今回は、滋賀県・琵琶湖の回りをよりじっくり廻っていこうかなと思います!!
大津駅を下ってゆき、琵琶湖へ
東海道線(琵琶湖線)の駅である
- 大津駅(おおつえき、滋賀県大津市)
からまっすぐ北へ下ってゆくと、日本一の湖である
- 琵琶湖(びわこ)に到着します。

まずやってきた感想としては、相変わらず広いなぁ~ということです。笑
琵琶湖周辺にはこれまでにも何度も来る機会があったのですが、やはり何度来ても琵琶湖の広大・雄大な景色には圧倒されますね!
海のない滋賀県で、とても重要だった琵琶湖

滋賀県は、海のない内陸県です。しかしその代わり、琵琶湖(びわこ)という海に代わる日本一の湖があります。
滋賀県は、昔は近江国(おうみのくに)と呼ばれました。
海のない滋賀県(近江国)において、琵琶湖の存在はとても貴重であり、
- 古くから水運・水利・魚釣りに用いられてきた
- 観光・芸術の拠点にもなってきた
という、人々の暮らしには欠かせない重要な役割を担ってきました。
- 水運:舟に載せて、大量の荷物を運んだりする。昔は鉄道もトラックも無かったので、舟で荷物を運んだ方が効率が良かった。
- 水利:水をうまく利用すること。例えば、農業・工業・生活用水などに応用する。ちなみに、こうして水を自由に使える権利のことを「水利権(すいりけん)」という。
- 魚釣り(漁業):人々が食べる魚を釣る。もちろん自分達が食べる魚を釣る他、他へ売って利益を出すための魚を釣ったりする。
- 観光・芸術:近江八景(おうみはっけい)に代表的されるように、昔から美しい琵琶湖の景色は詩(うた)や絵画(かいが)に残されてきて、人々に楽しみや娯楽を与えてきた。

琵琶湖は先述の近江八景(おうみはっけい)といった、様々な景勝地を構成する湖としても知られます。
近江八景(おうみはっけい)とは、琵琶湖周辺の代表的な8つの景色のことです。詳しくは、以下の記事をご覧ください。
鉄道唱歌 東海道編 第39番 近江八景 琵琶湖周辺の8つの素敵な景色に会いに行く
琵琶湖の歴史
かつて、南から北(現在地)へ移動してきた!?

