県伊東市にあたる地域から生まれて出てきたた一族です。
その子孫が、まさに日向国・宮崎県までやってきて繁栄していたのでした。
伊東氏は、かねてから島津氏の支配する薩摩を乗っ取ってやろうという欲望があったのでした。この「木崎原の戦い」は薩摩の弱みにつけこんだはずの戦いでしたが、見事に敗れてしまったため、仕方なく宮崎を離れて、親戚の豊後・大友氏を頼ってきたのです。しかし、戦乱の世の中においては、敵の味方は敵です。(島津氏の敵である)伊東氏の味方である大友氏は、島津氏にとっての敵ということになります。ここに先述の仲のいい関係は終わりとなり、島津VS大友の戦う機会となったのでした。
大友宗麟は、島津から逃れてやってきた親戚の伊東家のトップたちに、たくさんの土地を与えて、伊東氏を守ることことにしたのでした。これでは薩摩・島津氏としては嫌味に映る可能性もあり、たまったものではなかったでしょう。
大友宗麟(そうりん)は、九州に「キリシタン王国」を築き上げたい、という欲望を持っていたのでした。大友宗麟は、日本にはじめてキリスト教を布教したフランシスコ・ザビエルと会っており、そのときにキリスト教の素晴らしさを教えられていたため、今ではキリシタン大名として知られています。また、大友氏は南蛮貿易などでとても大きな利益を挙げていたということもあり、その財力を背景に九州北部の地域をほしいままに支配していたのでした。
しかし大友宗麟は、この「耳川の戦い」で、なんと宮崎県にあった「神社」や「お寺」を焼き払うという暴挙に出てしまったのです。これはさすがにやり過ぎであり、地元民の不平不満を買ってしまいました。さらに、このことが大友氏への不信感の元になり、敗北の要因を作ってしまいました。
いくら宗麟本人がキリスト教を深く信仰していたとはいえ、「神道」や「仏教」を信仰している人が多い日本で、さすがにこれをやられた側としてはたまったものではなかったでしょう。
やがて日向地方に進軍してきた大友軍は、一時は薩摩軍を後退させるなどの勢い・奮闘ぶりをみせます。
しかし大友軍の指揮系統はバラバラであり、作戦をめぐって何度も会議で言い争いになるなど、とにかく大友軍にはまとまりがありませんでした。
特に、トップの大友宗麟が(部下が必死で戦っているなかで)後ろで遊んでいたりと、とにかく部下から上司への不信感がたまらなかったのです。
また先述の通りキリシタンでもあったため、「仏教」における「縁起の悪さ」を全く信じることもありませんでした。部下から「この攻め方では縁起が悪いから、やめてください」と言われても無視したのでした。当時はただでさえ、戦いの勝敗において「縁起」や「占い」などを気にしていた時代です。この部下の忠告を無視した結果、大友軍は失敗して敗北となったのです。
当時キリスト教はまだ日本に入ってきたばかりの宗教であり、日本ではまだ馴染みがなく受け入れがたいどころか、当時は圧倒的に「神道」や「仏教」を信仰している人が多かったわけですから、この大友宗麟の意思決定や行動は部下になかなか理解されなかったのでしょう。
大友軍は一時的に薩摩軍を退けたのはいいものの、調子に乗って「深追い」してしまったため(まるで薩摩軍からおびきだされるように)、追いすぎてしまったところを後ろから別の薩摩軍に攻められ、挟み撃ち状態となって身動きが取れなくなってしまいました。
ここで一気に劣勢になった大友軍は、「耳川の戦い」において敗れ、薩摩・島津氏の勝利となったのでした。
しかしその後1586年、豊臣秀吉が「九州平定」によって九州に攻めてきたため、島津氏も秀吉に降伏しています。
延岡駅に到着 旭化成の企業城下町
やがて、延岡駅(のべおかえき、宮崎県延岡市)に到着します。
宮崎県延岡市(のべおかし)は、都城市(みやこのじょうし)についで、宮崎県第3位の大きな都市でもあります。
また延岡市は旭化成(あさひかせい)が創業したときからの工場が数多く存在しており、いわゆる企業城下町として栄えてきた歴史があります。つまり延岡市は、旭化成に勤める職員・関係者やその家族の皆さんたちによって発展してきた歴史がある街ということになります。
台所に欠かせない「サランラップ」は、旭化成の商品(登録商標)です。
実際、市に入ってくる税金の3分の2は旭化成の関係者(職員など)の皆さんによって収められたものであり、また延岡市の市議会議員の3分の1が旭化成の関係者から出て(当選して)います。このように、まさしく旭化成という企業と一体となって繁栄してきた「企業城下町」というわけです。
明治時代、宮崎県の県庁が宮崎市におかれたことから、延岡の地は県庁所在地(=県の中心地)とはかなり遠い場所ということになったのでした。これでは取り残されたり、町の発展から置いていかれるリスクもあります。
