飯田線・野田城~大海の鉄道旅と、野田城の歴史について、鉄道・観光・歴史に詳しくない方にも、わかりやすく解説してゆきます!
野田城駅に到着
前回は三河一宮駅(みかわいちのみやえき、愛知県豊川市)までの行程でした。
今回は飯田線のうち、
- 野田城駅(のだじょうえき)
- 新城駅(しんしろえき)
- 大海駅(おおみえき)
- 鳥居駅(とりいえき)
へと進んでゆく行程となります。
なお、上記はいずれも
- 愛知県新城市(しんしろし)
の駅であり、やがて列車は新城市のエリアへと入ってゆきます。

三河一宮駅からさらに北上すると
- 東上駅(とうじょうえき、愛知県豊川市)
を最後に、新城市(しんしろし)に入ってゆきます。
やがて、
- 野田城駅(のだじょうえき、愛知県新城市)
に到着します。
野田城の歴史
野田城の主・菅沼定盈
かつて新城市に存在した野田城(のだじょう)は、戦国時代にはじめて造られました。
途中で、
- 菅沼定盈(すがぬま さだみつ)
という人物によって大きく改修・バージョンアップされました。
今回の主役はこの菅沼定盈(すがぬま さだみつ)と、もう一人の主役は
- 甲斐(山梨)のスーパー武将・武田信玄
です。
野田城(のだじょう)は、現在の飯田線・野田城駅の、やや南西にありました。
今川氏の下にあった、野田城と菅沼定盈
戦国時代は、菅沼定盈(さだみつ)は今川義元の下についていました。
しかし、1560年「桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)」において主君の今川義元は織田信長によって敗れたため、翌年に今川氏を見限って離反(りはん)したのでした。
すると野田城は今川勢の軍に攻囲されてしまい、仕方なく野田城を今川氏へと開け渡し、ひとまず撤退・退去してしまいます。
さらに翌年の1562年 、定盈(さだみつ)は夜に奇襲をかける「夜襲」によって野田城を(今川氏から)なんとか奪回します。しかし争いなどのせいか、野田城はあまりに損壊が激しかったため、修築・修理のためにあまりにも時間がかかってしまったのでした。
定盈(さだみつ)は、このときの仮の本拠地を大野田城としていたのでした。
大野田城は、現在の飯田線・野田城駅のやや南東にあります。
つまり、野田城駅は線路をはさんで向こう側にあるわけです。
野田城ー飯田線線路(野田城駅)ー大野田城ー豊川ー宇利峠(←愛知県/静岡県→)ー浜名湖
武田信玄が攻めてくる
1571年になると、 甲斐国(かいのくに)・山梨県を支配していた戦国時代最強の武将・武田信玄によって、
- 遠江(とおとうみ:静岡県西部)
- 三河(みかわ:愛知県東部)
方面に対する侵攻が始まります。
つまり、武田信玄は山梨県からずっと南西に攻めてきて、静岡県→愛知県みたいな感じで攻めてきたのです。
このとき、武田軍・武田家の家来らの襲来により、大野田城は大破してしまい、炎上してしまいます。
そのため定盈(さだみつ)は、仕方なく修築中であり修復に時間のかかっていた野田城を再び本拠地にしたといいます。
1573年、武田信玄がついに野田城に攻めてきたため、「野田城の戦い」が始まります。
定盈(さだみつ)も、とうとう最強の武田信玄と戦わざるをえなくなったのです。
この戦いでは、3万人もの軍を率いて攻めてきた武田軍によって、水・食糧といった補給を断たれてしったのでした。
そのため、野田城に立てこもっていた定盈は、ついに耐えきれなくなって武田信玄に対し、降参・降伏してしまつたのでした。
そして野田城を仕方なく明け渡すことにするのでした。
しかし後述するように、その後武田信玄が病死してしまったため、野田城は戻ってきています。
「野田城の戦い」を、さらに詳しく
この「野田城の戦い」について、さらに詳しくみてゆきましょう。
1573年1月に静岡県西部で行われた
- 「三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)」
において、武田信玄は織田信長・徳川家康の連合軍に勝利します。
武田信玄は「戦国時代最強」というだけあって、彼がその後死ぬまでは織田信長・徳川家康の両者はまったく歯がたたなかったのです。
武田信玄が死んでからは、織田信長がどんどん台頭していくことになります。
