まずは原文から!
中山道(なかせんどう)と打ちわかれ
ゆくや蓮田(はすだ)の花ざかり
久喜(くき)栗橋(くりはし)の橋かけて
わたるはこれぞ利根(とね)の川
さらに読みやすく!
中山道(なかせんどう)と打ちわかれ
ゆくや蓮田(はすだ)の花ざかり
久喜(くき)栗橋(くりはし)の橋かけて
わたるはこれぞ利根(とね)の川
さあ、歌ってみよう!
♪なかせんどーうと うちわかれー
♪ゆーくやはすだの はなざかりー
♪くきくりはーしの はしかけてー
♪わたるはこれぞー とねのかわー
(東北本線)
上野駅→王子駅→赤羽駅→(荒川)→浦和駅→大宮駅→蓮田駅→久喜駅→栗橋駅→(利根川)→古河駅→間々田駅→小山駅→小金井駅→石橋駅→雀宮駅→宇都宮駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
大宮駅を過ぎると、北西へ進む中山道(なかせんどう)と並行する高崎線(たかさきせん)と分かれて、北東へ進みます。厳密には東北本線ですが、現在では宇都宮線(うつのみやせん)の愛称で呼ばれる区間です。
すると、蓮田駅(はすだえき、埼玉県蓮田市)、久喜駅(くきえき、埼玉県久喜市)、栗橋駅(くりはしえき、埼玉県久喜市)を過ぎて日本一の流域面積を持つことで有名な利根川(とねがわ)を渡るまでの行程になります。
それでは、各行程についてわかりやすく解説していきます。
中山道(なかせんどう)とは、江戸時代に人々京都まで旅するときに徒歩または馬で向かっていた道路の一つです。
多くの人は徒歩で向かうために、何日も何日も宿場町に泊まりながら、時にはきつい峠を越えながら向かっていったわけです。
途中には69の宿場町があったため、「中山道六十九次(なかせんどつろくじゅうきゅうつぎ)」と呼ばれたりもします。
東北本線は、かつての「奥州街道」「日光街道」とは必ずしも並行しておらず、東京~大宮間はむしろ中山道と並行しています。
そして、歌詞にあるように大宮から北は中山道と分岐していくわけです。
中山道は、東海道と同じように東京の日本橋(にほんばし)をスタート地点とし、最初の宿場町は板橋(いたばし)になります。やがて荒川を渡り、蕨(わらび)、浦和(うらわ)、大宮(おおみや)と進み、ここまでは現在の東北本線とほぼ並行した形になります。
大宮から北西へ分岐した中山道は、高崎線と並行して上尾(あげお)・桶川(おけがわ)・鴻巣(こうのす)・熊谷(くまがや)・新町(しんまち)と過ぎて、群馬県の高崎(たかさき)へ至ります。
高崎からの中山道は現在の信越本線(しんえつほんせん)と平行して西へ向かい、安中(あんなか)・松井田(まついだ)へと至り、群馬県と長野県の県境をなす、中山道の難所の1つであった碓氷峠(うすいとうげ)を越えます。
碓氷峠を越えると長野県に入り、軽井沢(かるいざわ)に至ります。軽井沢からは諏訪湖(すわこ)方面へ向かうのですが、ここも中山道きっての難所である和田峠(わだとうげ)を超え、諏訪湖(すわこ)のある地域に出てきます。
その後、塩尻(しおじり)からは現在の中央西線(ちゅうおうさいせん)と並行して、奈良井(ならい)・木曽福島(きそふくしま)と木曽路(きそじ)を超え、岐阜県の中津川(なかつがわ)に出てきます。
中津川から先は、恵那(えな)・瑞浪(みずなみ)から北上して美濃太田(みのおおた)へ至ります。
そこから西へ大垣(おおがき)・垂井(たるい)・関ヶ原(せきがはら)・醒ヶ井(さめがい)・米原(まいばら)・彦根(ひこね)・草津(くさつ)と現在の東海道線にほぼ沿ったルートをいきます(この地域は、どちらかというと近江鉄道の線路に並行)。
草津からは東海道(鉄道の東海道線ではない)と合流し、京都の三条大橋が中山道のゴールとなります。
中山道の旅については、鉄道系YouTuberのスーツさんが2021年5月に行った「自転車で行く中山道の旅」シリーズがとても勉強になります。
