長崎で「日本初の鉄道」を走らせた偉人あるトーマス・グラバーについて、歴史に詳しくない方にもわかりやすく解説してゆきます!

トーマス・グラバーが本拠地を構えた、長崎の景色(長崎県長崎市)
幕末の日本で活躍した、トーマス・グラバー
トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover:1838年~1911年)は、幕末から明治時代にかけて日本の近代化・最新技術化に非常に大きな貢献をした、イギリス・スコットランド出身の商人です。
1865年、長崎で「日本初の鉄道」を走らせたグラバー
グラバーさんは、江戸時代の終わりに長崎にやってきて、1865年に長崎で「日本初の鉄道」を走らせました。
1872年の「新橋~横浜間」は、あくまで「営業運転が初」という意味
ちなみに、よくご存知の通りの
というのは、あくまで営業運転になります。
つまり「お客様からお金をもらって走る」形態、つまり「営業運転」が1872年だった、という意味になります。
なので、1865年に長崎でグラバーさんが走らせたのが、日本史上初の鉄道ということになります。
1838年、スコットランドにて生まれる
トーマス・ブレーク・グラバーは、1838年にイギリス・スコットランドで、8人兄弟姉妹の5人目として生まれたのでした。
※スコットランドとは、イギリスの北部にある国です。
イギリスは、
- イングランド(グレートブリテン島の南部)
- スコットランド(グレートブリテン島の北部)
- ウェールズ(グレートブリテン島の南西の一部)
- アイルランド(西側のアイルランド島)
の4つの国からなる連合王国(United Kingdom:UK)になります。
また、イギリスはメインとなる大きな島であるグレートブリテン島(日本でいう「本州」)、そして西側に位置するアイルランド島からなります。
1859年、長崎に移住してくる

かつてはグラバーさんも住んでいた、長崎の港(長崎県長崎市)
グラバーさんは幕末の1859年、わずか21歳の若さで、長崎に移住して来たのでした。
これは1858年に日本とイギリスとの間で結ばれた日英修好通商条約(※)で、長崎がいわゆる「開港5港」の一つとして選ばれてから、わずか1年後のことでした。
※これは1858年にアメリカとの間で結んだ「日米修好通商条約」の、いわばイギリス版です。
つまり、アメリカだけでなく、イギリスとも同じような条約を結んだのでした。
長崎の開港については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

長崎が「開港」してから、わずか1年で移住してきた
つまりこの条約により、イギリス人が、長崎に住んで商売を行うこと(通商など)が認められたのでした。
それまでは「鎖国」により、禁止されたいたのでした。
そしてグラバーさんは、この条約で長崎が開港してから、わずか1年でやって来たのでした。
おそらく、グラバーさんは
- 「これからの日本はもっと発展する」
- 「日本で商売をやれば売れる」
という風に考えて、いわゆる「即断・即決・即実行」で日本に移住してきたのでしょう。
実際、その目論みは見事に的中して、グラバーさんは日本で大金持ちになっていくのです。
実際、ビジネスにおいて「即断・即決・即実行」の精神は、機会損失をしないためにとても重要なことになります。
長崎移住から2年後に「グラバー商会」設立
そして二年後の1861年に「グラバー商会」という会社を設立して、そこから貿易業を営んでいくための、第一歩を進んでいくことになりました。
まさにザ・商人といった感じですよね。
最初は「生糸」「お茶」などで儲けていった
グラバーは、まず長崎では「生糸」「お茶」などの、比較的軽い製品の貿易業から初めていったのでした。
それを売ったお金で、次々に財力を増やしたりしていったわけですね。
その結果、後に
- 鉄道を走らせられる
- 造船所を作れる
- 炭坑に蒸気機関を導入できる
- ビール会社を建てられる
- 若者に対して、イギリス留学のための支援を行える
- 長州藩・薩摩藩に対して売るための武器を仕入れられる
ことができたくらいの、まさにお金持ちになっていくわけです。
鉄道の素晴らしさを、幕末の日本人にアピールしたグラバー
グラバーさんは幕末の1865年、まだ明治維新すらなっていない時代に、長崎で「日本初の鉄道」を走らせました。
つまり、1872年に新橋~横浜間で、日本で商業鉄道が開始されるよりも前に、蒸気機関車の試走を行いました。
このときの機関車は、アイアンデューク号といいます。
営業運転ではなく、あくまで「試運転」だった
ちなみに、これは「営業運転」ではなく、あくまで「試運転」「お披露目」という地位付けになります。
つまり、
みたいな感じで、人々にアピールする目的でやったわけです。
つまり、「お客様から運賃をいただいて走る」という、いわゆる「営業運転」ではありませんでした。
「営業運転」のはじまりは、まさに1872年の「新橋~横浜」ということになります。
グラバーによる「西洋式ドック」の建設
また、グラバーさんは長崎に、当時のヨーロッパで最先端をいっていたハイテク式技術によって船の修理をするための、いわゆる西洋式のドックを建設してゆきました。
ちなみに、「ドック」とは?
