南九州の旅について、わかりやすく解説しています!
耳川・延岡の地理・歴史について、初心者にもやさしく解説しています!
今回は、日向・延岡方面へ
前回に続き美々津駅(宮崎県日向市美々津町)を出ると、
- 日向
- 延岡
方面へと進んでゆきます。
戦国時代「耳川の戦い」
美々津駅を出ると、耳川という大きな川を渡ります。
この耳川は、戦国時代に「耳川の戦い」という合戦が行われた場所でもあります。
耳川の戦いは、 1578年に、
- 豊後国(大分県)の大友宗麟
- 薩摩国(鹿児島県)の島津義久
のそれぞれが戦ったのでした。
結果は薩摩・島津の勝利でした。
大友氏・島津氏による、壮大な戦い
この「耳川の戦い」は、当時の九州北部で絶大な力を誇っていた大友氏と、九州南部で絶大な力を誇っていた島津氏との戦いです。
まるで、かつて長野県で武田氏と上杉氏が争った「川中島の戦い」みたいですね。
なので個人的には、この「耳川の戦い」は九州版「川中島の戦い」みたいな印象があります。
川中島の戦いについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
鉄道唱歌 北陸編 第28番 「川中島の戦い」 最強のライバル同士が戦った古戦場
戦国時代初期以前の大友・島津の関係 とても仲良かった
戦国時代初期までは、豊後・大友氏と、薩摩・島津氏との関係は、長い間はとても良いものでした。
後に耳川でケンカする仲とは到底思えなかったのです。
というのも、大友氏と島津氏は、お互いの勢力圏には「お互いに干渉しあわない」という、事実上の同盟関係にあったのでした。
はじめは、お互いに仲良くしておいて損は無かった
当時、薩摩・鹿児島の情勢が不安定な状態が続いていたリーダーの島津氏にとっては、自領の安定を保つ上でも、豊後・大分の大友氏との関係を良好に保っておくことは、とても重要なことでありました。
ただでさえ鹿児島が不安定なのに、そこに漬け込まれて大友氏が攻めてきたら、それはたまったもんじゃありませんからね。
対する豊後・大友氏にとっても、当時は
- 南蛮貿易などで挙げた利益で、大分県をうるおしていた
ということもあり、鹿児島沖を通過する自分たちの貿易船の海上の安全を守るという意味でも、薩摩・島津氏との関係を良くしておくことは、とても重要だったのでした。
もし島津氏とケンカしてしまったら、鹿児島沖で豊後の舟が攻撃・撃沈させられてしまうリスクがあったからですね。
はじめは島津氏・大友氏は、仲が良かった
このように、島津氏・大友氏の関係は、まさしく同盟関係にあったわけです。
この仲のよい同盟関係の結果、薩摩・島津氏はなんとか不安定な薩摩の領地を落ち着かせていったのでした。
大友氏にとってもメリット
また、豊後・大友氏の側も、九州北部で万一争いがあったときに、
- そこにつけ込んで、南から島津氏や伊東氏などから、背後を突かれてしまう
というような、そんな不安を豊後・大友氏は(仲良くしておくことで)解消できたと考えられています。
豊後・大友家の日向侵攻 ここで仲悪くなる
しかしそんな「蜜月の仲(とても仲がよいこと)」も、とある争いで崩れてしまいます。
「木崎原の戦い」で、伊東氏の敗北
1572年の「木崎原の戦い」で、日向国(宮崎県)にいた伊東氏が、薩摩・島津氏に敗北してしまいます。
ちなみに木崎原とは、宮崎県えびの市(=都城市の西にある市)の地名です。
伊東氏は、元々は伊豆半島の、静岡県伊東市にあたる地域から生まれて出てきた一族です。
その子孫が、まさに日向国・宮崎県までやってきて繁栄していたのでした。
かねてからの伊東氏の欲望
伊東氏は、かねてから島津氏の支配する薩摩を乗っ取ってやろうという欲望があったのでした。
この「木崎原の戦い」は、薩摩の弱みにつけこんだはずの戦いでした。
しかし、見事に敗れてしまったため、仕方なく宮崎を離れて、親戚の豊後・大友氏を頼ってきたのです。
仲のいい関係は終わり 島津VS大友の関係へ
しかし、戦乱の世の中においては、敵の味方は敵です。
(島津氏の敵である)伊東氏の味方である大友氏は、島津氏にとっての敵ということになります。
ここに先述の仲のいい関係は終わりとなり、島津VS大友の戦う機会となったのでした。
大友宗麟は、島津から逃れてやってきた親戚の伊東家のトップたちに、たくさんの土地を与えて、伊東氏を守ることことにしたのでした。
これでは薩摩・島津氏としては嫌味に映る可能性もあり、たまったものではなかったでしょう。
キリシタン大名・大友宗麟
大友宗麟は、九州に「キリシタン王国」を築き上げたい、という欲望を持っていたのでした。