琵琶湖が生まれたのは、なんと約440万年前までさかのぼります。
日本一高い山・富士山の誕生は約10万年前ですから、琵琶湖はその44倍も古いというわけです。
琵琶湖って、実はすこく古い湖だったんだね!
そして琵琶湖は、やや南の三重県伊賀市(いがし)あたりにありました。
伊賀市は、琵琶湖のやや南にある、内陸部の盆地(伊賀盆地)にある街です。
そして様々な複雑な要因(地理の専門じゃないので、私は残念ながらわかりません(^^;)によって、現在の位置に移動(北上)してきたのです。
つまり約440万年ほど前に琵琶湖が生まれたのは、なんと三重県伊賀市だったということになります。
三重県伊賀市(いがし)は先述の通り、琵琶湖の南の内陸部にある盆地の中にある街であり、あの松尾芭蕉の出身地として知られます。
また「忍者の里」としても知られています。
つまり琵琶湖は、長い年月をかけて北の現在地へ移動してきたのです。
古い琵琶湖の北上について、もう少し詳しく
約440万年前に伊賀市のあたりに誕生した赤ちゃん琵琶湖ですが、この赤ちゃん琵琶湖はかつての
- 大山田村(おおやまだむら:現在の伊賀市)
の位置にあったため、大山田湖(おおやまだこ)とも呼ばれます。
この大山田湖(赤ちゃん琵琶湖)は、ここから少し北上してゆきます。
約300万年ほど前になると、現在の
- 関西本線・佐那具駅(さなぐえき、三重県伊賀市)
のあたりの阿山(あやま)地方のあたりにまで、少し北上してきたのでした。
さらに時代が進み、約260万年ほど前になると、琵琶湖はさらに北上して、甲賀市(こうかし)のあたりまでやってきます。
甲賀市は、現在の琵琶湖のやや南にある街です。
この時点では甲賀市の水口(みなくち)地域あたりにまで広がっていったのでした。ここは江戸時代までの
- 「東海道」の宿場町・水口宿(みなくちしゅく)
のあった場所ですね。
かつての古い琵琶湖は、水(川)が流れ出ていく方向は東側・三重県の伊勢湾方面だったといいます。
地理的には伊賀市からだとそちら(伊勢)の方が近いことと、川の傾斜が伊勢(東側)寄りだからですね。
しかし琵琶湖が北上してくると、京都・大阪方面(西側)に川の流れの向きが変わったと考えられています。
つまり、ここまで北上してくると、川の傾斜が東の伊勢方面には下ってはゆかず、西の大阪湾方面へと下っていくわけです。
今でいう瀬田川→宇治川→淀川(よどがわ)のような感じですね。
現在の琵琶湖は、もう北への移動はしていないと言われています。
なので今後は、福井・敦賀方面へと移動(北上)していくこともないでしょう。
安土桃山時代以降の琵琶湖 信長が安土城を築く
織田信長の時代においては、大津市よりも北東の安土城(あづちじょう)を拠点にして、琵琶湖をうまく管理して活用していこうとしてゆきました。
かつて安土城は、琵琶湖に接していました。
それは織田信長が琵琶湖の便利な水運を利用して、京都方面とのアクセスを良くしようとしたことが考えられます。
しかしそれ以降、
- 琵琶湖と安土城との間に、土砂(どしゃ)が堆積(たいせき)していったために、
- 砂が徐々に湖の底にたまってゆき、
- 湖は浅くなり、
- しまいには「陸地」になってしまった
のでした。
これで、
- 琵琶湖東岸と安土城は陸続きになってしまい、
- 湖が縮小したことで、舟が止めにくくなってしまった
というわけです。
また、この土砂が積み上がったことで砂の陸地である「砂州(さす)」ができ、これによって琵琶湖から切り離された「小さな湖」も出来ました。
このように琵琶湖(の東岸)と安土城は陸続きになってしまい、城に接した港としての意味が薄れてしまいました。
また、城の下に陸地が広がったことで、そこから敵に攻められるリスクもあり、防御力もダウンです。
城の下がすぐ海ならば、海が自然のバリヤーの役割を果たしてくれて防御力になるからですね。
浅くなって消えてしまった湖岸には、もはや舟を止めることができなくなりました。
そのため安土城は、「湖に面した城」としては、まともに機能しなくなってしまいました。
そのため仕方なく、豊臣秀吉・徳川家康の時代になるつれて、港は
- 大津市の膳所(ぜぜ)
- 彦根の港
などに、その地位を譲ることとなったのでした。
琵琶湖の面積は、縮小していっている
このように琵琶湖の面積は、自然の土砂の堆積(つまり、湖の底に砂がたまって浅くなり、陸地になること)によって、どんどん縮小していっているのです。
他にも琵琶湖の面積が減少する要因として、
- 農業のために、陸地を作る干拓(かんたく:水門などで水をせき止め、湖を干上がらせて陸地を作ること)
- 「埋め立て」
などといった、人為的なもの・要素が大きいと考えられています。
東海道と中山道と合流点・草津宿
琵琶湖の観光を終えたら、今度は
- 草津駅(くさつえき、滋賀県草津市)
にまで移動してきます。

草津宿(くさつしゅく)は、かつて江戸時代の新幹線が無い時代に、旅人たちが徒歩または馬で行き交っていた、
- 東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)
の52番目の宿場町として栄えてきた歴史があります。
昔の旅人たちは何日間もかけて長距離移動をしていたわけなので、途中で泊まるための町が「宿場町」ということになります。
の宿場町のひとつが、草津宿ということです。東海道には全部で53の宿場町があったので「東海道五十三次」と呼ばれたわけです。
また、内陸部・木曽路を通ってくる中山道(なかせんどう)がここで合流しています。
中山道とは、リニア中央新幹線の江戸時代バージョンだと思ってください。

草津宿はかつて大名などのお偉いさんが泊まっていた本陣(ほんじん)が現存しており、これはとても貴重です。
草津の「天井川」

草津宿の近くには、屋根の位置にまで高くなってしまった
- 天井川(てんじょうがわ)
である、旧草津川(くさつがわ)があります。
なぜ旧草津川が屋根の位置にまで高い天井川になってしまったのかというと、
- 川の底に砂(土砂)がたまってゆき、
- 川がどんどん高くなっていった
からです。
川は地面を削りながら進むため、そのとき削られて出来た土砂が、地面の底にたまっていったわけです。

