今回紹介する鉄道の偉人は、「ロコモーション号」に代表される、イギリスではじめて実用的な蒸気機関車を発明したジョージ・スチーブンソンです。
「鉄道の父」ともよばれる、現代の我々が当たり前に乗っている電車の偉大な発明者について、わかりやすく解説してゆきます!
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機関車の発明者・ジョージ・スチーブンソン
ジョージ・スチーブンソン
(George Stephenson、1781年~1848年)は、イギリス・イングランド出身の技術者です。
そもそも彼は、一体何をした人?
ジョージ・スチーブンソンは果たして一体何をした人なのか、簡単にいえば以下の通りです。
- 人類ではじめて、石炭を大量にバンバン積める蒸気機関車を発明した人だよ。
- 1825年に「ロコモーション号」という蒸気機関車を発明した人だよ。
- 「ロコモーション号」で、人類初の「鉄道の営業運転」を実現した人だよ。
- 日本の新幹線などにも使われている、世界で標準(スタンダード)となっている線路幅(1435mm)である「標準軌」を考案した人だよ。
- 蒸気機関車の実用化により、イギリスの産業革命に大きく貢献した人だよ。
- 彼の存在が無ければ、世界における蒸気機関車の実用化は、もっと遅れていたよ。
という人です。
ちなみに、彼が出てくる前の世の中は、
- それまでの鉄道は、すぐ壊れてしまうのが多く、とても実用的とはいえないものだったよ。
- ましてや鉄道に石炭をバンバン乗せたり、人をたくさん乗せたり、ましてや「営業運転」をするなんて、当時は到底考えられなかったよ。
もし彼がいなければ、日本の鉄道の歴史においても、その普及や実用化がもっと遅れていたことでしょう。
例えば、日本で新橋~横浜間で鉄道が開通するのが、約20年も遅い1890年代以降と遅れてしまったかもしれません。
そうなると、日本の発展や近代化も、もっと遅れていていたことでしょう。
それだけ、ジョージ・スチーブンソンが19世紀はじめという、日本では余裕で江戸時代だったころに、初の実用的な蒸気機関車を発明したという功績は、あまりにも大きかったのです。
ジョージ・スチーブンソンが1825年に走らせたロコモーション号は、東海道・山陽新幹線の最新型「N700S」の、はるか遠い先祖だというわけなのですね。
世界初の、「本格的な」蒸気機関車を作った
ジョージ・スチーブンソンは「鉄道の父」と呼ばれています。
ジョージ・スチーブンソンは、蒸気機関車を使って、公共鉄道(つまり、お客様や荷物などを乗せるための鉄道運営)の実用化に、世界で初めて成功したのでした。
当時のヴィクトリア朝のイギリスは、特に世界最先端を進んでいたのです。
ヴィクトリア朝とは、1837年~1901年にかけての、ヴィクトリア女王の時代のことです。
そもそも、蒸気機関車とは?
蒸気機関車とは、蒸気機関を用いて走る機関車のことです。
蒸気機関とは、石炭を燃やしてお湯を沸かし、その時発生した蒸気で動く機械・仕組みのことです。
機関車とは、自力では走ることができない客車(お客様を乗せる車両)や、貨車(石炭などの荷物を載せる車両)を引っ張るための車両です。
蒸気機関については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。
機関車については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。
「スチーブンソンゲージ(標準軌)」
現代の日本の新幹線でも使われている、スチーブンソンさんが採用した1,435 mm(約1.4m)という線路幅は「スチーブンソンゲージ」とも呼びます。
これは、世界中の「標準軌(スタンダード)」となっています。
つまり「この幅であれば、世界中どこの線路の上でも走れる」というわけですね。
ただし、日本のJR在来線の線路はより幅の狭い狭軌(きょうき)のため、この標準軌の上を走ることはできません。
標準軌は、日本では新幹線や京急線・近鉄線・阪急線などでも採用されている、線路の幅になります。
なぜ「標準軌」を考えついたのか?