大友宗麟は、日本にはじめてキリスト教を布教したフランシスコ・ザビエルと会っていました。
そのときに、サビエルからキリスト教の素晴らしさを教えられていたのでした。
そのため、今ではキリシタン大名として知られています。
また、大友氏は南蛮貿易などでとても大きな利益を挙げていたということもあり、その財力を背景に九州北部の地域をほしいままに支配していたのでした。
やり過ぎの暴挙
しかし大友宗麟は、この「耳川の戦い」で、なんと宮崎県にあった「神社」や「お寺」を焼き払うという暴挙に出てしまったのです。
これはさすがにやり過ぎであり、地元民の不平不満を買ってしまいました。
さらに、このことが大友氏への不信感の元になり、敗北の要因を作ってしまいました。
いくら宗麟本人がキリスト教を深く信仰していたとはいえ、「神道」や「仏教」を信仰している人が多い日本で、さすがにこれをやられた側としてはたまったものではなかったでしょう。
意見がバラバラでまとまらず
やがて日向地方に進軍してきた大友軍は、一時は薩摩軍を後退させるなどの勢い・奮闘ぶりをみせます。
しかし、大友軍の指揮系統はバラバラであり、作戦をめぐって何度も会議で言い争いになるなど、とにかく大友軍には「まとまり」がありませんでした。
特に、トップの大友宗麟が(部下が必死で戦っているなかで)後ろで遊んでいたりと、とにかく部下から上司への不信感がたまらなかったのです。
部下の言うこともまるで聞かなかった、大友氏
また先述の通りキリシタンでもあったため、「仏教」における「縁起の悪さ」を全く信じることもありませんでした。
そのため、部下から
と言われても、無視したのでした。
当時はただでさえ、戦いの勝敗において「縁起」や「占い」などを気にしていた時代です。
この部下の忠告を無視した結果、大友軍は失敗して敗北となったのです。
当時、キリスト教はまだ新しい宗教だった
当時キリスト教はまだ日本に入ってきたばかりの宗教であり、日本ではまだ馴染みがなく受け入れがたいどころか、当時は圧倒的に「神道」や「仏教」を信仰している人が多かったわけです。
そのため、この大友宗麟の意思決定や行動は部下になかなか理解されなかったのでしょう。
大友軍の「深追い」のため、背後をつかれて総崩れに
大友軍は一時的に薩摩軍を退けたのはいいものの、調子に乗って「深追い」してしまったのでした(まるで薩摩軍からおびきだされるように)。
そのため、追いすぎてしまったところを後ろから別の薩摩軍に攻められ、挟み撃ち状態となって身動きが取れなくなってしまいました。
大友氏の敗北、島津氏の勝利へ
ここで一気に劣勢になった大友軍は、「耳川の戦い」において敗れ、薩摩・島津氏の勝利となったのでした。
しかしその後1587年、豊臣秀吉が「九州平定」によって九州に攻めてきたため、島津氏も秀吉に降伏しています。
延岡駅(延岡市)に到着
やがて、延岡駅(宮崎県延岡市)に到着します。

延岡駅に近づくにつれ、「大瀬川」を渡る。写真右側が、延岡市市街地。このあと、「五ヶ瀬川」という川も渡る。(日豊本線)(宮崎県)

延岡駅(宮崎県延岡市)
宮崎県延岡市は、都城市についで、宮崎県第3位の大きな都市でもあります。

延岡駅に到着した筆者(宮崎県延岡市)
旭化成の企業城下町・延岡市

延岡駅(宮崎県延岡市)
また延岡市は、旭化成が創業したときからの工場が数多く存在しています。
すなわち、いわゆる企業城下町として栄えてきた歴史があります。
つまり延岡市は、旭化成に勤める職員・関係者や、その家族の皆さんたちによって発展してきた歴史がある街ということになります。
台所に欠かせない「サランラップ」は、旭化成の商品(登録商標)です。
延岡市の政治や経済にも大きく影ている、旭化成
実際、市に入ってくる税金の3分の2は、旭化成の関係者(職員など)の皆さんによって収められたものとなっています。
また、延岡市の市議会議員の3分の1が、旭化成の関係者から出て(当選して)います。
このように、まさしく旭化成という企業と一体となって繁栄してきた「企業城下町」というわけです。
明治時代以降、工業都市として発展してきた延岡市
明治時代、宮崎県の県庁が宮崎市におかれたことから、延岡の地は県庁所在地(=県の中心地)とは、かなり遠い場所ということになったのでした。
これでは取り残されたり、町の発展から置いていかれるリスクもあります。
そのため、工業都市としてどんどん発展させていこう、という地元民の強い意志のもとで発展してきたのでした。
戦前に延岡市に進出してきた「チッソ株式会社」
