飯田線・中部天竜駅の鉄道旅と、「佐久間ダム」の歴史について、鉄道・観光・歴史に詳しくない方にも、わかりやすく解説してゆきます!

※中部天竜駅(静岡県浜松市天竜区)
今回は飯田線・中部天竜駅に到着します。さらに、近隣にある屈指の巨大ダム・佐久間ダムの歴史に迫ってゆきます!
とても広い!浜松市天竜区
前回も最後で解説したように、飯田線(いいだせん)は途中、愛知県から静岡県に入ります(その後、長野県に入ります)。
ここで静岡県浜松市天竜区の地域ということになります。
静岡県浜松市天竜区(てんりゅうく)は、非常に広い面積を誇ります。
天竜区は、
- 浜松市の数ある「区」の中で、最も広い
- 浜松市の面積の約6割を占めている
- 日本のいわゆる「区」の中で、静岡市の葵区(あおいく)に次いで、第2位の面積を持つ
といった様々なスゴい特徴があります。
あまりに広いため、天竜区の面積だけで広島県広島市全体の総面積をも上回っています。
それだけ広いということです。
天竜区は山岳地帯がとても多いため、主に林業が盛んです。
しかし、全国の多くの山村地帯と同じように過疎化が進行しているため、日本の「区」の中では、人口・人口密度ともに最少の区となっています。
つまり、とても広い面積に対して(過疎化が深刻なことにより)人口が少ないために、人口密度がとても低くなっているというわけですね。
浜松市天竜区は秘境駅・小和田駅(こわだえき)に象徴されるような険しい山奥の地域までもが含まれます。
そのため、たとえ同じ浜松市であっても「ハーモニカビル」(浜松アクトタワー)に代表的されるような大都市・浜松のイメージとは全く異なり対照的です。

※浜松市の秘境・小和田駅(静岡県浜松市天竜区)

※大都会・浜松のイメージ。(浜松駅・静岡県浜松市)
これは東京都で例えるなら、東京都心部と奥多摩(おくたま)の秘境感みたいなギャップがあります。
中部天竜駅に到着!
天竜区に入りさらに北上すると、やがて
- 中部天竜駅(ちゅうぶてんりゅうえき、静岡県浜松市天竜区)
に着きます。


中部天竜駅は特急列車も止まる駅であり、またこの駅を始発・終着としている列車もあるため、飯田線の一つの境界線のようなイメージの駅です。
そして、この中部天竜駅よりも北は、飯田線らしい本格的な山岳地帯に入ってゆきます。
中部天竜駅(ちゅうぶてんりゅうえき)の駅名は、天竜川(てんりゅうがわ)を挟んだ向こう岸の地名である「中部(なかっぺ)」に由来しています。
ちなみに「中部」という漢字は、現在の行政上の地名としては「なかべ(佐久間町中部)」と読みます。
当初は「なかっぺてんりゅう」という読みだったのですが、途中(1943年)から現在の読み方「ちゅうぶてんりゅう」に変更されたというわけです。

中部天竜駅は、飯田線の原型となる私鉄の鉄道会社である三信鉄道(さんしんてつどう)によって、1934年に当時の終着駅・佐久間駅(初代)として開業しました。
ちなみに今の一つ隣の佐久間駅は、2代目になります。
そして当時は、南の東栄駅から北へ伸ばしてきたときの終着駅でした。
その後、1937年に北の天竜峡駅までの区間が全通しています。
しかし険しすぎる山岳地帯に線路工事をしたため、巨額の建設費用がかかってしまいました。
そのため、あまりにも運賃が高すぎて人がまともに乗れないような状態になっていたのです。
そこで、戦時中の1943年、三信鉄道が国に買い取られたことで国有化され「飯田線」となりました。
このとき
に改称しました。


中部天竜駅のやや北西にある「佐久間ダム」
中部天竜駅は、戦後にやや北西にある佐久間ダムの建設をするために必要な資材などを運ぶための重要な役割を果たしてした歴史があります。
佐久間ダムは、ものすごい発電力を誇る水力発電と、また戦後日本の土木技術における歴史の原点となった、まさに日本のダムの歴史に刻まれるような事業だったことでも知られます。
そもそも、ダムの役割とは?あと「水力発電」って何?