なぜ彼が標準軌を考え出したのかというと、これから色んな会社が色んな場所に鉄道を建設していくことを考えたときに、レール幅が一定だとやりやすいと考えていたからですね。
逆に、鉄道会社や路線によってレール幅がバラバラだと、鉄道の運営や発展に支障が出てくるというわけです。
他社間での相互乗り入れもやりにくくなりますからね。
なぜ日本は「狭軌」なのか?
日本が「狭軌(きょうき)」を採用したのは、シンプルに「コスト削減」のためです。
一般的に、線路には
- レール
- 枕木(まくらぎ):レールを支え線路を強化するために、レールと垂直に何枚も敷いていく板のこと。
- 砂利(じゃり):バラストとも。騒音の防止・衝撃の吸収・雑草の防止などのために必要。
などの要素が必要です。
標準軌の場合だと幅が広いため、それだけの枕木と砂利が必要になってきます。
しかし狭軌ならば幅が狭いため、それだけ枕木を短くでき、砂利の数を減らせることができます。
これによってコスト削減ができるというわけです。
そのため「レール幅の狭い線路」は、あまり乗客が見込めず、そこまで多くのスペックを必要としないローカル線や森林鉄道などで広く用いられる傾向にありました。
しかし狭軌には、
- コストをあまりかけずに建設された路線も多いため、その場合はスピードアップしにくい、列車の重量に制限がある
- 標準軌の路線に乗り入れることができない(幅が違うため)
などの欠点もあります。
最初は苦労も多かった少年時代~青年時代
ここからは、ジョージ・スチーブンソンの生涯についてみてゆきましょう。
ジョージ・スチーブンソンは、1781年にイギリス・イングランド北部の、ニューカッスル・アポン・タインという町で生まれています。
イギリス全体を地図で眺めたとき、だいたい真ん中より少し上にある、スコットランドにやや近い都市になります。
※スコットランドとは、イギリスの北部にある国です。
イギリスは、
- イングランド(グレートブリテン島の南部)
- スコットランド(グレートブリテン島の北部)
- ウェールズ(グレートブリテン島の南西の一部)
- アイルランド(西側のアイルランド島)
の4つの国からなる連合王国(United Kingdom:UK)になります。
また、イギリスはメインとなる大きな島であるグレートブリテン島(日本でいう「本州」)、そして西側に位置するアイルランド島からなります。
当時はほとんどの人が、読み書きできなかった
父・母両親とも、読み書きができなかったといいます。
というのも、当時はほとんどの人は田舎での農作業や山の炭鉱での労働でしたから、頑張って文字を勉強してまで読める必要は無かったのです。
つまり文字が読めなくても、会話だけできていれば、十分に仕事が成立して、生きていけたからですね。
父は、炭鉱で機関夫(きかんふ※)をしていたのでした。
※機関夫とは、炭鉱で、蒸気機関の操作をする人のことです。
炭鉱を掘るとたくさんの地下水が溢れてくるため、放っておくと洞窟の中が水没してしまい、大事故になってしまいます。
そのため、地下水を吸い出して逃がしてやるために、蒸気機関が必要だったのでした。
低賃金の父親、学校にも通えず
炭鉱で働いていた父親でしたが、賃金がとても低かったため、子どもをまともに学校に通わせることもできなかったのでした。
学校に通えなかったジョージは、炭鉱で働く父をサポートをしながら、技術を学んでいったのでした。
学歴こそなかったわけですが、職業に関する技術はとても早い(幼い)段階で学べたわけですね。
余談:高学歴のデメリットは、社会人デビューが遅れること
ちなみにこれは、高卒の先輩が、大学院卒の新入社員に勝つというイメージでしょうかね(^^;)
たとえ同い年であっても、高卒の方が社会人デビューが早いわけです。
そのため、25歳の時点でもはや中堅扱いみたいな感じとなっています。
