鉄道唱歌 奥州・磐城編 第2番 王子と飛鳥山公園

まずは原文から!

王子(おうじ)に着きて仰ぎみる
森は花見し飛鳥山(あすかやま)
土器(かわらけ)なげて遊びたる
江戸(えど)の名所の其一(そのひと)つ

さらに読みやすく!

王子(おうじ)に着きて 仰(あお)ぎみる
森は花見し 飛鳥山(あすかやま)
土器(かわらけ)なげて 遊びたる 
江戸(えど)の名所のその一つ

さあ、歌ってみよう!

♪おうじにつーきて あおぎみるー
♪もーりははなみし あすかやまー
♪かわらけなーげて あそびたるー
♪えどのめいしょの そのひとつー

(東北本線)
上野駅→王子駅→赤羽駅→(荒川)→浦和駅→大宮駅→蓮田駅→久喜駅→栗橋駅→(利根川)→古河駅→間々田駅→小山駅→小金井駅→石橋駅→雀宮駅→宇都宮駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記

上野駅を出て北上し、日暮里駅・田端駅を過ぎると、王子駅へ

上野駅(うえのえき、東京都台東区)を出発し、東北本線(現在の路線名では京浜東北線)を北上すると、王子駅(おうじえき、東京都北区)に着きます。なお、上野駅~田端駅の区間は、山手線(やまのてせん)と停車駅が被っています。

王子駅(東京都北区)
王子駅ホームより、南側(田端・日暮里方面)をのぞむ。写真右側(西側)が、飛鳥山。

王子駅の裏側(西側)にある、飛鳥山

王子駅の裏側(西側)には、飛鳥山(あすかやま)という山(標高約25mの高台)があり、また山には飛鳥山公園という公園があります。ここは江戸の花見の名所でした。春になれば、この飛鳥山公園はお花見の客で多いに賑わったことでしょう。

王子駅ホームから見渡す飛鳥山(東京都北区)

江戸時代に「かわらけ投げ」が流行った、飛鳥山の歴史

飛鳥山公園(東京都北区)

歌詞にあるように、ここでは江戸時代に「かわらけ投げ」という遊びが流行っていました。それは江戸時代に、武将が「さあ、これから出陣するぞ!」というときに盃(さかずき)を投げて気合いを入れていたという名残から、以後縁起物として広く行われていたようです。

しかしいくら縁起物とはいえ、こうした土器や入れ物を投げるのは普通に危ないですよね。実際、東北本線(明治時代は日本鉄道)が開通してからは、危険だという理由で禁止されてしまいました。
現代でこれをやってしまい、人様に怪我をさせてしまうと傷害罪(刑法204条違反)などで罪に問われるかもしれませんし、また列車に当たると往来妨害罪(刑法124条違反)や、威力業務妨害罪(刑法234条違反)となる恐れがあります。絶対にやめましょう

「紙の名所」だった王子 現在の「王子製紙」の原点

さて、王子はいわゆる「紙の製造の名地」です
もちろん、江戸時代以前の日本でも紙は使われており、江戸時代には一般庶民にも紙が浸透するほど安価にはなりましたが、明治時代以降のように大量生産できるだけの技術はありませんでした。しかも、現代のような木材パルプでできた性能のいい紙ではなく、あまり質の良くない紙しかありませんでした。
しかし、明治時代に王子に製紙場ができて、さらに西洋の製紙技術が導入されてからは、紙は一気に大量生産されメジャーな存在になりました。

元々ここ(王子)は、1870年代に渋沢栄一(しぶさわ えいいち)というとても偉い人が、紙を作る工場を建てたことから始まりました。その会社の名前を「抄紙会社(しょうしがいしや)」といい、現在の王子製紙株式会社の前身です。
王子は紙の原料となる木材の確保が当時容易だだったらしく、紙製品の運搬にも適していた土地だったようで、それで王子が選ばれたようです。
また、王子製紙は1910年に北海道苫小牧市に進出しています。理由は、周囲の山林からの木材の確保が容易だったこと、支笏湖(しこつこ、千歳市の西にある湖)からの水の確保が容易だったこと、また道南の港町であり貨物など交通の便がよかったことなどがいえます。

