鉄道唱歌 山陽・九州編 第4番 「一ノ谷の戦い」 源義経による奇襲 源平の古戦場

まずは原文から!

九郎判官(くろうほうがん)義經(よしつね)が
敵陣(てきじん)めがけておとしたる
鵯越(ひよどりごえ)やいちのたに
皆この名所の内(うち)ぞかし

さらに読みやすく!

九郎判官(くろうほうがん)義経(よしつね)が
敵陣(てきじん)めがけておとしたる
鵯越(ひよどりごえ)やいちのたに(一ノ谷)
皆この名所の内(うち)ぞかし

さあ、歌ってみよう!

♪くーろうほうがん よしつねがー
♪てきじんめがけて おとしたるー
♪ひよとりごーえや いちのたにー
♪みなこのめいしょの うちぞかしー

(山陽本線)
神戸駅→兵庫駅→鷹取駅→須磨駅→舞子駅→明石駅→加古川駅→姫路駅→相生駅(旧・那波駅)→岡山駅→倉敷駅→福山駅→尾道駅→糸崎駅→三原駅→海田市駅→広島駅→西広島駅(旧・己斐駅)→五日市駅→宮島口駅→岩国駅→柳井駅→徳山駅→防府駅(旧・三田尻駅)

※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ表記
※鉄道唱歌のできた当時(1900年)は、防府駅(旧・三田尻駅)から先は開通していなかったため、徳山港から船で門司(九州)へ

源平合戦「一ノ谷の戦い」が行われた、神戸市須磨区

源平合戦のひとつ「一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)」では、九郎判官(くろうほうがん)こと源義経(よしつね)が、なんと馬ごと崖から急に落ちてきて、敵陣に奇襲をかけて勝利したという戦いが知られます。

これを「一ノ谷の逆落とし(さかおとし)」といいます。

「九郎判官」源義経が戦った、一ノ谷の戦い

九郎判官(くろうほうがん)」とは、源義経(よしつね)の別名です。
これは、源義経は父である源義朝(よしとも)の9男であったことに由来します
源義朝は、鎌倉幕府を開いた源頼朝(よりとも)の父でもあるため、源義経と源頼朝は兄弟であったということになります。
義経と頼朝はこの時は味方同士でしたが、後に対立して義経は岩手県の平泉(ひらいずみ)で滅ぼされてしまいます
このときに悲劇の最期を遂げたことから、源義経は「判官贔屓(はんがんびいき)」という言葉の語源になっています。

栄華から徐々に衰退する平氏、反撃で勢い付く源氏

時代は、それまでおごり高ぶっていた平氏政権が、平清盛(きよもり)という偉大なカリスマが亡くなったことにより平家の繁栄に陰りが見え始めたことや、全国の平氏に不満を持つ源氏の猛攻が激しくなり、平氏は徐々に逃げ・後退の態勢に入っていました
平氏は京都を追われ、徐々に西へ西へと逃げて行く途中でした。

谷から一気に降りて攻める、義経の奇襲攻撃

ここで、源義経は平氏に対する奇襲戦法を考えます
源義経が地元の人に対して

「あの崖を下ることは可能か」

と尋ねたところ、

「いやいや、あの崖を下るのは鹿(しか)でも無い限り無理です」

と言われました。
普通ならここで諦めるところですが、

鹿でも降りられるなら、馬でも降りられるであろう

と思いつき、崖から一気に攻め降りる方法を思いついたのです。

この奇襲攻撃により、平氏軍は思ってもない方法で攻められたために大混乱に陥り、慌てふためいて敗走してしまいました

しかし、この常識外れな「崖から降りる奇襲攻撃」というやり方が、後に兄の源義朝によって「相手に対して無礼な戦い方だ!」などと言いがかりをつけられるネタにされてしまい、これを義経征伐の口実とされてしまうのです

源義経は、この「一ノ谷の戦い」で勝利した後に、平氏をどんどん西に追い詰めていきます
そして山口県下関市壇ノ浦(だんのうら)で平氏を滅ぼします。

「一ノ谷」と「檀ノ浦」で勝利、鎌倉幕府成立へ しかし・・・

これがきっかけで、源平合戦は源氏が勝利して幕を閉じ、源頼朝の時代になり鎌倉幕府の誕生へ向かっていきます

ちなみに「源平合戦」という呼び方についてですが、必ずしも源氏と平氏の戦いではないため(源頼朝vs源義仲など、源氏同士の戦いもある)、その時代の元号から取った
治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)」
という呼び方が相応しい、とも言われます。
ここでは「源平合戦」という呼び方で統一します。

