鉄道唱歌 山陽・九州編 第58番 再び鳥栖駅に戻り、佐賀・長崎方面へ進もう

まずは原文から!

ふたゝびかへる鳥栖(とす)の驛(えき)
線路(せんろ)を西(にし)に乘(の)りかへて
ゆけば間もなく佐賀(さが)の町
城にはのこる玉のあと

さらに読みやすく!

ふたたびかえる鳥栖(とす)の駅
線路(せんろ)を西(にし)に乗りかえて
ゆけば間もなく佐賀(さが)の町
城にはのこる玉のあと

さあ、歌ってみよう!

♪ふたたびかーえる とすのえきー
♪せんろをにしにー のりかえてー
♪ゆーけばまもなく さがのまちー
♪しろにはのーこる たまのあとー

(長崎本線)
鳥栖駅→新鳥栖駅→吉野ヶ里公園駅→佐賀駅→鍋島駅→久保田駅→江北駅(旧・肥前山口駅)

(佐世保線)
江北駅(旧・肥前山口駅)→武雄温泉駅→有田駅→早岐駅→佐世保駅

※鉄道唱歌に関連する駅と、その他主要と思われる駅を筆者の独断と偏見でピックアップしたものを記載

鉄道唱歌 山陽・九州編の旅は、熊本県の八代駅まで行くと、当時(西暦1900年)は八代駅から南側(水俣・川内・鹿児島方面)へは鉄道が開通していなかったため、再び鳥栖駅(とすえき、佐賀県鳥栖市)に戻り、長崎本線に乗り換えて、西へ進むことになります

佐賀県鳥栖市(とすし)は、長崎方面への分岐点としての交通の要衝(ようしょう)として栄えてきた街であり、また、佐賀県屈指の工業地帯としての役割も担っています。プロサッカーJ1リーグ「サガン鳥栖(サガンとす)」の本拠地でもあります。

鳥栖駅(佐賀県鳥栖市)

鳥栖駅を出発すると、途中で新鳥栖駅(しんとすえき)を通過します。こちらは、在来線の長崎本線と、九州新幹線が交差する位置に造られた駅です。

やがて、佐賀県最大の観光地ともいえる吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)のある、吉野ヶ里公園駅(よしのがりこうえんえき、佐賀県神崎群吉野ヶ里町)に着きます。

吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は、弥生時代に稲作が始まったころの集落を忠実に再現しているものです。
縄文時代の日本人は、食糧としてナウマンゾウなどの動物を捕まえて狩りをしたり、木の実を採集して暮らしていました。そのため、一箇所に定着して住むことはなく(できず)、常に食糧を求めて狩りや採集のために移動する生活を送っていました。そのため生活は不安定であり、また食べ物を保存して貯蓄することもできないため、常に飢え死にするリスクがありました。
しかし弥生時代からは、大陸から稲作(米)が伝わったため、一箇所に定住して毎日安定的に米が食べられるようになりました。また、米は保存性がいいので、米を貯蓄しておくことで飢え死にのリスクも減りました。
しかし、大量のお米を生産するには、より良い土地(田んぼ)が必要になります。それは(水を引きやすい)川に近く、広くて平らな土地です。
こうした土地はみな欲しがるので、争いが起きてしまいます。特に日本は山地が多く平らな土地が少ないので、こうした争いは起こりやすかったでしょう。
また、お米を大量生産できた人達(一族、ムラ)は力がつき財力が増したり、それができない人達は貧しくなるので、弥生時代には「貧富の差」ができてしまいました。
そのため、貧しい人達は金(米)持ちに対してお米を奪おうとして争いが起きます
そのため、それぞれの集落(ムラ)には環濠(かんごう)という防御柵・防御壁・お濠(ほり)などを設けて、敵の侵入を防いでいました。
こうした弥生時代の敵の侵入を防ぐための設備があった集落を、「環濠集落(かんごうしゅうらく)」といいます。
吉野ヶ里遺跡は、こうした「環濠集落」を忠実に復元し、再現しています。

こうした集落(ムラ)がどんどん力をつけていくと、やがて大和朝廷のような「クニ」や「豪族(ごうぞく)」が生まれ、古墳時代や飛鳥時代に突入していくのです。

吉野ケ里遺跡(長崎本線の車窓より)

吉野ヶ里をさらに西へ進むと、広大な佐賀平野に入り、徐々に住宅地などの建物が多くなり、県庁所在地に相応しい都会の様相を呈してきます。
そして間もなく、佐賀駅(さがえき、佐賀県佐賀市)に到着です。

佐賀駅(佐賀県佐賀市)

佐賀県佐賀市(さがし)は、佐賀県の県庁所在地であり、また最大の都市です。

佐賀市は、かつて江戸時代に佐賀藩(さがはん)が置かれていた街であり、かつて鍋島氏(なべしまし)という一族によって治められていました。
佐賀市は「佐賀平野」という広大な平野の中に位置し、農業や商業が盛んであるほか、有明海(ありあけかい)にも面した地形の良さに恵まれています。

歌詞に「城にはのこる玉のあと」とありますが、「玉のあと」が何なのかは、筆者の拙い情報収集能力ではどうにもなりませんでした(^^;) わかり次第加筆します!

また、佐賀はかつて、明治時代の始めに「佐賀の乱」という士族の反乱がありました。
士族(しぞく)」とは、明治時代に入って新たに定められた身分の位であり、いわば元・武士の人たちをいいます。
かつて江戸時代までは武士として刀を持つことができたのですが、明治時代になって「廃刀令(はいとうれい)」によって刀を持つことが禁止になったため、これにより武士の特権が奪われてしまいました。
これに不満を持った元・武士たちの反乱が、「佐賀の乱」というわけです。
この反乱の中心となったのが、江藤新平(えとう しんぺい)および島義勇(しま よしたけ)という人物です。残念ながら敗北し、佐賀の地で処刑されてしまいました。

佐賀県は2022年の都道府県魅力度ランキングにおいて、なんと「最下位」という非常に不本意な結果となりました。

やはり佐賀県の観光地としてのイメージはやや世間的に印象が薄いのか、それとも知名度の低さが影響したのかはわかりません。

しかし、この結果を受けて佐賀県の山口祥義(やまぐち よしのり)知事は、

「佐賀ほど素晴らしい場所はない」

という、非常に力強い言葉を残されました。
山口知事のこの言葉は今でも凄く印象に残っていますし、とてもカッコいいと思いました。

また、知事は「要は知名度が低いだけ。熱心な佐賀ファンは増えている」とも仰られていたので、私は確かに「なるほどな」と思いました。

ちなみに、この手の人気ランキングは、中途半端な順位にいるよりも、むしろ最下位の方がかえって目立って注目を集めることになります。

筆者もこのランキングがきっかけで、佐賀県の観光地や有名なもの、そして佐賀県の魅力について興味を持ち、調べるきっかけになりました。

私が佐賀県に行ったときは、とても優しくていい人たちばかりだと思いました。

また、佐賀県は「ストリートファイターII(スト2)」という格闘ゲームの「サガット」というキャラクターを起用し、佐賀県の魅力PRということも行っています。
それは「吉野ヶ里遺跡」や「唐津(からつ)の魚」、「有田焼(ありたやき)」など佐賀の名所や名物、他のスト2のキャラをバックにサガットが勝利ポーズの笑いをしているというものです。

皆さんも、列車に乗って、佐賀の魅力を探しにゆきましょう

次は、武雄温泉(たけおおんせん)・有田(ありた)・早岐(はいき)方面へ向かいます!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

コメント