たとえ同級生であっても、高卒の社員の方が先輩であり、タメ口はきけません。
もっとも、学歴が高い方が有利という構図は(特に大企業や人気企業では)、未だに変わっていません。
人気企業だと応募者が多すぎるため、学歴で足切り(書類選考落ち)させないと、選考できないからですからね。
以上、余談すみません。
学校へ行けず早く働きはじめた分、若い段階から技術を学べたジョージ
こうしてジョージは学校に通うことができなかった分、かなり小さい頃から蒸気機関の技術を学んでいたのでした。
そして1798年・17歳のときに、早くも一人前の炭鉱の機関夫となったのでした。
ちなみに「夫(ふ)」という言葉には、「労働に携わる人」という意味があります。
例えば、漁夫・農夫・坑夫などですね。
働きながら、自力で学校に通う
彼は18歳までは学校に通うことができず、学ぶということがほとんどできなかったのでした。
しかしジョージは、教育を受けることの価値をとても理解していたため、働きながら夜間学校に通って、「読み書き」や「算数」を学んだのでした。
エラいですね。
昔は、金持ちしか学校に通えなかった
こうしたジョージの例から、昔は
- 親が裕福でないと、学校に行けない
- 自分で働かなければ、学校に行けない
という時代だったことがよくわかります。
しかし、これだと教育や学力に個人間で格差が生まれ、国の平均能力にも影響が出てきます。
例えば、勉強をしていない人が、エライ人の足を引っ張るようなことがあってはならないわけです。
これだと戦争になったときに、とてもマズイわけですね。
国民の学力はできるだけみんな等しく、最低限の学力は持っていることが望ましいわけです。
義務教育は、金の有無に関わらず、国民に学力の格差を生ませないことが目的
こうしたことから、義務教育が生まれたのでした。
ちなみに、義務教育においてみんなが制服を着る理由は、
「貧富の差がない、格差がなく教育を受けることができることの象徴」
というふうに、いわれているわけです。
※またまた余談すみません!
若い青春時代を、苦労し勉強し続けたジョージ
1801年頃、20歳だったジョージは、粗末な住宅のとある一室に住みながら、学校へ通うための学費を稼ぐために働いたり、その傍らで勉強をしていたのでした。
そして彼は本業の蒸気機関だけでなく、少しでも収入の足しにするため、靴や時計の修理も副業で行っていたのでした。
彼の場合はどちらかというと、苦労の方が多い青春時代だったといえます。裕福な家庭に生まれていれば、良い教育が受けられたのかもしれません。
しかし、学校へ行けないことで、早い段階から仕事の現場で蒸気機関の技術を学べたというたことは、それはそれで彼の強みだったのかもしれませんね。
そして彼は好奇心旺盛で、とにかく実験やモノづくりが大好きでした。
発明王・エジソンと似ていますが、こうした探求心の強さも、彼を成功に導いた要因でしょう。
1802年、リチャード・トレシビックによる世界初の蒸気機関車
1802年、リチャード・トレビシックというイギリスの技術者が、世界初の蒸気機関車を発明しました。
ここで注意したいのが、日本においてはしばしばスチーブンソンが蒸気機関車の「発明者」であると紹介されたりするのですが、実際にはトレビシックが世界初の蒸気機関車の発明者ということになります。
- リチャード・トレシビック→最初に蒸気機関車を作ったことには変わりないが、まだまだ完成度的に実用的なものではなかった。
- ジョージ・スチーブンソン→多くの人やたくさんの石炭をバンバン載せられるような、本格的で実用的な蒸気機関車を作った。
なので、確かに「世界初」はトレシックに間違いないのですが、実用的なレベルの蒸気機関車を作ったのはスチーブンソンである、ということです。
ここは勘違い・混同しないように注意しましょう。
スチーブンソン以前の従来の機関車は、どれも実用的とは言い難いものでした。