そもそも、ダムの主な役割って何?というところから押さえてゆきましょう。
- 洪水が起きたときに、川が氾濫しないように「堤防」と「水門」で水の量を調節する。
- 干ばつや水不足に陥ったときに備えて、水を貯めておいて水資源を確保する。
- 落ちてくる水の力を利用して、水力発電を行う。
などの目的があります。
このうち、佐久間ダムが造られた目的は3番目の水力発電がとても大きいです。
水力発電とは「水が高いところから低いところへ落ちる力(位置エネルギー)」を利用して発電する方式です。
ダムの水源となる天竜川は、険しい谷を大量の水が突き進んでいくようなとても勢いある川です。
なので、水力発電のエネルギーとして使うにはもってこいだったというわけです。
あとアルプスから出てくる豊富な水も混じって豊富なエネルギー源となっているため、枯渇するリスクも少ないです。
さらには、火力発電のように石炭や石油を大量に燃やしたりもしないため、地球環境にもやさしいです。
こうして聞くと水力発電ってすごいメリットばかりじゃないか?と思うかもしれません。
しかし、佐久間ダムのように天竜川(のような川)や険しい谷という条件が揃わなければ、そもそもダムの建設や水力発電を行うことができません。
それ以前にダムの建設で莫大な費用と人力が必要であり、佐久間ダムのように危険な工事で多大な犠牲者が出るなど、そう簡単にはいかないのです。
なので水力発電は必ずしもメリットばかりではないため、その導入には国会の意見を交えるなど、国全体で慎重になる必要があるということですね。
佐久間ダムの水力発電がとても強い要因は、
- 天竜川からくる、豊富な水の量
- 湖から発電所まで、133mもある高落差
にあります。
これだけ強い水の勢いがあるために、たくさんの水力発電ができるというわけですね。
佐久間ダムの電力は、中部電力と東京電力へ供給される
佐久間ダムにおいて発電された電気は、中部電力と東京電力へそれぞれ送電・供給されています。
中部電力の送電・供給範囲は、
- 愛知県
- 岐阜県(一部地域を除く)
- 三重県(一部地域を除く)
- 静岡県(富士川よりも西側の地域のみ)
- 長野県
となっています。
東京電力の送電・供給範囲は、
- 関東地方の1都・6県
- 山梨県
- 静岡県(富士川よりも東側の地域のみ)
となっています。
ちなみに、日本では
- 静岡県の富士川
- 新潟県の糸魚川市(いといがわし)
あたりを境に、
- 東側は50Hz
- 西側は60Hz
の電気が送られることになっています。
なぜ富士川(糸魚川市)が境目になっているのか?というと、明治時代に電気事業が始まった時に、
- 関東では、ドイツから50Hzの発電機を
- 関西では、アメリカから60Hzの発電機を
それぞれ輸入して導入されたから、という歴史的経緯があるためです。
そして、その時の仕様が今まで変えられることなく、現代に至るまで引き継がれているため、こうなっているわけですね。
佐久間ダムの歴史
なぜダム建設に佐久間の地域が選ばれたのか?
天竜川は、佐久間ダムが出来るずっと以前から
- 「夏にたくさんの雨が降る地域であること」
- 「冬にたくさん雪が降ること」
によって、年間を通じて水の量が豊富になることが知られていました。
また、日本の川は海外の川と比較して、流れがとても速いです。
それは日本列島は狭い上に山脈がとても多いため、高い標高差を短い距離で流れます。
そのために、日本の川は傾斜が急になり、険しい谷間をぬいながら進むため、とても流れの速い急流のものが多くなっています。
天竜川は、こうした条件が他の地域や川と比較しても抜群に揃っています。
そのため、水力発電を行う上ではとても理想的な河川であることから、早くも大正時代から水力発電の構想が持たれていたのでした。
なぜ佐久間ダムが必要になったのか 戦後の電力不足
最初は1927年に、各地でダムが立て続けに作られてゆき、天竜川の水力発電の事業は次々に加速して行くのでした。
しかし、様々な技術的な制約により、当時の技術ではまだ佐久間ダムの建設は難しかったのです。
戦後になって復興が進んでいくと、民間への電力の需要は一気に増大してゆきました。
日本が復興してくると人口が増えてゆき、また工場や民家もどんどん増えてゆきます。
こうなってくると、たくさんの電気が必要になってくるわけです。
電気が足りないと「停電」を起こすリスクが出てきます。
しかし、
- 発電所などの施設が戦争中の空襲によって破壊されていたこと
- 電気が足りないことで発電所を酷使したことによって、設備の故障が相次いだこと
などの事情から、とても電力の供給が追い付いていませんでした。
こうして電力需給のバランスが崩壊してしまい、日本は極端な電力不足に陥ってしまい、停電が頻繁に起こってしまったのでした。
工場などもまともに稼働せず、産業の戦後復興にかなりの影響が出ていました。
電気がまともにつかないと、夜も怖くてなかなか出歩けないという状況にもなるでしょう。