そのため、工業都市としてどんどん発展させていこう、という地元民の強い意志のもとで発展してきたのでした。
戦前は「チッソ」が延岡へどんどん進出してゆきました。チッソ株式会社は、明治後期の1908年に「日本窒素肥料株式会社」として創業した、日本の化学工業メーカーです。
チッソは主に熊本県水俣市(みなまたし)を中心として発展してきたのでしたが、高度経済成長期のときにメチル水銀を含む汚水を水俣湾に大量に流してしまったため、水俣病の原因を作ってしまったという負の歴史もあったのでした。しかしそうした危機を乗り越え、現在でも稼働・操業しています。
チッソは戦前に窒素肥料(硫酸アンモニウム/硫安)などの生産を伸ばしてゆきました。窒素(N)は、植物が順調に成長していくという作用があるため、肥料として重宝されたのです。この窒素肥料が非常によく売れるなどして、大成功してゆきました。それにより「日窒コンツェルン」とよばれる巨大な財閥となるまでに至りました。
戦後の「財閥解体」により、それまでの巨大な「日窒コンツェルン」は解体となりました。財閥解体とは、軍事力の肥大化を防ぐために、GHQの命令によって行われたものです。つまり「巨大財閥の財力が、日本の軍事力の増大に大きな影響を及ぼしている」とアメリカ側から判断されたため、財閥を解体させられたというわけです。
この「財閥解体」にともなって、延岡に元々あった日窒コンツェルンの工場は「旭化成」として分離し、再出発したのでした。他にも、日窒コンツェルンから分離して出来た会社に「積水化学」などがあります。
「旭化成」の「旭(あさひ)」の由来は、滋賀県の県庁所在地・大津市(おおつし)にある膳所(ぜぜ)の旭絹織(あさひけんしょく)の工場近くの義仲寺(ぎちゅうじ)に、旭将軍(あさひしょうぐん)こと源義仲(よしなか)の墓があることから、義仲に対して敬意を示してつけられたものです。義仲が数々のいくさを乗り越えて京都に入ったとき、東の「朝日の昇る方向から入ってきた」ため、「旭将軍(あさひしょうぐん)」の異名がついたわけですね。
旭将軍こと源義仲については、以下の記事でもわかりやすく解説しているため、ご覧ください。
鉄道唱歌 東海道編 第41番 粟津と木曽義仲 朝日将軍と呼ばれた武将の悲劇の最期
「化成(かせい)」の由来は古代中国の書物である「易経(えききょう)」にその語源があります。これは、
「より良い方向へ変化・発展する」という意味になります。つまり、常に企業として進化していこう、という意味が社名に込められているというわけですね。
宮崎の秘境「高千穂峡」
延岡市のはるか西・五ヶ瀬川(ごかせがわ)の上流には、高千穂峡(たかちほきょう)という神秘スポットがあります。
高千穂峡(たかちほきょう)は、宮崎県西臼杵郡高千穂町(たかちほちょう)にある峡谷です。峡谷とは、川の水・流れが深く地面を削っていったことろにできる、大きな凹みのことです。
高千穂峡は、美しい柱状節理(ちゅうじょうせつり)が発達した深い谷でもあります。柱状節理とは、六角形や五角形などをした「岩の柱」がたくさん並んでいるような状態をいいます。例えばマリオの土管だらけのステージで、土管が「円形」から「六角形」になったようなイメージです。なぜ柱が六角形になるのかについては説明が難しいですが、複雑な自然現象によってこのようになるのだそうです。高千穂峡の柱状節理は、とても美しいです。
高千穂峡は、阿蘇山(あそさん)の噴火によってたまって積み上がった溶岩が、急激に冷やされて大きな岩のカタマリとなり、それが五ヶ瀬川(ごがせがわ)という川による浸食作用(=水が地面を深く削っていくこと)によってできた、V字型の峡谷ということになります。ちなみに五ヶ瀬川(ごかせがわ)は、末は延岡市の海へと注いでいく川です。
日本神話によると、天村雲命(あめのむらくものみこと)という神様が、先述の天孫降臨のときに、この場所に水が無かったことから、水をここへ持ってこようとしたのだそうです。
これが「滝の水」となって、高千穂峡に「真名井の滝(まないのたき)」として流れ落ちているのだといわれています。
ニニギノミコトは、天界・高天原(たかまがはら)から日向国・宮崎県へと降臨してきたわけですが、宮崎県の南にも高千穂峰(たかちほのみね)という連山があり、そちらもニニギノミコトが降臨してきた山だと伝えられています。
次回は、佐伯・大分方面へ
次回は、延岡駅を出て、佐伯(さいき)・大分(おおいた)方面へと向かいます。
そして「青春18きっぷ最難関区間」ともされている、「宗太郎越え」の区間ともなります。
今回はここまでです!
お疲れ様でした!
【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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