今回は、広島県・竹原市の大久野島の探訪と歴史解説です!
ウサギの楽園とも、「地図から消された島」とも言われるなんとも不思議な島の探訪と歴史について、わかりやすく解説してゆきます!
うさぎの楽園・大久野島

大久野島(おおくのしま)は、広島県のやや東側にある、竹原市(たけはらし)の海に浮かぶ島です。
現在ではウサギの楽園・ウサギの島として知られています。
また、戦時中には禁止されていた毒ガスを製造していたことから、その存在を隠すために、地図から消された島だったことも知られています。

三原駅→忠海からフェリーで大久野島へ
まずは、山陽新幹線または山陽本線の
- 三原駅(みはらえき、広島県三原市)
からスタートとなります。

三原駅からは、呉線(くれせん)に乗り換えて、広(ひろ)・呉(くれ)方面へと向かいます。そして、
- 忠海駅(ただのうみえき、広島県竹原市忠海)
で下車します。
さらに忠海港(ただのうみこう)から、大久野島行きのフェリーへと乗船することになります。
約15分ほどの乗船時間ののち、大久野島に着きますす。
島へ上陸した瞬間、走って甘えてくるウサギ

島に上陸すると1分もしないうちに、ウサギさんたちがエサ欲しさに走ってきます。
そして、ウサギさんたちはエサ欲しさに、全力で可愛いアピールをしてきます。
大久野島のウサギさんは、キャベツが大好きなので、喜んで食べてくれます。
ちなみに、人間用の「おにぎり」や「パン」などは、糖質が高すぎて肥満・糖尿病などの原因となるため、絶対に与えないようにしましょう。
また、ウサギさんは臆病な生き物なので、自分から追い回したりはせず、向こうから近づいてくるのを待った方が無難です。
「忠海」の歴史
では早速、歴史の話をバンバンやっていきましょう!!
なるべく、わかりやすい言葉で話していきたいと思います!
まずは、大久野島の向こう岸にある、忠海(ただのうみ)の歴史についてです。
平清盛の父・平忠盛に由来
平安時代終わりの1129年、あの平清盛(きよもり)の父である平忠盛(ただもり)は、瀬戸内海において当時はびこっていた海賊たちを追討するための使いとして、朝廷から抜擢され、この地域へと派遣されたのでした。
この職を、海賊追補使(かいぞくついぶし)といいます。
すると、この地は平忠盛により平定されるようになったのでした。
この時に、平忠盛は自分の「忠」「盛」という名前を2つに分け、
- 北側の地を、「忠海(ただのうみ)」
- 南側の大三島(おおみしま)の地を、「盛(さかり)」
と名付けたのでした。
これが、「忠海(ただのうみ)」の由来となっています。
村上水軍と、来島海峡
まずは地理関係を把握
瀬戸内海(せとないかい)は700以上の島がある、いわゆる「多島海(たとうみ)」となります。
まずは、この近辺の地理関係を把握しておきましょう。
※これが理解できていないと、この後の話がチンプンカンプンになります・・・
このあたりの地理関係(重要)
忠海ー大久野島ー県境(←広島県/愛媛県→)ー大三島ー大島ー来島海峡ー今治市
青色:海
緑色:陸地
大三島(おおみしま)
大久野島の南側には、大三島(おおみま)という大きな島があります。
大久野島と大三島との間には、広島県と愛媛県の県境があります。
大三島(おおみしま)には、「盛(さかり)」という地名があり、ここに港があります。
これは先述の通り、平清盛の父である、平忠盛(ただもり)に由来しています。
大三島は、愛媛県最北端の地でもあります。
広島県・大久野島とほぼ接しているわけですから、わかるような気もしますね。
来島海峡(くるしまかいきょう)
来島海峡(くるしまかいきょう)は、大島(おおしま)と愛媛県今治市との間にある海峡です。
今治市(いまばりし)は、造船業やタオルの生産などで有名です。
この海峡はとても狭く、潮の流れが早くなりやすくなっています。
そのため、船がまともに進みにくい「難所」として扱われてきたのでした。
来島海峡は、山口県・福岡県の関門海峡(かんもんかいきょう)などと並んで、かなりの難所として知られます。
関門海峡については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
室町時代は、海賊だらけだった瀬戸内海
室町時代のはじめにあたる南北朝時代には、この周辺の海域は、古くからの航路(海のルート)でした。
つまり、大阪~広島~九州~外国を往来する、船にとってのメインルートだったわけです。