暗いと犯罪も起こりやすそうです。
そこで、こうした電力不足だけでなく、当時の課題だった
- 「水害の頻発」
- 「食糧不足」
などにも同時にも対応していくために、国はダムを建設することによって、
- 治水(洪水をコントロールすること)
- 電力供給
- 食糧供給の改善
を図っていこうとしたのでした。
国の計画における佐久間ダム建設の目的としては、
- 天竜川の上流から治水(洪水などのコントロール)をすること。
- 川の速さ・落差を利用して、ダムを用いた水力発電をすること。これにより、電力不足を解消すること。
- 北の長野県・伊那(いな)盆地への灌漑(かんがい:農業のために水を引いてくること)を行うこと。
- ダムを豊富な水源として、静岡県西部と愛知県東部地域の灌漑を行うこと。
を、それぞれ目的として掲げたのでした。
このため、天竜川の中流部に大規模なダムを建設するという必要に迫られたのです。
こでベストな立地として真っ先に候補として挙げられたのが、佐久間地域だったというわけです。
この地点は、両方の岸が険しい断崖になっていてV字型の谷を形成しています。
また、
- 地質も良好であったこと(崩れにくい、丈夫であるなど)
- 天竜川の水が、勢いよく豊富に貯まってくるような場所だったこと
などの理由から、ダムを建設するにはもってこいという理想的な場所だったのでした。
それまでは、ダム建設が様々な理由により不可能だった
佐久間ダムの構想は戦前から「あったらいいな~」程度の認識で存在していたのですが、当時の技術では以下の様々な理由により不可能だったのでした。
まず、ダムの両側はまるで断崖絶壁のようになっており、外への通路がろくに存在しませんでした。
そのため、川の上を舟で進む以外に輸送手段がありませんでした。
通路がまともに無い状態だと、工事で掘り出した砂利(じゃり)をまともに運ぶことは難しかったのです。
まさか小さな舟に、何十メートルにも積み上がったような大量の砂利(じゃり)を載せて運ぶわけにはいきませんからね。
もしこれを無理やりやると
- 人が乗れない
- 舟が沈んでしまう
- 砂利が舟からこぼれて、川に流れてしまう
などのリスクもあります。
しかしこの問題は、戦後に中部天竜駅への通路を造ったことで解消しています。
また、トロッコや「もっこ(運ぶための入れ物)」を使用していた当時の土木技術では、ダムの施工がとても難しくて不可能だったことが挙げられます。
しかし、これは後述するように、戦後にアメリカの最新鋭の巨大重機(油圧ショベル)を導入することで解決しています。
天竜川を流れる水の量は、特に春から夏にかけてがピークとなります。
梅雨をはさむと、より多くの水が川を強烈に流れるようになります。
このため、ダム本体を建設する前段階・前準備として、こうした多雨期の膨大な川の流れ・大量の水を迂回させるために仮の排水路トンネルを建設する必要がありました。
つまり、ダムが決壊してしまわないように「水を逃がしてやる経路」を事前に作っておく必要があったのです。
しかし、この「排水用トンネル」を秋~冬という雨の少ない期間に完成させることは、当時の土木技術ではまだ難しく、排水用トンネルが無いとそもそもダム建設自体が危険すぎたというわけです。
もし洪水が襲来すれば大変なことになりますからね。
以上の様々な理由や制約により、戦前~戦後直後までは佐久間のダムの建設は不可能だったのでした。
そのため、いずれの事業者も「ダム建設」をしたいとは思いつつも、結局は構想のままで終わっていたのでした。
アメリカの重機(ショベル)を導入し、一気に掘り進む
しかし戦後になり、電力不足や人口増加などの事情から、世間では停電が頻発するようになってしまいました。
こうした電力不足の問題を解消するためにも、そして水力発電を行うためにも、佐久間ダムの建設計画を避けて通ることは出来ませんでした。
国は佐久間ダムの建設を重点的にやっていくことが避けられなくなり、ついにアメリカの「重機」を導入したダム建設を行うことが決定したのでした。
「重機」とは、いわゆるパワーショベルなどの機械です。
その役割として、例えば
- 地面を一気に掘ったり、
- 出てきた土砂を、大量にトラックに積み込んだり
することができ、工事の効率が一気に上がります。
これがあると、それまでのように
- わざわざ手で掘って、
- 手で積んでいた
・・・というような、気が遠くなるほどの膨大な作業から解放されることができます。
しかし1950年頃は、日本における重機の導入・運用の状況は、まだ充分とはいえない状況だったのでした。
日本ではまだ重機を操作するための技術が未熟だったため、なかなかうまく使いこなせずに、故障まで起きていました。
そのため、せっかく導入した重機の稼働率は半分ぐらいしかありませんでした。
つまり、当時の日本の技術ではなかなか巨大なパワーショベルを使いこなせなかったというわけです。
このため、当時土木技術の最先端を進んでいたアメリカの重機を導入して、また技術を学んでいこうとしたのでした。