というのも、すぐに不具合で壊れたり、レールが車両の重さに耐えきれずに破損していたりして、とても使えるレベルとは言い難いものだったのです。
1814年、初の本格的な蒸気機関車の発明
1814年、ジョージ・スチーブンソンは、石炭輸送のための本格的な蒸気機関車を設計したのでした。
この蒸気機関車では、時速6.4kmで坂を上ることができ、さらには30トンにおよぶ量の石炭を運ぶことに成功したのでした。
つまりこの段階で、かなり重たい量の石炭を運べたというわけですね。
当時、石炭は産業革命の一躍を担う蒸気機関を動かすために不可欠なエネルギー源でしたから、これを大量に運べるような蒸気機関車は、本当に画期的だったわけです。
人類はじめて大量の石炭を運んだ
こうしたスチーブンソンが発明したこれだけ大量の石炭を積んで走れる蒸気機関車は、それはもう「実用レベル」でした。
先述の通り、当時の石炭は、何を動かすにも必要なエネルギー源でした。
そのため、スチーブンソンが発明したこの蒸気機関車は、まさに歴史を動かすような大発明だったというわけです。
しかし、これが約200年後に日本の新幹線・N700系Sにまで進化しようとは、スチーブンソンさんすらも思わなかったでしょうね。
車両が重すぎ、レールが耐えきれず断念
その後1817年には、スコットランドなど様々な路線で走らせるために、蒸気機関車を製作しようとしたのでした。
しかし当時のもろい線路では強度的に弱く、レールがすぐに列車の重さに耐えきれず、破損してしまうということがわかってしまいました。
そのため、運行することはすぐに中止されたのでした。
当時は、あちこちの鉱山から石炭を運ばせるために作られた蒸気機関車も色々あったのでした。
しかしどの車両も、
- 蒸気機関がまともに動かずに不調だったこと
- 線路(レール)に対して損傷を与えてしまったこと
などから、すぐに使用中止となったのでした。
当時の蒸気機関車は、重く、レールが耐えきれなかった
当時の蒸気機関車は非常に重かったため、当時のもろい線路の上を走らせるのは、とても困難なことだったのでした。
例えば木製や、鋳鉄(ちゅうてつ)などによって出来たレールだと、蒸気機関車の重さにあっという間に耐えきれなくなっていました。
重すぎる車両に対して、レールの強度がとてももたなかったのです。
強いレールの研究と、車両の改善
このような背景から、スチーブンソンと彼の共同作業者たちは、鋳鉄製の線路の強度を高めていくための設計について研究してゆくことにしたのでした。
そして「強い鉄製のレール」を作ることにチャレンジしていったのでした。
もちろん、線路に負担をかけないような蒸気機関車側の工夫も行っていったのでした。
ちなみに現代の線路のレールでは、頭部を肉厚にして、摩耗に耐えるように造られています。
レールを横から見ると「工」の文字のような形になっているのは、そのためですね。
また、レールが磨耗しないように、定期的に取り替えられています。
車輪の数を増やして、重さの負担を分散させる
スチーブンソンはこうして試行錯誤していくなかで、結果的に「車輪を増やして、重さを分散させればよい」ということに気付いたのでした。
鉄道の車輪が多いと、車両の重さを支えたりするときに有利になります。
もし重さが一点のみに集中していると、レールに対する負荷も集中しすぎてしまい、破損の原因になったりします。
いわゆる荷重分散(かじゅうぶんさん)をすることで、レールにかかる負荷も分散されるようになります。
このようにスチーブンソンは、レールの強度を高めるだけでなく、車両における対策も考えて、試行錯誤していったわけですね。
そこには、恐ろしいほどの失敗の数があったことと思われます。
現代我々が当たり前にように乗っているの電車は、スチーブンソンさんのこうした試行錯誤のもとによって成り立っているわけですね!