ドック(「どつく」とも)とは、船の修理などするために必要な、「巨大な溝」のことです。
この「溝」の中に船を入れて、その回りで「人」が修理・メンテナンスなどの作業を行うわけです。
詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

当時、日本では蒸気船は、まだ珍しかった
当時の日本人は、まだまだ蒸気船の存在で驚いていたような時代です。
というか、江戸時代まではずっと風まかせの「帆船」でした。
つまり、風が来ない限りは、船は前に進むことができなかったのです。
しかし、「石炭」「水」をエネルギー源として使う「蒸気機関」を使って動く蒸気船であれば、風がなくともどんどん前に進むことができたのでした。
風がなくても、どんどん前に進める蒸気船
蒸気船は、イギリスでは19世紀前半には既に実用化されていました。
しかし、日本では19世紀半ばの1853年にペリー提督が黒船がやってくるまで、日本人たちは蒸気船を見ることは決してなかったのです。
たった四杯で夜も寝られず」
※上喜撰とは、お茶の一種です。ここでは「蒸気船」とかけています。
つまり、お茶のカフェインによる「覚醒作用」と、黒船(蒸気船)の恐ろしさとで、夜も全然眠れない、という意味になります。
昔の人は、うまいこと言ったものですよね(^^;
そのため、黒船(=蒸気船)がやって来たことによって、日本人ははじめて「蒸気船」という、とんでもないものを目の当たりにしたのでした。
本格的・西洋式に蒸気船を整備していく 整備を、長崎に作った
そんな「蒸気船」は、日本がこれから近代文明国家として発展していくには、絶対に不可欠な存在でした。
しかし、蒸気船は西洋の技術になります。
そのため、西洋式でやっていく「ドック(どつく)」が存在しなければ、船の製造・メンテナンス・修理などを行っていくことができないわけです。
ドックができたため、日本の産業・近代化に大きく貢献
そのため、グラバーさんは長崎に「西洋式のドック」を作っていったのでした。
これにより、日本でも西洋式の最新技術で、蒸気船の造船・メンテナンス・修理などができるようになります。
これだけとってみても、グラバーさんがどれだけ日本に貢献したかが、よくわかるでしょう。
ちなみに現代の船は、「軽油」で動く「ディーゼル船」が主流です。
蒸気機関については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

長崎を「造船の町」にしていった
グラバーさんは、三菱の創業者である岩崎弥太郎と、
- 石炭を輸入してくること
- 石炭の技術を導入していくこと
- 高島炭鉱の経営に携わった
- 三菱の顧問として活動したりした
などでお互いに協力関係を築いてゆき、三菱の会社が発展・近代化していくことを助けたのでした。
あれもやって、これもやって・・・ものすごいマルチタスクですよね。
高島炭鉱とは?