1952年には当時のアメリカに学ぼうと、日本人はアメリカのダム建設を視察しに向かったのでした。
そしてその現場では、巨大なパワーショベルが大迫力に動いていた光景を、日本人は目(ま)の当たりにして衝撃を受けたということです。
こうして、アメリカの重機から大きなヒントを受けて、日本のダム建設にも応用していったのです。
ダムに水没することになる村に配慮して、工事進行
こうして、アメリカから最新鋭のパワーショベルを導入していざダムを工事!というところですが、ダムを作るには川の近くに住んでいた村人への配慮が必要です。
つまり、ダムを造るとそれまで存在していた村が集落は、ダムの貯まった水の下に水没してしまうからですね。
ダム建設工事は、水没することになる村の住民たちに配慮して、じゅうぶんな補償(住民の理解や、引っ越し費用の負担など)についての確認がとれてから始められたのでした。
まずは、パワーショベルなどの大型重機や、建設に必要な資材(材料)などを運搬するための道路が必要となります。
そのため、工事用の道路を建設するというところから着手したのでした。
ダム現場のすぐ近く、約3kmのところに中部天竜駅があるため、遠い所から運んで来るのは鉄道による輸送によって、対応することができたのでした。
やがて、運搬用の道路が完成したことで、重機やコンクリートなどの資材の運搬は、それまでとは比べ物にならないほど極めてスムーズに行われるようになったのでした。
これにより、工事期間の短縮に成功したのでした。
こうして、佐久間ダムは1956年に完成することとなりました。
日本の土木工事の歴史を変えた、佐久間ダム建設
佐久間ダムの建設は、日本の土木の歴史において「金字塔」としてたたえられています。
その理由は、先述のパワーショベル導入などにより、近代的で進んだ工法を確立したことで、後に次々に造られていく日本各地のダム建設において応用され、とても大きな影響を与えたことです。
それまで土木技術において発展途上だった日本でしたが、これをきっかけに日本国外に対しても「日本の技術がスゴい」んだということを示す大きなきっかけになったことなどが挙げられます。
また、佐久間ダムの完成は、敗戦による暗い影響をずっと引きずっていた日本国民にとって光を与え、注目を浴びたのでした。
当時の郵政省は、佐久間ダムの完成を記念して、1956年に「佐久間ダム竣工記念(しゅんこうきねん)」という切手を発行したのでした。
これは、1950年代~60年代当時に流行した切手ブームの影響もあって、多くの売り上げを挙げたのでした。
多くの人が工事で犠牲になった、佐久間ダムの教訓
しかしこうした栄光の裏には、危険なダム建設中における労働災害が原因で犠牲になってしまった、96名の労務者の存在を忘れてはならないのです。
険しくて危険な峡谷において、まるで前例が無いような慣れない作業を行ったこともあり、
- 高い場所からの転落
- 落石
による被害や犠牲が相次いでしまったのです。
1954年にはセメントミキサー(セメントを混ぜるための車両)が落下してしまい、一度に8人が亡くなるという、痛ましい事故も起きてしまいました。
こうした死亡災害が発生する最大の原因は「安全意識の欠如」にありました。
佐久間ダムより以前の土木工事の現場ではヘルメットがほとんど着用されていませんでした。
佐久間ダム工事でもヘルメットをかぶっていた人はほぼ誰もおらず、これが死亡事故の増加につながったたとして、国会でも問題になったのでした。
現在では、危険な工事現場で作業するときはヘルメットの着用が法律(労働安全衛生法)で義務付けられています。
こうした「危険な工事現場における安全管理対策」のさきがけとなったのも、佐久間ダムの工事だったのでした。このときの佐久間ダムの教訓が、現在にも生かされているということです。
「高度経済成長の日本を支える」という大きな使命のもとで、天竜川に命を落としてしまった96名の冥福を祈るため、佐久間ダムには慰霊碑が建立されています。
そしてこの佐久間ダム建設工事についての映画が制作され、大ヒットとなったのでした。
また、学校においても教育のためにこの映画は用いられました。
こうした映画を観た影響で、土木技師を志すようになった若者が増えるなど、第二次世界大戦での敗戦から立ち直ろうとしていた日本国民に、大きな希望と勇気を与える作品となったのでした。
次回は、相月・向市場・水窪・大嵐・小和田方面へ
次回は中部天竜駅を出て、
- 相月(あいづき)
- 向市場(むかいちば)
- 水窪(みさくぼ)
- 大嵐(おおぞれ)
- 小和田(こわだ)
方面へ向かってゆきます。
いよいよ、飯田線ならではの本格的な険しい山岳地域・秘境地域へと向かってゆきます!!
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
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