世界初の「営業運転」を行った、ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道
イギリスのストックトン・アンド・ダーリントン鉄道は、イングランド北東の地域において、世界初の蒸気機関車を実用化した鉄道会社です。
1820年、スチーブンソンは炭鉱と都市の間で、石炭を運ぶための、約13kmの鉄道の建設を任されたのでした。
- 石炭は、現代でいうガソリンのような、貴重なエネルギーです。
- そんな大量の石炭を、もし炭鉱で掘り出してから鉄道で運べたら、どんなに素晴らしいかという話でした。
このとき、
- 下り坂においては、重力(そのまんま下っていく方法)を使う
- 上り坂においては、蒸気機関車の力を使う
という方式の鉄道となりました。
これは世界初の、畜力(=例えば馬など、家畜や動物などによって引っ張られる力)を全く使わない鉄道となったのでした。
議員立法可決により、国から鉄道建設の許可が降りる
1821年、ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道の建設に関する、議員によって(議会へ)提出された法案が可決(決定)されたのでした。
つまり、スチーブンソンに味方をする議員が「こんなことをしたいよ!」「鉄道を作っていいかな?」という案を議会(=国の多数決機関)へ提出して、議会のみんなが賛成したら、はじめて許可が降りて決定する(可決する)、というわけです。
鉄道はどこにでも無許可で作っていいわけではないため、国から法的に鉄道建設が認められたわけですね。
余談:日本で議会が始まったのは1890年から
ちなみに、日本ではじめて議会が始まったのは1890年の第一回帝国議会のときです。
なんなら、スチーブンソンの時代の日本は江戸幕府による独裁封建国家だっため、とても同時期のヨーロッパのような「近代国家」というには程遠い状態でした。
それに比べて、イギリスではもう17世紀頃には既に議会の形式をとっていましたから、どれだけ進んでいたんだよ・・・って話ですね。
ただし、あまり江戸時代の日本をディスってばかりだと申し訳ないので、ちゃんとフォローしておきます。
明治維新後の日本は約40年かけて急速に成長してゆき、早くも1902年にはイギリスが同盟を結んでくれるまでに成長しました(日英同盟)。
そして第一次世界大戦のときには、日本は見事に先進国の仲間入りを果たしています。
1825年 ロコモーション号の完成
1825年、最初の蒸気機関車が完成し、ロコモーション1号と名付けられました。
リトル・エヴァや、カイリー・ミノーグの曲ですね!
スチーブンソンの運転するロコモーション号は、80トンの石炭を乗せて引っぱってゆきました。
そして、15kmにもおよぶ距離を2時間で走行し、最高速度は時速39kmにも達したのでした。
全体としてはまだ現代のマラソンランナーよりも遅いですが、最高速度に限っていえば、この時点で既に自動車並みの速度があったことがわかります。
この蒸気機関車の後ろには、初の旅客用車両(つまり、人が乗ることができる客車)もつなげられていました。
そして、主な関係者たちがそれに乗り、みんながロコモーション号の初めての走行を楽しんだのでした。
風をきって走るのは、これまで味わったことのないような快感・楽しさだったことでしょう。
これこそがまさに、世界初の蒸気機関車を使った、鉄道による旅客輸送・営業運転ということになります。
1872年に新橋~横浜間で、日本で鉄道がはじめて営業運転をされる、約50年前のことでした。
この頃、日本では余裕で「江戸時代」だった
そしてこの頃、日本では余裕で江戸時代でした。
しかもこの時は異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)という、
「日本に近づいた外国船を、砲撃して追い払ってしまえ」
という、とんでもない政策をやってのけてくれていました。
こんな事をしていると、ロコモーション号の技術が日本に入ってくることもないわけです。
そのため、日本に鉄道の技術が入ってくるのは、1853年の黒船来航まで待たないといけなかったわけです。
鎖国体制を批判した人もいた
もちろん日本国内でも、幕末にこの鎖国体制を批判した人はいました。
それは
- 高野長英(たかの ちょうえい)
- 渡辺崋山(わたなべ かざん)
という人物です。