このあと武田信玄の軍は、遠江(静岡県西部)を出発し、野田城を目指して進軍してゆきます。
そして何日間の宿泊を重ねて、
- 宇利峠(うりとうげ)
という静岡県・愛知県の県境となる峠道を通り、野田城方面(新城市方面)を目指しました。
ちなみに宇利峠とは、
の方向への、ショートカットとなる峠道です。
やがて武田信玄の軍は、豊川(とよかわ)をわたって、野田城を包囲したのでした。
野田城ー飯田線線路(野田城駅)ー大野田城ー豊川ー宇利峠(←愛知県/静岡県→)ー浜名湖
野田城は、敵対する徳川側の城でもあります。
そのため、武田信玄にとって落としておきたい城であったことには違いなかったのでした。
一方の徳川側は「三方ヶ原の戦い」による敗戦によって疲弊しており、とても戦線を維持できるような状態ではなかったのでした。
そのため、まともに戦いが出来ない状況にあり後詰(後ずさり)がやりにくい状態にあったのでした。
武田信玄との決戦がはじまる
野田城は、戦国時代全盛の当時としてはかなり小さい城であり、「三河物語」という江戸時代の書物の中では、
と言われるほどの小さな城でした。肝心の兵力も、トップの菅沼定盈と援軍合わせても500人くらいしかいませんでした。
しかし複雑な地形の中に建てられたような城だったため、武田側の大軍が侵入してくるには選択肢がかなり限られており、そんな武田軍を相手にするには有利な条件の城だったのでした。
これに対して武田軍は、わざわざ地元の甲斐・山梨の金山掘(きんざんぼり)の職人を呼び寄せたのでした。
山梨県には「金(ゴールド)」がザックザクと採れる「金山(きんざん)」があり、そこで働く職人たちは鉱山を掘っていくのが得意だったのです(それが仕事だから)。
そのため、彼らに野田城の地下を掘らせてゆき、地下を流れる水の手(水原)を断ち切ったのでした。
こうして、野田城への水の補給を絶つことで、籠城(ろうじょう)を諦めさせて落城に追い込む、という作戦をとったのでした。
野田城は1ヶ月は持ちこたえたのでしたが、最後には籠城を諦め、城にいる兵の命を助けてもらうことを条件に降参・降伏・開城したのでした。
そして定盈は捕虜として、武田軍に連行されたのでした。
野田城の戦いのあと
こうして「野田城の戦い」の敗戦によって野田城が武田側に落ちたことで、徳川家による三河地域の防衛網が崩壊してしまいました。
このため、徳川家の愛知県東部における影響力・防御力が弱まってしまい、徳川家の重要拠点であった
- 吉田城(豊橋城)
- 岡崎城(愛知県岡崎市。家康のふるさとです)
がピンチに陥ってしまったのでした。
しかしこの後、武田信玄の病状が悪化したため、武田軍は侵攻を止めて甲斐(山梨県)へと引き返してゆきます。
その道中で、1573年に武田信玄は亡くなってしまったのでした。
そのあと定盈は徳川家と武田家の人質を交換するという条件で、解放されたのでした。
武田家にとっても(信玄の死によって)ピンチに陥ったため、もしそこに漬け込まれたらマズイために野田城側に対して有利な妥協案を提示したのでしょう。
戦国時代はこのように「戦う」ことだけではなく
- 「お互いに刺激しない」
- 「妥協する」
- 「なるべく不必要な戦いは避ける」
という政治手腕も必要だったのでした。
信玄の死の報道が世間に広まった直後に、野田城は1574年に定盈によって再び奪還されました。
信玄の死は、甲斐・山梨にとっての大幅戦力ダウンを意味するのと同時に、これまで信玄に抑圧されていた側(特に織田・徳川)にとってはようやく復讐のチャンスの到来となったのでした。
徳川側の定盈は再度野田城に城主として入城することになり、武田信玄の病死によって、再び野田城に戻ってきたというわけですね。
現在の野田城の跡地は、草や雑木などが生い茂っている状況となっており、武田信玄たちがここで戦った跡を物語っています。まさに
といった感じですね。
1590年になって、天下統一を果たした豊臣秀吉の命令によって徳川家康が関東へ「人事異動」になると、定盈もそれについてゆくことになります。
新城駅(新城市)に到着

愛知県新城市(しんしろし)は、2005年に、
- 元々存在した新城市
- 鳳来町(ほうらいちょう)
- 作手村(つくでむら)
が、それぞれ合併して誕生しました。
つまり、元々存在した新城市に、周辺の町村が合併されて新しく出来た市、というイメージですね。
