鉄道唱歌 東海道編 第64番 楠木正成公と湊川 たとえ7回生まれ変わっても国を守りたい

まずは原文から!

七度(ななたび)うまれて君が代(きみがよ)を
まもるといひし楠公(なんこう)の
いしぶみ高き湊川(みなとがわ)
ながれて世々(よよ)の人ぞ知る

さらに読みやすく!

七度(ななたび)うまれて君が代(きみがよ)を
まもる(守る)といい(言い)し楠公(なんこう)の
いしぶみ高き湊川(みなとがわ)
ながれて世々(よよ)の人ぞ知る

さあ、歌ってみよう!

♪ななたびうまれて きみがよをー
♪まもるといいしー なんこうのー
♪いしぶみたーかき みなとがわー
♪ながれてよよのー ひとぞしるー

(東海道線)
米原駅→彦根駅→能登川駅→近江八幡駅→野洲駅→守山駅→草津駅→南草津駅→瀬田駅→石山駅→大津駅→山科駅→京都駅→山崎駅→高槻駅→茨木駅→吹田駅→新大阪駅→大阪駅→尼崎駅→芦屋駅→三ノ宮駅→神戸駅

(山陽本線)
神戸駅→兵庫駅

(和田岬線)
兵庫駅→和田岬駅

※鉄道唱歌に関連する駅と、新快速列車が停車する駅などを表記
※この区間は「琵琶湖線」「京都線」「神戸線」などの愛称あり
※和田岬駅へは、他に地下鉄線のルートもあり

神戸の旅も、そして東海道線の旅も、もう少しでラストになってきます。

湊川神社(みなとがわじんじゃ)は、兵庫県神戸市にある、楠木正成(くすのき まさしげ)公を神様として祀(まつ)る神社です。

楠木正成(くすのき まさしげ)は、最後まで後醍醐天皇に忠誠を尽くした武将です。

楠木正成公は「楠公(なんこう)さん」と言われ親しまれています。「楠氏(なんし)」と呼ばれる場合もあります。
また、父親の楠木正成のことを「大楠公(だいなんこう)」、また息子の楠木正行(まさつら)のことを「小楠公(しょうなんこう)」といいます。

楠木正成公は大阪府の南にある金剛山の近くにあった「千早城の戦い(ちはやじょうのたたかい)」でも知られます。

時代は、楠木正成が生きた時代、つまり鎌倉時代の終わりに遡ります。
鎌倉幕府が滅亡した後、時代は後醍醐天皇による約150年ぶりくらいの天皇・朝廷の政治に戻りました。後醍醐天皇が打ち出した政治を「建武の新政(けんむのしんせい)」といいます。
しかし、この建武の新政は、朝廷や貴族、公家ばかりを優遇し、武士や武家に対して不遇な扱いをするものでした。
これに不満を持った武士たちは、後に室町幕府を開く足利尊氏(あしかが たかうじ)を筆頭に武装蜂起しました。
これに対して、後醍醐天皇に忠誠を誓う楠木正成や結城宗広(ゆうき むねひろ)、名和長年(なわ ながとし)たちは、一旦、足利尊氏を九州まで追い返します。

しかし、九州で力を蓄え、勢いを増してきた足利尊氏は、もう一度京都に攻め込まんとしていました。
あまりにも勢いに、「もはやこれまで」と察した楠木正成は、息子である正行(まさつら)に対して、遺言を残しました。

正成(父)「この戦いで私は必ず死ぬだろう。お前はここに残れ。私は行く。」

正行(子)「何をおっしゃいます父上。私も一緒に行かせて下さい。そして私も父上と一緒に死なせてください。」

正成(父)「いや、お前はここに残れ。私が死んだら、次は足利尊氏の世の中になるだろう。そうなったら、母上のために尽くすのだぞ。」

そう言い残して、楠木正成は息子と泣く泣く別れ、神戸の湊川(みなとがわ)へ去っていきました。
これを「桜井の別れ」といい、その場所と史跡の公園は、京都線島本駅(しまもとえき、大阪府三島郡島本町)がその最寄り駅となります。

そして「湊川の戦い」で足利尊氏に破れた楠木正成は、最期にこう言い残して戦死しました。

たとえ七回生まれ変わっても、この国を守り抜いてみせる。

カッコ良すぎじゃないですか!?