しかし彼らは1839年に、「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」で処罰されてしまいました。
日本にようやく鉄道が走るようになったのは、1865年にトーマス・グラバーさんが長崎で初めての鉄道を走らせ、さらにはご存じの通り1872年の新橋~横浜間で初めての営業運転がなされてのことでした。
ロコモーション号が走ってから、実に50年近く遅れてのことだったのでした。
より強度の高いレールを採用
話がズレましたが、スチーブンソンさんの話題に戻します。
この鉄道では、従来のもろい鋳鉄製のレールではなく、新しく考案され作り出された錬鉄製(れんてつせい)のレールを採用したのでした。
錬鉄(れんてつ)でできたレールでは、従来よりもより長い線路・レールを製造することができたのでした。
また、たとえ重い機関車を走行させたとしても、全然問題なく破損しにくかったのでした。
「標準軌」を本格採用
スチーブンソンは、レールの幅として1,435mm(約1.4m)という長さを採用しました。
これがイギリスだけでなく、全世界のレール幅においてのスタンダード、つまり標準軌となったのでした。
レール幅がみんな同じで統一されていれば、たとえ鉄道会社が違っていたとしても、同じ列車を走らせることができます。
つまり、相互乗り入れが容易になるわけです。
これから色んな会社が鉄道建設をしていくことが簡単に予想できる中で、スチーブンソンはこの点に早い段階から着目しており、「標準軌」を考えついたのでした。
つまり、現在でも日本の新幹線や近鉄線などで使われている標準軌を初めて考えだし、採用したのは、スチーブンソンだったということです。
標準軌は、現在でも世界中で採用されています。
鉄道事業の大成功 アメリカでも蒸気機関車が導入
こうして大成功を収めたスチーブンソンでしたが、その後の10年間は、多くの鉄道事業者から引く手数多(ひくてあまた)・引っ張りだことなり、スチーブンソンにとっては人生において最も忙しい時期となったのでした。
やがては、海の向こうのアメリカからも、鉄道を建設しようとする人たち、スチーブンソンの故郷であるニューカッスル・アポン・タインにやってきて、スチーブンソンから鉄道の技術を学んだのでした。
アメリカでも1830年に蒸気機関車によるる営業運転が開始されましたが、実際にアメリカで使われた最初の十数台の蒸気機関車は、スチーブンソンの会社から購入したものだったのでした。
後継者の台頭
後継者として、
- 息子のロバート・スチーブンソン
- 助手だった、ジョセフ・ロック
さらには若い様々な技術者たちが、成功しはじめていたのでした。
そしてジョセフ・ロックとは、後述の通り対立してしまい、やがて負けてしまうことになってしまいます。
スチーブンソンにも逆境が訪れる
しかし、なんでもかんでもスチーブンソンの思い通りになったわけではありませんでした。
鉄道の技術は日進月歩であり、10年も経てばどんどん新しい技術・価値観が産み出されてゆきます。
そんな時代の変化に、スチーブンソンはついていけなくなるわけです。
いわば、スチーブンソンの考えが早くもオワコン化してゆき、また彼の弱点も露呈されていったのでした。
平坦なルートを推すスチーブンソンと、後継者・ロックとの対立
スチーブンソンは、蒸気機関車の能力については、後継の技術者よりも保守的な考え方でいました。
つまり、かたくなに従来どおりのやり方を変えようとしなかった「前例主義だった」というわけです。
鉄道は坂道に弱いため、特に初期の鉄道はそうだったでしょうから、発明者たるスチーブンソンが頑なにそんな態度をとったのも、わからなくはありません。
しかしスチーブンソンのそうした態度が、後継者であるジョゼフ・ロックとの対立を起こしてしまったのでした。
それは可能な限りなるべく平坦なルートを選ぼうとしていたのでした。
ロックの主張:山側の、直線的なルートを採用すべきだ!
ジョセフ・ロックは、ウェスト・コースト本線(=現在でもイギリス西海岸地域を走っている路線)においては、
- ランカスター(=イギリス西部の都市)
- カーライル(=イギリス西部の都市)
というそれぞれを結ぶ区間を、内陸部の
- シャップ
という町を経由する、直線的なルートを推していました。
つまり、勾配はややきついが、より直線的なルートだというわけです。
スチーブンソンの主張:海側の、大回りでも平坦なルートを採用すべきだ!