昔は貨物輸送も高速トラックも無かったため、大量の荷物を運ぶためには、船で運ぶのが最も効率のよいやり方だったというわけです。
村上水軍の拠点 現在の「村上さん」たちの祖先
この海には、かつて海賊が横行していたということがわかっています。
昔の海には、
- 海で悪いことばかりする、海賊
- 大名などの権力者に命じられて海で戦う、水軍
とがいました。
瀬戸内海のこのあたりは、村上水軍(むらかみすいぐん)と呼ばれる、現在でいうところの海上自衛隊のような海の武装チームの拠点でした。
いわば、海で戦う武士のことですね。
広島の毛利氏の下で動いていた毛利水軍は、村上水軍を下に取り込んで、瀬戸内海の支配を行っていました。
海から攻めてくる、他の戦国大名からの侵略にあわないようにする(あるいは必要に応じて、自分から攻めていく)ためですね。
そのため、現在でもこの地域では「村上さん」という苗字の方が多いイメージです。
潮の流れが早く、船の難所だった来島海峡
今治市と大島に挟まれた来島海峡(くるしまかいきょう)は、かねてより海の難所であったのでした。
なぜ「難所」だったというと、狭い海域のため、潮の流れが早くなってしまうからです。
すると、船はまともに進みにくくなってしまいます。
そのため、来島海峡を避けるようなバックアップルート(航路)として、北側の忠海付近へと大きく迂回する三原瀬戸航路(みはらせとこうろ)が用いられるようになったのでした。
大久野島灯台は、その航路(ルート)上に置かれた灯台のうちの一つでした。
明治時代に出来た、芸予要塞
かつて大久野島と来島海峡には、芸予要塞(げいよようさい)という、日本軍の拠点がありました。
これは、瀬戸内海に侵入してくる、外国の敵船から自国を守るためのものでした。
瀬戸内海へ侵入してくる外国船を防ぐ
明治時代の初期には、欧州列強の軍艦などが瀬戸内海から広島・大阪などへと侵攻してくる、ということを懸念していました。
そして、それらの脅威に対して、備えておく必要がありました。
そのため、外国船の侵入ルートであり、また海が狭くなる狭隘(きょうあい)部分である、
- 紀淡海峡(きたんかいきょう)
- 鳴門海峡(なるとかいきょう)
- 豊予海峡(ほうよかいきょう)
- 下関海峡(しものせきかいきょう)
のそれぞれに、沿岸の要塞となる砲台を置くことになったのでした。
ここで、
- 紀淡(きたん):紀伊半島(きいはんとう)と、淡路島(あわじしま)との間。
- 豊予(ほうよ):豊後国と、伊予国の間。
- 芸予(げいよ):安芸国と、伊予国の間。
- 安芸国(あきのくに:広島県)
- 豊後国(ぶんごのくに:大分県)
- 伊予国(いよのくに:愛媛県)
などの意味になります。
海峡から侵入してくる敵船を、砲台で滅多打ちに
なぜ、この狭い海峡に砲台をたくさん配備したのか。
一つは先述の通り、外国船の侵入ルートになるからです。
また、狭い部分の海だと、もし外国からの敵船が入ってきたとしても、砲台で滅多打ちにしやすいからですね。
瀬戸内海には、かつて軍事拠点が多かった
なぜこれだけ瀬戸内海の守りを固めたのかというと、それは明治時代には軍事拠点となる場所が多かったからです。
例えば日清戦争のときには、広島市に大本営(だいほんえい)が置かれていました。
広島大本営(ひろしまだいほうえい)は、明治天皇が自ら広島に滞在して、日清戦争の指揮を行うために置かれた場所です。
また、広島市の南東にある呉(くれ)には、海の守りの拠点である鎮守府(ちんじゅふ)も置かれていました。
呉は戦艦大和(せんかんやまと)が建造された場所であり、現在でも呉には、海上自衛隊がありますよね。
それだけ明治時代には、瀬戸内海の守りは特に重要だったというわけです。
広島大本営については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
呉鎮守府については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
砲台の射程の向上 豊予要塞の方が優先的に
しかし大正時代になってくると、世の中の砲台の性能が向上してゆき、射程が長くなってきました。
また、第一次世界大戦においては航空機が登場したことにより、軍艦などは徐々に存在感を消していくことになります。実際、第二次世界大戦のころには、ほとんどが戦闘機の出番になっていました。
軍艦の出番が無くなると、それを撃退する砲台も、だんだんと無意味なものとなってゆきます。