これを「七生報国(しちしょうほうこく)」といい、愛国心の象徴として楠木正成は神様のように尊ばれてきました。

しかし、この「七生報国」ですが、解釈を誤ると「国のために死んで帰れ」のような、まるで戦争を肯定するような意味になってしまいます。
実際、太平洋戦争(大東亜戦争)において、もはや日本軍が完全に不利となり、もう敵艦隊に弾が命中しなくなったので、戦闘機に爆弾を載せて戦闘機ごと敵艦隊に突っ込む「神風特攻隊(かみかぜとっこうたい)」が常態化したときに、「七生報国!」と連呼して敵艦隊に突っ込んだのでした。このような歴史が繰り返されてはなりません。

自分の国(日本)を愛するという、愛国心はとても大切です。しかしながら、その解釈を誤ってしまうと、「お国のために死んで帰れ」などという戦争賛美のような意味になってしまいます。

楠木正成はきっと、自分のプライドと信念にかけて後醍醐天皇を、「君が代」を、そしてこの国(日本)を守ると言ったのだと思います。

それが例え身が朽ち果てようとも、何度生まれ変わろうとも、守るべきものを守り通す。
これが楠木正成のカッコよすぎるところであり、まさに本当の意味での愛国心の象徴というべきでしょう。

そして、息子の楠木正行も、大阪府東部の四條畷(しじょうなわて)で行われた「四条畷の戦い」で、足利尊氏の一派である高師直(こうの もろなお)と戦い、無念の最期を遂げました。

なお、「桜井の別れ」については、鉄道唱歌関西・参宮・南海編第5番でも歌われています。
また、「四条畷の戦い」についても、鉄道唱歌関西・参宮・南海編第4番で歌われています。

楠木正成公と同じように後醍醐天皇に忠誠を尽くした人物に、結城宗広(ゆうき むねひろ)がいます。
彼も後醍醐天皇を守るために忠義(ちゅうぎ)・忠誠(ちゅうせい)を尽くして戦ったのですがそれはかなわず、地元である東北地方(福島県白河市)に戻る途中で、三重県津市にさしかかった辺りで力尽きてしまいました。
なので、三重県津市の阿漕駅(あこぎえき、三重県津市)から約1km離れた場所には、結城宗広を祀る「結城神社(ゆうきじんじゃ)」があります。
このことは、鉄道唱歌関西・参宮・南海編第20番でも歌われています。

また、同じく後醍醐天皇に忠誠を尽くし、後醍醐天皇の島根県隠岐の島(おきのしま)からの脱出を助けた人物に名和長年(なわ ながとし)がいます。
山陰線に御来屋駅(みくりやえき、鳥取県西伯郡大山町)という駅があると思いますが、これは後醍醐天皇が島流しにされていた隠岐の島から脱出されたときに、天皇の舟を迎えたことから「御来屋(みくりや)」という地名となっています。
そして、御来屋には、名和長年を祀る「名和神社(なわじんじゃ)」があります。 
これは山陰鉄道唱歌第20番でも歌われています。

余談ですが、同じ「みくりや」でも、「御厨(みくりや)」と書いた場合は天皇に献上・捧げる食事を作る厨房のことをいいます。

後醍醐天皇に対して湊川の地で最期まで忠誠をつくし、「たとえ7回生まれ変わっても、この国を守る」と言い残して散っていった楠木正成公。

それは彼なりの信念や正義、忠義があったことでしょう。

楠木正成像(湊川公園)

皆さんには、たとえ7回生まれ変わっても、守りたいものがあるでしょうか。そして、守りたい人がいるでしょうか。

愛するものも守るために、今日という日を、全身全霊やりぬいていきたいものですね!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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