新城市は、東側は
- 宇利峠(うりとうげ)
を越えたところで静岡県と接しています。
新城(しんしろ)の由来は、現在の新城市役所の近くにある「新城城(しんしろじょう)」に由来しています。
これは1532年に菅沼定継(すがぬま さだつぐ)という武将が、豊川のほとりに築いた城になります。
菅沼定継は、ここまでたくさん登場してした菅沼定盈(さだみつ)の祖父にある人物です。
かつての豊川鉄道の終着・大海駅に到着
やがて、大海駅(おおみえき、愛知県新城市)に到着します。

大海駅は、明治時代にまだ豊川鉄道という私鉄だった頃の、豊川鉄道の終着駅でした。
大海駅は一時期、長篠駅(ながしのえき)とも呼ばれていました。
大海駅は明治時代の1900年に、豊川鉄道によって開設されました。
戦時中の1943年に国有化されて「飯田線」となるまでは、
- 南(豊橋方面)へと向かって延びる豊川鉄道
- 北(三河川合方面)へと向かって延びる鳳来寺鉄道(ほうらいじてつどう)
との、それぞれの境界駅だったのでした。
この「豊川鉄道」「鳳来寺鉄道」からなる私鉄時代は、大海駅は一部の期間を除いて、
- 長篠駅(ながしのえき)
という駅名だったのでした。
豊川鉄道は、1897年から路線を豊橋駅から徐々に北へと延伸させていき、1900年に新城駅からさらに延びて、ついに大海駅へと到達したのでした。
大海駅は、1900年の開業当初は現在と同様に「大海駅」という駅名でした。
しかし、3年後の1903年に、駅の東側を流れる豊川の向こう岸に存在する「長篠」の地名をとって、「長篠駅」と駅名変更したのでした。
ちなみに長篠(ながしの)は、1575年に「長篠の戦い(ながしののたたかい)」という戦いがおこった有名な場所です。
これは織田信長の鉄砲隊が、武田勝頼の騎馬隊を破った戦いとして知られます。
この「長篠の戦い」が有名なので、「長篠駅」に変えたのかもしれません。
現在の長篠城への最寄駅である
- 長篠城駅(ながしのじょうえき、愛知県新城市)
がかなり後の1924年の開業となったため、当時の長篠城への最寄駅だった大海駅が「長篠駅」と名乗るのに最もふさわしかったのでしょう。
「長篠の戦い」については、次回解説してゆきます!
大海駅は、先述の通り豊橋方面から伸びてくる路線の終着駅でした。
そのため、この頃の大海駅周辺の地域は、
- 静岡県の最深部である、奥三河(おくみかわ)
- 同じく、北遠州(きたえんしゅう)
- さらには、長野県南側にあたる南信濃(みなみしなの)
へ向かう方面への「玄関口」としての役割が生まれたのでした。
おそらく、明治時代まだ大海駅よりも先の方面へは「馬車」などが出ていたのかもしれません。
そのため、
- さらに北の方面へと向かう旅客
- 乗り換え客
の人々が利用するための旅館・飲食店が次々に立ち並んでゆきました。
さらには、運輸業者なども多く集まってくるようになりました。
こうして、大海駅の周辺地域は、人やモノがたくさん集まってくる中心地として栄えていくようになったのでした。
1923年になると、鳳来寺鉄道(ほうらいじてつどう)が、長篠駅(大海駅)を起点として、さらに奥地の
- 三河川合駅(みかわかわいえき、愛知県新城市)
まで延ばすために路線を建設してゆきます。
これにより長篠駅は「二つの鉄道会社の境界駅」という位置付けになりました。
しかし、二つの鉄道路線は「豊橋発、三川河合ゆき」みたいな感じでお互いに直通運転を行っていたのでした。
そのため、長篠駅(大海駅)は実質的には途中駅・中間駅という感じの位置付けとなっていたのでした。
また三河川合駅ができると、さらに北への
- 北遠地方(静岡県北部)
- 南信方面(長野県南部)
への玄関口としての役割は、大海駅から(新たな終着駅である)三河川合駅へと移っていったのでした。
戦時中の1943年、豊川鉄道と鳳来寺鉄道は国によって買収・国有化され「飯田線」となりました。
これに伴って、長篠駅も駅名が1900年の開業当時と同じ「大海駅」となり、現代に至っています。
次回は、長篠方面へ
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
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