話を元に戻します。

源平合戦で功労者だったはずの源義経(よしつね)ですが、今度は兄の源頼朝(よりとも)と政治的意見が合わずに対立してしまいました。
また、先ほど述べた「崖から降りて奇襲をかける」という常識外れな戦法もお咎めのネタにされてしまいました。この時代は単に殺し合っていたわけではなく、攻め方にしても一応の相手に対する礼儀というものはあったようです。たとえ非常識かつ無礼な方法で相手を倒しても、その味方や遺族に恨まれて報復された場合、むごい刑を受けることは免れませんからね。

頼朝と仲違いし、敵とみなされ東北へと逃げる義経

源義経は何度も兄と和解しようと試みますが、頼朝は全く許す気配はなく、それどころか義経に対する怒りを増大させてしまいます。
ここで兄との和解は無理だと判断した源義経は、岩手県の平泉に至るまでの「逃避行」がスタートしてしまいます

源義経は弁慶(べんけい)とともに、奈良の吉野山(よしのやま)へ逃げます。吉野は春は桜が美しい山地なのですが、また険しい山でもあるので、古くから修行の場所として用いられてきた他、約150年後の南北朝時代に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が政争に敗れて逃げてきた場所でもあります。
つまり吉野は、こうした地理条件から「逃げ場」として都合のいい場所でもあったため、歴史的に戦いや政争などに敗れた多くの武将らが吉野に逃れてきています。
特に南北朝時代は、北朝の権力争いに敗れた人物が吉野に逃げてきて南朝側に寝返る、といったことが常態化していたほどです。

また、吉野山にある吉水神社(よしみずじんじゃ)は、後醍醐天皇の南朝の皇居(こうきょ)になった場所でもあります。
また吉野山には、その後醍醐天皇に忠誠を尽くした楠木正成の息子・正行(まさつら)が、大阪府の東部にある四条畷(しじょうなわて)の最期の戦いに挑むために、これから戦死することを覚悟して鏃(やじり)で書いた文字の宝蔵(ほうぞう)のお寺があります。

話を元に戻しますが、その後、源義経は日本海沿岸を北上しながら逃げ続け、石川県小松市にある安宅の関(あたかのせき)という関所(せきしょ)を通過します。

岩手県・平泉へたどり着き、奥州藤原氏とともに滅ぼされる義経

そして義経は、子供の時にお世話になった奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし) のいる、岩手県の平泉(ひらいずみ)にかくまってもらいます。この奥州藤原氏の人物を、藤原秀衡(ひでひら)といいます。
ここで義経は、秀衡に大いに歓迎されたといいます。

しかし義経をかくまった藤原秀衡でしたが、1187年に死去してしまいます。秀衡は息子に対して「私が亡き後は、義経を武将・主として従いなさい」と言い残したのですが、後に平泉が源頼朝に攻められたときに義経を裏切ってしまいます。

そして、源義経が平泉に匿われていることが鎌倉にバレてしまい、源頼朝はこれにさらに怒ります。
そして頼朝は、奥州藤原氏と義経を征伐するために、岩手県の平泉に兵をむけます

ここで源義経は先程述べたように裏切りに遭ってしまい、平泉の「衣川館(ころもがわやかた)」にて悲劇の自害を遂げました
また奥州藤原氏は、源平合戦に勝利した源頼朝にとってはこの時点では日本で唯一自分の権力が及ばない勢力だったため、ここで頼朝によって滅ぼされました。
こうして、平安時代に約100年続いた奥州藤原氏の栄華の歴史が、ここにて幕を閉じました。1189年のことです。

そして3年後、1192年に源頼朝は征夷大将軍に任命され、鎌倉時代が本格スタートするのでした

須磨・一ノ谷の観光・歴史探訪を終え、舞子・明石方面へ

須磨・一ノ谷の地域は、平敦盛熊谷直実源義経など様々な武将による物語や伝説のある名所旧跡が数多くあることがおわかりいただけたと思います。
ここは第2番の歌詞にも「名所旧跡数おおし」あった通りですね。

須磨・一ノ谷の観光を終えると、次は垂水(たるみ)・舞子(まいこ)・明石(あかし)方面へ向かっていきます!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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