スーツさんが中山道きっての難所である碓氷峠や和田峠を越えるシーンはあまりにも過酷かつ壮絶極まりないものであり、このシリーズを作る際にスーツさんは相当な苦労と努力をされたことと思います。YouTubeで「スーツ 中山道」で検索したら一発で出てきますので、合計16本の動画がありとても勉強になりますので、是非ともご覧になられることをお勧めします。
中山道の説明にかなりスペースを割いてしまいましたが、中山道(高崎線)と分かれた東北本線は、蓮田市(はすだし)、白岡市(しらおかし)といった埼玉県の北部地域を、列車はどんどん北上していきます。
個人的にはこの近辺の駅で流れる「アマリリス」という発車メロディーが印象的です。アマリリスとは赤い色の美しい花のことであり、またフランス民謡の一つでもあります。
歌詞に「ゆくや蓮田の花ざかり」とありますが、これは恐らく「蓮(はす)の花」というフレーズと、「蓮田(はすだ)」という地名を掛(か)けているものと思われます。これはある種の日本の伝統的な美しい洒落(しゃれ)の一つであり、「掛詞(かけことば)」と呼ばれます。
鉄道唱歌では、このような掛詞(かけことば)はたくさん登場します。
例
♪つれだつ旅の友部より~
→「旅の友」と、「友部(ともべ)」という地名を掛けている
※奥州・磐城編57番より
※友部駅は茨城県の駅
♪菜種に蝶の舞坂(舞阪)も~
→「蝶が舞う」と「舞阪(まいさか)」という地名を掛けている
※東海道編27番より
※舞阪は静岡県の地名
♪故郷のたより喜々津とて~
→「故郷のたよりを聞き」と「喜々津(ききつ)」という地名を掛けている
※山陽・九州編63番より
※喜々津は長崎県の地名
♪流れに波の辰野駅~
→「流れに波も立つ」と「辰野駅(たつのえき)」を掛けている
※中央線鉄道唱歌37番より
※辰野駅は長野県の駅
♪こころ細呂木すぎゆけば~
→「心細い」と「細呂木(ほそろぎ)」という地名を掛けている
※北陸編62番より
※細呂木は福井県の地名
蓮田市と白岡市を過ぎると、いよいよ茨城県との県境に近い久喜市(くきし)に入っていきます。
さて、先ほど「現在の東北本線は必ずしもかつての奥州街道や日光街道と沿っていない。むしろ中山道に沿っている」と書きました。では、元の奥州街道や日光街道と沿っている鉄道路線はどこなのか。
それは、JR線ではなく、私鉄である東武鉄道(とうぶてつどう)の「東武伊勢崎線(とうぶいせさきせん)」「東武日光線(とうぶにっこうせん)」が、奥州街道と日光街道のルートにほぼ並行しているといえます(少なくとも久喜市の利根川を渡るまでの区間は)。
このように、現在のJR線とかつての街道が必ずしも並行しておらず、むしろ私鉄の方がかつての街道に沿っている、というケースは結構あるのです。
例えば、現在の東海道線はかつての東海道の品川宿とは離れており、むしろ京浜急行線のルートの方がかつての東海道の宿場町と並行していたりします。
また、現在の中央線はかつての甲州街道(こうしゅうかいどう)と並行しておらず、やや北を通っています。かつての甲州街道は新宿・高井田・国領・調布・府中といった現在の京王線とほぼ並行したルートでしたが、中央線は中野・荻窪・吉祥寺・三鷹というルートを通っています。
これに関しては理由は諸説あり、いわゆる「鉄道忌避説(てつどうきひせつ)」が関連しているかもしれません。
鉄道忌避説(てつどうきひせつ)とは、いわゆる鉄道黎明期(れいめいき)の明治時代は蒸気機関車の煙がたくさん出るため、鉄道の煙を嫌ったかつての街道の宿場町が周辺に線路を引くことを拒否し、宿場町と離れた場所に線路を引いた、という説です。
しかし宿場町から離れた場所に鉄道駅ができると、必然的にその周辺は人の往来が増えるためにどんどん栄えてきます。しかし、かつての宿場町は駅から離れているために取り残されてしまい、どんどん衰退していきます。また、鉄道が蒸気機関車から電車に置き換わるともはや煙は関係ないため、こうなってくると宿場町としては何のために線路や駅建設を拒否したのかわからなくなります。