そのため、既に存在していた(ろくにあまり使わない)要塞の整理(廃止など)が行われてゆきました。
予算低減・コストカットのためですね。
やがて大正時代の終わりの1924年になるまで、結局は一度も用いられることもないまま、芸予要塞は廃止となったのでした。
まぁ、一度も砲台が使われなかったということは、それだけ平和だったことの証明でもあります。
そして芸予要塞の施設は、のちに戦時中の毒ガス施設などへと変えられたものも含めて、現在でも遺構として残っています。
芸予要塞は不要に、廃止
そして、四国と九州との間に新たに豊予要塞(ほうよようさい)ができました。
そもそも先述の芸予要塞が作られたのは、昔は幅の広い豊予海峡に対して砲台を作っても、あまり意味が無かったからでした。
しかし、瀬戸内海よりも豊予海峡の方がより外国に近い位置にありますし、瀬戸内海に侵入してくる前に豊予海峡で食い止めておく方が、日本として安全ではありました。
そのため、時代が進んで砲台の射程が広くなったために、より外国に近い豊予海峡にも砲台の設置しても問題なくなったのでした。
こうして、豊予要塞を優先し、より内部に近い芸予要塞は無意味なものになって、使われなくなって廃止したわけです。
地図から消された島 毒ガスの製造
大久野島は、戦時中には「地図から消された島」だったのでした。
禁止されていた毒ガスを、外国にナイショで製造していた
この島では、1929年から1945年まで、太平洋戦争(大東亜戦争)で使用するための毒ガスが、日本軍によって秘密裏(ひみつり)に製造されていたのでした。
陸軍の毒ガス工場が存在していたため、その機密性から、島そのものの存在が隠されてしまったのでした。
当時の一般国民へ向けた地図において、
この一帯は「空白地域(何も無い地域)」として扱われたと言われています。
また、当時の電車では、大久野島の近くを通る際には、客が大久野島を見られないように窓にカーテンを閉めていたといいます。
それだけ、秘密を徹底していたということです。
元々島に住んでいた濃民たちは、強制退去に
ちなみに戦前までに、大久野島には数十人ほどの人が住んでおり、農業をやっていたのでした。
しかし、毒ガス製造が始まった時に強制退去となったのでした。
もちろん拒否したら非国民扱いなので、たとえ先祖から受け継いだ土地であったとしても、問答無用で退去となったわけです。
当時の日本には「居住の自由」など無かったわけですね。
被災してしまった毒ガス工場の作業員たち
毒ガス工場で働いていた作業員たちも、防護服の隙間から入ってきた毒ガスに被災してしまい、健康被害を受けてしまいました。
そして、戦後から今に至るまで、多くの人々が後遺症で苦しんでいるという現状があるのです。
戦後の毒ガスの処理
戦時中に大久野島にて製造されていた毒ガスなどは、戦後に旧日本軍が証拠隠滅のため、海へ捨ててしまったのでした。
その後、アメリカの進駐軍が大久野島へとやってきて、
- 毒ガスの海洋への投棄
- 毒ガスの地中への埋設
- 焼却処分
などといった、無毒化のための様々な処理が施されたのでした。
大久野島では、半世紀以上が経った現在でも、内部が空となった巨大なコンクリート製の毒ガス施設が廃墟として残っています。
そして、いくつかの廃墟が立入禁止区域に指定されています。
国民休暇村の整備
1960年代の高度経済成長期になると、
世の中の人々の生活は裕福になり、安定してきたのでした。
このことにより、日本国内では観光の大衆化・一般化がどんどん進んでいったのでした。つまり、お金持ちだけでなく、一般人であっても観光は当たり前のレジャーになってきたわけです。
そして、野外活動などといった新たなレクリエーションが生まれたのでした。
例えば研修とか、合宿などの活動もそうですね。
高度経済成長期には公害病などが起きるなど、街の環境が特に悪化していった時代でもありました。
そのため、人々は「やっぱり自然っていいわー」っていう雰囲気になったのです。
こうして、国は次々に国立公園など作っていくことになったのでした。
大久野島の「国民休暇村」も、こうした世の中の背景から生まれていったのでした。
大久野島へ電気を送る仕組み 日本一高い鉄塔
人々が暮らすには、電気が必要です。
もちろん、大久野島においても電気は欠かせません。
高度経済成長期になると、本州から離れた島である大久野島へも、電気を送る必要性が出てきました。
そのため、1962年に本州と四国を結ぶ送電線が整備されていったのでした。