高島炭坑は、長崎市の南西に浮かぶ高島という島にあった炭坑です。
また、これは日本で初の「近代洋式炭坑」になります。
つまり、日本ではじめての「西洋の最新の技術を取り入れた炭坑」ということになります。
高島炭坑は、江戸時代から既に石炭を掘って採るということが行われていましたが、明治時代になった1881年には三菱の経営となったのでした。
蒸気機関を導入した洋式炭坑
ここで洋式炭鉱とは、
- 西洋の技術をとりいれた最新の、
- 従来の江戸時代の炭坑とは異なる、
- 石炭を採るための、当時としては最新の方式が取り入れられた炭鉱
のことをいいます。
蒸気機関をすばやく実用化させていたイギリスは、炭坑の技術も当時の日本と比べて、ものすごく進んでいたのでした。
炭鉱から水を取り出すために、蒸気機関は重宝された
その大きな変化は、やはり炭坑に蒸気機関が導入されたことにあるでしょう。
蒸気機関は、炭鉱の水を吸い出す時にとても重要でした。
なぜなら、炭鉱から水を吸い出す時に、地下水がたくさん出てくるからです。
この地下水をきちんと「排水」してやらないと、穴の中が水浸しになってしまい、作業員(坑夫たち)が溺れてしまい、大事故につながってしまいます。
それを防ぐために、蒸気機関が用いられたのでした。
グラバーが建てた「ソロバンドック」
幕末の1866年に、長崎の小菅(こすげ)という地域に、「ソロバンドック」を建造したのでした。
これにより、我が国の造船や船を修理していくための事業に、大きく貢献したのでした。
そもそも、「ソロバンドック」とは?
ソロバンドックとは、
- 海から陸へと続いていく斜面に、レールを敷いてゆき、
- そのレールの上に、長さ約173mにもおよぶ「船台(船を載せるための台)」を置き(※この「船台」が「そろばん」に似ていた)、
- その船台の上に船を乗せ、
- 潮の満ち引きによって起こる「潮の流れ」を利用して、
- 蒸気の力を利用した「船の曳揚(ひきあ)げ」を行う機械により、
- 船を陸上へと引き上げ、
- 陸地で船を修理する
という仕組みとなっていました。
この「船を置くための長い台」が、当時の日本人にはまるで「そろばん」のように見えたのでした。
ことから、地元では通称「ソロバンドック」として、長く親しまれていったのでした。
ビール会社「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」
グラバーさんは、ブルワリーカンパニーという、ビール会社にも関わりました。
ジャパン・ブルワリー・カンパニー(JBC)は、キリン麦酒株式会社の前身となる会社です。
この会社は、明治時代はじめの1885年に設立されました。
明治時代から流行しはじめた「ビール」
明治時代にビールが流行った主な理由は、日本にも西洋の技術が入ってきて、ビールの輸入・製造がより効率よくやりやすくなったことにありました。
そして、氷を使った冷蔵技術の進歩により、ビールを保存しやすくなりました。
これにより、美味しく飲めるようになったことなどが挙げられます。
特に、夏は特に蒸し暑くなる日本では、ビールは当然のように人気が出たと考えられます。
大阪の「造幣局」を建てるのも手伝った
トーマス・グラバーは、明治政府が大阪に造幣局を建てるときに、
- 香港造幣局の機械などを購入するための、仲介・協力をした
- 外国人の専門的な建築技師を雇い入れた
- 建築をするための資材の輸入などを手伝った
など、造幣局の建設・創業のために、大きな貢献をしたのでした。
グラバーは、このような貢献から、造幣局の建設・創業に欠かせない人物として知られています。
そもそも、「造幣局」とは?