苫小牧王子製紙に関しては、以下の記事でもわかりやすく解説しているため、ご覧ください。

鉄道唱歌 北海道編 北の巻第18番 苫小牧、ウトナイ湖、そして白老のアイヌ民族の町

製紙会社だけでなく、約500もの会社を立ち上げたスーパーマルチな起業家・渋沢栄一

渋沢栄一は、現在でいえばスーパーマルチな起業家です。その起業した会社の数は、関連した会社も含めるとなんと約500。どれだけチャレンジ精神旺盛で、行動力の高い方だったかうかがい知れます。そして渋沢栄一は日本で初の銀行となる「第一銀行」を作った人でもあります。第一銀行は東京都中央区の、日本橋に近い兜町(かぶとちょう)というところにかつて存在し、2022年現在ではみずほ銀行の兜町支店があります。

なぜ渋沢栄一は、「世の中のために大量の紙を作ること」「製紙」が必要だと考えたのか?

ではなぜ、渋沢栄一がこれからの世の中で大量の紙が必要だと考えたのか。それは「新聞」、そして「お札」です。

まず、明治時代に入って近代的な教育制度が整ってくると、字を読めるようになる人が増えます。現代の我々は義務教育で当たり前に文字が読めますが、昔は一部の金持ちしかまともに教育を受けられなかったので、字を読めない人が多くいました。しかし、江戸時代後期になると、「寺子屋」という学習機関が充実してきて、識字率が一気に向上しました。また、明治時代に入ると欧米列強に負けない国を作る必要がありますから、なるべく多くの国民に文字を読めるようになってもらい、学力を上げなければなりません。そして、明治時代に現代の教育制度の基礎が出来上がると、文字を読める人の割合が増えます(識字率の向上)。国民が文字を読めるようになると、今度は本や新聞の出版が盛んになります。

明治時代以降は欧米列強に負けないために、情報網を強化する必要がありましたから、大量の新聞を発行するために、大量の紙を生産する必要があったわけです。

また、江戸時代以前は現在のような「お金」ではなく、「米」がお金の代わりでした。しかし、時代とともに人々の暮らしが豊になり、人口が増えると、もはや米では数が足りなくなります。そこで、米を使った物物交換は徐々に衰退し、貨幣や紙幣の経済の時代となります。また、お札は金(ゴールド)と交換できるのが鉄則でした。つまり、1万円札があれば1万円分のゴールドと交換できたのです。このように、金(ゴールド)と交換できる(金で信頼が担保・保証されている)お札のことを、「兌換紙幣(だかんしへい)」といいます。しかし、自然の産物であるゴールドの数は有限です。米と同じように、人口が増え、経済が肥大化すると、米もゴールドも数が減るので、いちいち米やゴールドと交換してられません。なので、ゴールドと交換できないお札の時代になります。このように、ゴールドと交換できないお札のことを、「不換紙幣(ふかんしへい)」といいます。
じゃあ、ゴールドと交換できないのにどうして1万円札は1万円分の価値があるの?という疑問が湧いてくると思います。1万円札の原価は約22円と言われていますからね。それは、日本国民全員が「1万円札には1万円分の価値がある」と信じているからです。逆にいえば、日本人全員からの信用・信頼が1万円札などの日本円にはあるわけです。また、日本ではニセ札が横行しにくいですから、日本円に対する信頼は高いといえますし、瓦解しにくいといえます。

話がだいぶ逸脱しましたが、明治時代以降に日本の経済規模が拡大すると、どんどん不換紙幣の印刷が必要になっていきます。そのため、渋沢栄一をはじめ経済界をリードする人達は今後の日本の経済発展のために王子の製紙会社は重要であると考えたのでしょう。
渋沢栄一は様々な功績から、「日本の資本主義の父」と呼ばれています。

王子駅で降りてみて、飛鳥山公園を楽しもう

飛鳥山公園はとても広くて綺麗な公園なので、王子駅から近いため、近くに来られた際には是非とも寄ってみましょう。

次は、赤羽駅に止まります!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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