しかしこのように川が高くなると、水があふれて洪水がおきやすくなってしまいます。
そのために堤防を築いていったわけですが、
- そこからさらに砂がたまって川が高くなり、
- また堤防を築いて、川が高くなる
・・・ということを繰り返したら、いつの間にか「屋根より高い川」となり、こうして「天井川」が出来たのです。
この天井川の下を、東海道本線(琵琶湖線)が走っています。

草津宿

草津は、古くから、東西方面へそれぞれ移動する際の、交通や旅の重要拠点として栄えてきました。
室町時代には、人々が三重県の伊勢神宮へと参拝する旅に出るときに、草津の地は京都方面と伊勢方面への中継地点として発展してしました。
つまり、草津のような「分岐点」となる地は、
- 江戸(東京)
- 伊勢(三重)
の2つの方向へ向かう人が同時に集まってくる場所なので、発展しやすいわけですね。
また、昔は徒歩または馬での何日間もかけた移動が基本だったので、
- 江戸・伊勢方面へと向かう
- あるいは、江戸・伊勢方面からやってきた
という旅人たちにとって、途中のお休み(食事や宿泊など)の場として栄えてきたというわけですね。
織田信長によって、草津は直轄領となる
織田信長は、ときの室町将軍・足利義昭(よしあき)にお願いして、草津の地を
- 堺(大阪府堺市)
- 大津(滋賀県大津市)
と並ぶ直轄領(ちょっかつりょう:直接支配する領地)として定められました。
つまり、自身でコストをかけてまで直接支配する領地にしたかったということです。
つまり、それだけ重要な場所だったということです。
そして信長は、草津の回りの道路をどんどん整備したり、より大きく綺麗で通りやすくしてゆきました。
江戸時代の「伝馬制」において、宿場町が置かれる
「関ヶ原の戦い」の後は、将軍となった徳川家康によって、
という、
- 「伝馬制(てんませい)」
がしかれます。
つまり荷物を「リレー形式」で運び続けていくというわけです。
人や馬も、長距離移動すると疲れますからね。
これにより「東海道」の整備が行われてゆき、旅人たちが泊まるための「宿場町」が各地に設置されていったのでした。
馬だって長旅をすると疲れるわけなので、休んだり交代しなければなりません。
これは、ランナーが襷(たすき)をつないで走る競技「駅伝」も同じで、この「伝馬制」が「駅伝」の由来となっています。
また、全国各地にある「伝馬町」の由来は、そこがかつて江戸時代に馬を交換していた場所ということに由来しています。
この江戸時代に伝馬制・宿場町が置かれた時期に、「草津宿」は誕生しました。
そして、数多くの徒歩または馬で行き交う旅人たちが往来する宿場町として、草津宿とその周辺地域はどんどん発展していくことになります。
現存する、数少ない本陣

数ある宿場のうち、大名や天皇陛下など、お偉いさんが泊まる場所のことを
- 「本陣(ほんじん)」
といいます。
一般のお客様が泊まる場所を「旅籠(はたご)」といいます。
草津宿には、今や数少なくて珍しい「本陣」が現存しています。
日本各地の宿場町の本陣は、ほとんど残っていません。
明治時代に「鉄道」ができると、長距離移動をする旅人たちはみんな「鉄道の利用」となってしまうため、使われなくなった宿場町は衰退してゆきました。
そんな中、草津宿の本陣は珍しいものであり、現存する本陣としては最大級のものです。
草津宿の本陣は、1996年から一般へと公開されています。
草津宿本陣にある「大福帳(だいふくちょう:江戸時代の帳簿)」には、歴史上の有名人が宿泊したことの記録が残されています。
例えば、
- 浅野長矩(あさの ながのり)
- 吉良上野介(きら こうずけのすけ)
- 土方歳三(ひじかた としぞう)
などといった、歴史上重要な人物の名前が多く残っています。
浅野長矩や吉良上野介については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
鉄道唱歌 山陽・九州編 第9番 相生駅から、47人の赤穂義士ゆかりの地へ
土方歳三については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
東海道における宿場町のうち、現存している数少ない本陣は、
- 愛知県豊橋市の二川宿(ふたがわしゅく)
があります。
今回はここまで
いかがだったでしょうか。
滋賀県・琵琶湖の周辺にはこれまで何回も来ていましたが、こうして地理や歴史を掘り下げていくと、本当に興味深い点がたくさん出てくるなぁと思いました!
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
コメント