これは後に中国電力による、大三島(おおみしま)」へと電力を送るための「大三島支線(おおみしましせん)」として運用されています。
なお、忠海と大久野島を結ぶための送電線を支える「2つの鉄塔」は、高さ226mであり、これは日本一高い鉄塔になります。
戦後に次々に明らかになった、島の「負の歴史」
戦後に「国民休暇村」の計画・建設などがされていく間にも、島の負の歴史の部分が、どんどん現れるようになってきたのでした。
例えば、1961年に広島県は自衛隊に対して、島の中に残っているであろう「毒ガス」の調査を依頼したのでした。
「国民休暇村」の安全性のため、念のために毒ガスの調査をしたわけですね。
すると島の防空壕の中から、大量の毒ガスが発見されたのでした。
また、国民休暇村の建設工事を任された建設業者が、工事中に土の中に埋まっていた毒ガスに被災してしまうという事故も起こってしまいました。
これは恐らくですが、戦後に証拠隠滅または島の無毒化のために、必死に地面へと埋められた毒ガスだったのかもしれません。
こうして1972年頃までは、島ではずっと毒ガスによる被災が続いたのでした。
島の「ヒ素」を取り除く工事
1990年代、大量のヒ素が島から発見される
1995年~1996年にかけて、国によって大きな毒ガス調査が行われたのでした。
このときに、環境基準を大きく超える「ヒ素」による土壌(地面)の汚染が確認されてしまい、大きな問題となったのでした。
「ヒ素」は人体に悪影響を与える、有害な物質です。
つまり、安全とは程遠い大量のヒ素が、大久野島の地面から発見されてしまったのです。
大久野島には人々が泊まる「国民休暇村」があるだけに、さすがにこれはマズいしショッキングですよね。
人々の努力により、懸命に「ヒ素」を取り除いていく
汚染された土壌(島の地面)に対しては、1997年までには対策工事が完了しています。
これによってヒ素を取り除く作業が行われたというわけです。
2009年に広島県によって行われたヒ素の濃度測定では、島からヒ素は検出されませんでした。
またこの調査では、島の海に住む生き物たちの異常も、特に無かったといいます。
つまり、無事にヒ素の無いキレイな島になったということですね。
現在では、ヒ素の量は環境基準で定められている量を、大きく下回っているとされています。
大久野島の「水」はどうしてる?
ヒ素大量検出により、島の井戸水を停止
ただしこの「ヒ素大量検出」がわかったことにより、2004年からは島の井戸水の利用を、完全に中止したのでした。
そのため、現在「休暇村大久野島」が利用する水は、島の外から「船」にて運ばれてきています。
本州と島の間に「水ケーブル」計画 しかし毒ガス発見で断念
国の機関である環境省は、大久野島に対して「上水(飲み水)」を送ってあげるために、海底に本州とつなぐ「水を送るための管」を敷設することを計画していたのでした。
その「長い水道管」を敷くためのための場所周辺において一応、安全のための調査が行われたのでした。
しかし残念ながら、かつて戦後に海の中へと捨てられたと思われる毒ガス兵器が発見されてしまったのでした。
この「新たに毒ガスが発見された」ことにより、「長い水道管を敷くための工事」は、安全のために中止されたのでした。
「うさぎの楽園」大久野島
大久野島は、特に2010年代以降には「ウサギの島」として、日本のみならず海外にまで知られることになりました。
国際的にも「ウサギの島」(Rabbit Island)としての知名度が一気に上がったのでした。
多くの外国人の方々が大久野島を訪れ、海外のニュースや動画サイトなどを通じて、大久野島の存在は世界に広く知られるようになったのでした。
最後に:大久野島の「負の歴史」も忘れてはならない
現在ではこのように「ウサギの島」として、多くの観光客を喜ばせてくれます。
しかしその一方で、「毒ガス」による被害に遭った人も、多く存在したのでした。
大久野島には、こうした毒ガスによる「負の歴史」があることも忘れてはならないのですね。
そして、戦争の悲惨さを思い知らされるばかりです。
それでは、今回はここまでです。
お疲れ様でした!
ちゅうい!おわりに
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
この記事が良いと思った方は、よかったら次の記事・前回の記事も見てくださいね!
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