造幣局とは、簡単にいえば「硬貨」を作る場所です。
造幣局は、現在でも大阪にあります。
詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

グラバーは、五代友厚らの依頼を受け、海外の造幣局の機械を買って、より近代式・最新式に発展させていくための支援をしたのでした。
五代友厚は、大阪を発展させるために鉄道網を整備してゆき、大阪の経済を発展させていきたいと考えていたのでした。
そのため、南海鉄道の設立に関わりました。
彼は薩摩藩(鹿児島県)の出身なので、鹿児島にも銅像があります。
長州藩に武器を売り、倒幕をサポートした
グラバーは幕末に、「幕府を倒せ」といって、真っ先に立ち上がった倒幕派の薩摩藩・長州藩との結び付きを、どんどん強めてゆきました。
そしてクラバーは、薩摩藩・長州藩に対して、戦うために必要となる船舶や、武器などの軍需品を、大量に売っていったのでした。
さすがはヤリ手の「商人」という感じですよね。
グラバーさんは先述の通り、「生糸」や「お茶」の輸出などで儲けていたのでした。
しかし幕末になって急に長州藩らが幕府に立ち向かうような世の中・風潮になってくると、そこに目を付け、長州藩にどんどん外国の最新鋭の武器を売っていったのでした。
ビジネスチャンスを見逃さなかったわけですね。
長州藩の「未来ある若者たち(長州ファイブ)」の留学をサポートした
グラバーさんは、今後の未来の日本で活躍しそうな、長州藩の有望な若者たちのイギリス留学を、全力サポートしたのでした。
幕末は、基本的には海外渡航は禁止されていた
まだまだ海外渡航が禁止されていた当時、
伊藤博文、井上馨らの長州藩士や、五代友厚らの薩摩藩士の、イギリス留学を援助・サポートしたのでした。
幕末の1866年までは日本人の海外渡航は禁止されていたのでした。
しかし、必ずしも留学が禁止されてはいなかったようでした。
ひそかに海外渡航した人は「密航者」として扱われたのでした。
幕末の1863年と1865年には、長州藩と薩摩藩の若者たちが、イギリス・ロンドンに向けて、密航留学を果たしています。
そんな中、「未来ある若者」長州ファイブの海外留学を全力サポートした
1863年に長州藩から5人の若者たちが、欧米に打ち勝つための技術・知識を学ぶために、イギリスへ密航留学をたのでした。
このときのグループを「長州ファイブ」と呼びます。
きっとグラバーさんは、彼らが帰国したときに、未来の日本の近代化に必要な人物となることを、確信していたのでしょうね。
1865年には、薩摩藩出身の五代友厚らによる、薩摩藩遣英使節団の海外留学の手引きもしています。
そのため、グラバーさんは明治維新を影で支えた、率役者とされています。
幕府側の敵から、木戸孝允を助けた
また、グラバーさんは佐幕派(※)の刺客(敵)に狙われていた木戸孝允を、自身の私邸にかくまったこともあったのでした。
※佐幕派(さばくは):幕末に幕府の存続を支持し、倒幕派と対立した勢力のことです。
長崎にある、グラバーの邸宅
長崎におけるグラバーが暮らしていた邸宅は、「旧グラバー住宅」と呼ばれます。
2015年に世界文化遺産に登録されました。
グラバー園
グラバー園は、長崎市にある旧グラバー住宅のことであり、グラバーの功績をたたえるための施設になります。
長崎にある旧グラバー住宅には、たとえば煙突や暖炉などといった、まさしくイギリスのような設備が備わっています。
そこに、日本風のデザインまでも混じりあうという、いわゆる和洋折衷のユニークな建築になっています。
クラバー園における庭や「温室」などには、グラバーが愛してやまなかった花(チューリップ、あじさい、大きな蘇鉄(ソテツ)など)などがたくさん咲き誇っています。
そのため、とてもオシャレな景色になっています。
晩年 政府より、「勲章」を与えられた
グラバーさんは晩年、これらの偉大な功績により、明治41年(1908)に、政府から勲章を授与されたのでした。
グラバーさんは明治44年(1911年)、東京の自宅で、73歳で永眠したのでした。
まとめ:グラバーの功績
以上、グラバーさんの功績は、以下のようにたくさんあります。
- 1865年に、日本で初めて汽車(アイアンデューク号)を走らせた。
- 日本で初めて蒸気機関を導入した、本格的な西洋式の修船施設を建設した。
- 日本で初めて、蒸気機関を導入した洋式炭坑を開坑した。
- 「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」(後の「キリン麦酒株式会社」)の設立に、大きく貢献した。
- 薩長土肥などの「幕府を倒せ」という藩に協力して、明治維新を成功させることに大きく寄与した。
- まだ海外渡航が認められていなかった幕末に、未来ある有望な若者たちに将来を託した。海外留学を目指す日本人たちを、援助した。
- 大阪では、「大阪造幣局」の設立にたずさわった。
私が知る限り、ここまで日本に貢献した外国人というのは、なかなかいないものです(^^;)
というか、すごく精力的に活躍されてた方なんだなぁ、と思ってしまいました。
今回はここまでです。
お疲れ様でした!
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