一方のスチーブンソンは、
- ウルバーストン(イギリス西海岸の町)
- ホワイトヘブン(イギリス西海岸の町)
をそれぞれ経由するという、「海岸線に沿った、長いルート」を推していました。
つまり、大回りになってでも、平坦なルートにしようとしていたわけです。
スチーブンソンの主張は却下、ロックの案が採用される
結局は、後述の通りロックの案が採用され、スチーブンソンの案は却下されてしまいました。
最終的には、ロックの案の方がコスパがよいと判断されたのです。
スチーブンソンは後述する通り、コスト計算やマネジメント能力に劣っていると判断されたため、不採用になったわけですね。
現在でもイギリス西海岸路線においては、シャップを経由する、内陸側の直線ルートとなっています。
経営能力を問われ、クビになる
スチーブンソンは先述の通り、
- 線路建設のコスト計算
- お金にまつわる、もろもろの事務手続き
などに、無頓着なところがあったのでした。
鉄道を建設していくには、予算や人にどれだけお金をかけるか、という視点は絶対に重要です。
もしもやばい場所に線路を通してしまうと、コストオーバーで大赤字になってしまい、会社が破綻してしまうリスクもあるからです。
その結果、スチーブンソンの予算の見積能力や、組織をまとめていくための統率力は、ロックのそれよりも劣っていることが判明したのでした。
こうして、スチーブンソンは経営面・マネジメント面でのスキルに劣っていると判断力されたのか、経営陣は彼を解任することにしたのでした。
彼はバリバリ「技術系」で、マネジメント面では向いていなかった?
思うにスチーブンソンは「技術面」「探求心」については、すごく卓越していたのでしょう。
しかし、肝心の「人」「カネ」を扱う経営能力・マネジメント能力は、残念ながら劣っていたといわざるをえなかったのかもしれません。
これは現代で例えれば、
パソコンやITには凄い能力を発揮したが、
課長などの管理職に昇進した瞬間、
ワンマン気質で、マネジメント面はズタボロ・・・
みたいになるような、「あるある」なケースですね。
「名選手は名監督ならず」優れた技術者が、優れた管理職になるとは限らない
「名監督は名選手ならず」というフレーズがあります。
つまり、優れた現役選手が、優れた監督・管理職などになるとは限らないのです。
つまり、
- 技術において必要な知識・スキル
- お金・マネジメントにおいて必要な知識・スキル
は、全く異なる分野なのです。
たとえ技術面が評価されて出世した人であっても、出世して管理職になれば新たにマネジメントの勉強をしていかなければならないため、それだけ世の中は厳しいわけですね。
ちなみに名選手が名監督になったケースも、もちろん存在します。野村克也さんや、工藤公康さんなどが代表例にあたります。
それでも知名度(ネームバリュー)が高く、仕事は減らなかった
話をジョージ・スチーブンソンに戻します。
解雇されたスチーブンソンはこうして仕事を失うことになりましたが、それでもそれ以上に仕事の依頼が殺到したため、いちいちすべての仕事を受けてはいられないほどの忙しさになっていました。
この時のスチーブンソンは、最先端の技術を持ったスゴい人というよりも、彼の名を使えば安心感・信頼感があるというような存在となっていたのでした。
つまり、この時点でネームバリューがとて高かったのです。
スチーブンソンはそれまでの実績から知名度がバツグンにあったため、鉄道業界から干されて仕事に困る、ということは決して無かったわけですね。
晩年
「英国機械学会」の初代会長に
1847年、英国機械学会の初代会長に就任しました。
英国機械学会とは、イギリスで最大・最強の技術者組織です。
つまり様々な研究者や大学の教授、学生などが集まって、最新の技術の研究をしたり、論文を書いて発表したり、「こうかな?それは違う」「それはもっとこうしたほうがいい」などという風に研究者どうしで議論したりして、日夜、切磋琢磨しているわけです。
現代でも世界141か国に会員が存在しているなど、バリバリ現役の最先端をいく学会になります。
その初代会長をスチーブンソンが務めたのですから、それまでの実績がとても評価されていたわけですね。
まだ日本には黒船すら来ていない・・・