戦前は「チッソ」が延岡へどんどん進出してゆきました。
チッソ株式会社は、明治後期の1908年に「日本窒素肥料株式会社」として創業した、日本の化学工業メーカーです。
チッソは、主に熊本県水俣市を中心として発展してきたのでした。
しかし、高度経済成長期のときにメチル水銀を含む汚水を水俣湾に大量に流してしまったため、水俣病の原因を作ってしまったという負の歴史もあったのでした。
しかしそうした危機を乗り越え、現在でも稼働・操業しています。
植物に重要な肥料を作っていた「チッソ」
チッソは戦前に窒素肥料(硫酸アンモニウム/硫安)などの生産を伸ばしてゆきました。
窒素(N)は、植物が順調に成長していくという作用があるため、肥料として重宝されたのです。
この窒素肥料が非常によく売れるなどして、大成功してゆきました。
それにより「日窒コンツェルン」とよばれる巨大な財閥となるまでに至りました。
戦後、「旭化成」として大きく発展
戦後の「財閥解体」により、それまでの巨大な「日窒コンツェルン」は解体となりました。
財閥解体とは、軍事力の肥大化を防ぐために、GHQの命令によって行われたものです。
つまり 「巨大財閥の財力が、日本の軍事力の増大に大きな影響を及ぼしている」 とアメリカ側から判断されたため、財閥を解体させられたというわけです。
この「財閥解体」にともなって、延岡に元々あった日窒コンツェルンの工場は「旭化成」として分離し、再出発したのでした。
他にも、日窒コンツェルンから分離して出来た会社に「積水化学」などがあります。
「旭化成」の「旭あさひ」の由来は?
「旭化成」の「旭」の由来は、滋賀県の県庁所在地・大津市にある膳所の旭絹織の工場近くの義仲寺に、
- 旭将軍こと源義仲
の墓があることから、義仲に対して敬意を示してつけられたものです。
「旭将軍」とよばれた、源義仲
義仲が数々のいくさを乗り越えて京都に入ったとき、東の
ため、「旭将軍」の異名がついたわけですね。
旭将軍こと源義仲については、以下の記事でもわかりやすく解説しているため、ご覧ください。
鉄道唱歌 東海道編 第41番 粟津と木曽義仲 朝日将軍と呼ばれた武将の悲劇の最期
「化成」の意味は?
「化成」の由来は古代中国の書物である「易経」にその語源があります。
これは、 「より良い方向へ変化・発展する」という意味になります。
つまり、常に企業として進化していこう、という意味が社名に込められているというわけですね。
宮崎の秘境「高千穂峡」
延岡市のはるか西・五ヶ瀬川の上流には、高千穂峡という神秘スポットがあります。
高千穂峡は、宮崎県西臼杵郡高千穂町にある峡谷です。
峡谷とは、川の水・流れが深く地面を削っていったことろにできる、大きな凹みのことです。
「柱状節理」とは?
高千穂峡は、美しい柱状節理が発達した深い谷でもあります。
柱状節理とは、六角形や五角形などをした「岩の柱」がたくさん並んでいるような状態をいいます。
例えば、マリオの土管だらけのステージで、土管が「円形」から「六角形」になったようなイメージです。
なぜ柱が六角形になるのかについては説明が難しいですが、複雑な自然現象によってこのようになるのだそうです。
高千穂峡の柱状節理は、とても美しいです。
高千穂峡は、どのようにできたか
高千穂峡は、
- 阿蘇山の噴火によって、たまって積み上がった溶岩が、
- 急激に冷やされて大きな岩のカタマリとなり、
- それが五ヶ瀬川という川による浸食作用(=水が地面を深く削っていくこと)によって、深く削られてできた
という、V字型の峡谷ということになります。
ちなみに五ヶ瀬川は、末は延岡市の海へと注いでいく川です。
日本神話によるエピソード
日本神話によると、天村雲命という神様が、前回解説した天孫降臨のときに、この場所に水が無かったことから、水をここへ持ってこようとしたのだそうです。
これが「滝の水」となって、高千穂峡に「真名井の滝」として流れ落ちているのだといわれています。
神話において、宮崎県へ降臨してきたニニギノミコト
ニニギノミコトは、天界・高天原から日向国・宮崎県へと降臨してきたわけです。
また、宮崎県の南にも高千穂峰という連山があり、そちらもニニギノミコトが降臨してきた山だと伝えられています。
次回は、佐伯・大分方面へ
次回は、延岡駅を出て、佐伯・大分方面へと向かいます。
そして「青春18きっぷ最難関区間」ともされている、「宗太郎越え」の区間ともなります。
今回はここまでです!
お疲れ様でした!
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