そこで慌てて、かつての街道に沿った鉄道路線を地元のお金持ち達がお金を出し合って、鉄道線路を引きました。それが上記の「かつての街道に沿った私鉄路線」なのかもしれません。(根拠なし)
正直いって、上記は完全に私の想像で語っており、根拠(エビデンス)などはありません。というか、鉄道忌避説自体が根拠が残っておらず、信憑性(しんぴょうせい)のないものとして扱われたりもします。具体的な史料や資料もない100年前の昔の話であるため、現在の我々の中に明確な根拠を持って説明できる人はほぼ皆無でしょう。
しかし、私個人としては上記の仮説のほうが腑(ふ)に落ちるというか納得できるため、個人的には上記の仮説を信じさせていただいております。
繰り返しになりますが、上記の仮説はあくまで私の想像なので、本記事を読まれている方々におかれましては過度に信用なされないようお願い致します。
現在の東北本線の原型である日本鉄道が上野~利根川までの区間を建設したのが1880年代で、現在の東武伊勢崎線のルートができたのが1899年です。
話が長くなりましたが、現在の東武伊勢崎線や東武日光線は、かつての奥州街道や日光街道に配慮してできた路線なのかもしれません。
もし違っていたらご指摘願えれば修正いたします。
このルート上では、千住(せんじゅ)を出発すると千住大橋(せんじゅおおはし)を渡り、現在の東京都心部へのベッドタウンとしても重要な草加市(そうかし)、越谷市(こしがやし)、春日部市(かすかべし)を経て北上していき、久喜市(くきし)で現在の東北本線と合流します。
利根川を渡った後は、かつての奥州街道は現在の東北本線とほぼ並行する形になります。
なお、春日部(かすかべ)は、かつては「粕壁(かすかべ)」と書きました。「クレヨンしんちゃん」で有名な街ですね。
35歳にして年収600万で係長、マイホーム持ちで妻と子ども2人持ちの野原ひろしは、現代では勝ち組の男性と言われています。
野原ひろしは、春日部駅から東武伊勢崎線に乗り、毎朝家族のために東京の会社まで通勤していたのでしょうか。
現在の栗橋駅あたりで、東北本線はかつての奥州街道、日光街道と合流し、利根川(とねがわ)にさしかかります。
利根川は、現在では埼玉県と茨城県の県境であり、かつては武蔵国(むさしのくに)と上総国(かずさのくに)の国境でもありました。
こうした「国境」に当たる場所には、関所(せきしょ)と呼ばれる機関が設置されたりします。
関所(せきしょ)は、その国に入る者や出ていく者が不審者でないか、危険物を持っていないか、入国の目的が適性で犯罪目的でないかなどを厳しくチェックするために存在していた機関です。
現在でも外国人がその国に入国するためには厳しい入国審査がなされたりしますが(犯罪歴はないか、犯罪をしたりしないか、危険物を持っていないかなど)、あれに近いイメージでしょう。
かつては現在のような単に県境をまたぐわけではなく、本当に外国に行くのと同じくらい遠い場所へ行くようなものでしたから、現在の入国審査と同じくらい(もっと?)厳しかったことでしょう。
現在では新幹線や飛行機で簡単に県境は越えていきますから、昔の「国境を越える」というのは現代人の我々からしたらなかなかイメージしづらいかもしれません。
埼玉県側には栗橋宿(くりはししゅく)本陣(ほんじん)のそばに、関所跡があります。
また、利根川の向こう岸である茨城県側にはかつて中田宿(なかたしゅく)のあった「中田」という地名があり、かつて関所があった中田関所跡があります。
話が長くなり申し訳ありませんが、少しでもこの地域の交通の歴史に興味をもってもらい、本記事で紹介した宿場町や街への観光を行っていただくきっかけになれば幸いです。
次は、利根川の説明をさせていただきます!
注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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