このように、1840年代当時のイギリスがこれだけ最先端をいっていたなか、日本では、まだ黒船が来る前の鎖国状態でした。
- 日本が当時いかに遅れていて、マズイ状況にあったか
- また、イギリスがどれだけ最先端をいっていたか
という状況が、とてもよくわかる事案ですね。
鉱山を発見し、私財を投入して掘りまくる
その後のスチーブンソンは、半ば引退という形になりました。
そしてマンチェスターの南のとある地域において、鉱山を発見したため、鉱山を経営したのでした。
マンチェスターとは、イギリスの真ん中にある、イギリスで第3の大都市です。
彼はイギリス北部の真ん中あたりに鉄道建設をするため(ノース・ミッドランド鉄道)、建設のためにトンネルを掘っていた時に、新たな石炭のたっぷ採れる層を発見したのでした。
そして、その採掘のために、財産の多くを投入したのでした。
たくさん石炭が採れれば売れて、大儲けをすることができるからですね。
1848年、偉大なる鉄道の父・ジョージ・スチーブンソンは、67歳で死去しました。
スチーブンソンの功績まとめ
このように、人生の後半はやや失速した感もあったジョージ・スチーブンソンでしたが、やはり彼の人生トータルでみれば、やはり彼が偉大であるという点には変わりありません。
イギリスは彼の功績により、鉄道の分野で世界をリードして突き放してゆきました。
それが産業革命をもたらし、ヴィクトリア朝のイギリスを世界最先端国家として大きく進展させる、大きなきっかけとなっていきました。
鉄道は、モノを造るときの原材料や、売るために製品の輸送に、とても役立ったのでした。
イギリスの偉人100人にランクイン
2002年に行われた「100名の最も偉大な英国人を選ぶ」という投票において、ジョージ・スチーブンソンは65位に選ばれたのでした。
ちなみに1位はウィンストン・チャーチルという、第二次世界大戦中の首相です。
第2位は、蒸気船を発明したイザムバード・キングダム・ブルネルになっています。
他にも、我々日本人にとって馴染みあるところで例を挙げると、
- 3位:ダイアナ元妃
- 4位:ダーウィン:「進化論」で有名な学者。
- 5位:シェイクスピア:16世紀~17世紀にかけて、様々な劇を作った人物。
- 6位:ニュートン:「万有引力の法則」や、微分・積分を考えた学者
- 8位:ジョン・レノン:ビートルズのメンバー。
- 16位:マーガレット・サッチャー:イギリス初の、女性首相。
- 18位:ヴィクトリア女王:イギリスが産業革命で世界最強を誇った、ヴィクトリア時代(1837年~1901年)の女王。
- 19位:ポール・マッカートニー:ビートルズのメンバー。「Yesterday」「Hey Jude」「Let It Be」など、誰もが知る名曲の実質的な作者。
- 22位:マイケル・ファラデー:電気分解に関する法則(ファラデーの法則)を発見した。
- 24位:エリザベス女王:「クイーンエリザベス号」の由来にもなった、在位期間1952年~2022年の女王。多くの国を訪問し、多くの日とに親しまれ愛された。
- 58位:フレディ・マーキュリー:クイーンのボーカリスト。
ちなみに私が個人的に好きな、
- 小説家コナン・ドイル(=シャーロック・ホームズの作者)
- リッチー・ブラックモア(ディープ・パープルのギタリスト)
- ブライアン・メイ(クイーンのギタリスト)
らは、残念ながらランク外でした(^^;。
どれだけイギリスには偉人が多いんだよ!!って感じですね。
まさに大英帝国です。
現在はイギリス国内を走る、日本の新幹線
今回はイギリスを持ち上げるような内容になってしまい、実際にイギリスは凄い国ではあるのですが、日本の技術だって負けていないのです。
日本の新幹線は、今やイギリスにも輸出されています。
日本の新幹線は「AZUMA号」として、イギリスの国内を走っているわけです。
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
ちゅうい!おわりに
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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