函館の観光・歴史について、わかりやすく解説してゆきます!
冬の北海道旅行について、楽しく解説してゆきます!

函館の海(北海道函館市)
巴(ともえ)の形をした、函館港

函館夜景(北海道函館市)
函館港は、巴の形に似ていると言われています。
そのため、巴港とも言われます。
巴の形とは、いわゆる海岸線がゆるやかにカーブしているという形になります。
函館市歌「はこだて賛歌」においても、
と歌われていますね。
函館市電でも流れる「はこだて賛歌」
「はこだて賛歌」は、函館市電(路面電車)で移動している最中も、車内メロディーとして流れます。
明治時代は、ここ(函館港)に多くの船が行き交っていたのですね。
それは北海道の玄関口として、あるいは日米和親条約がきっかけで、
- 静岡県・下田
- 函館(当時は箱館)
の2港が開港したときは、函館は日本の玄関口としての役割があったというわけです。

函館・海と港の景色(北海道函館市)
函館の、時代ごとの歴史(江戸時代~現代)
時代によって全然異なる性格を持っていた、函館という町
函館は、時代によって以下のような歴史をあゆんできています。
江戸時代:松前藩による統治時代。
本州と蝦夷地の交易による利益で栄えた時代。
明治時代:開港5港の一つとして、外国との貿易による利益での繁栄。
大正・昭和時代:本州からの北海道への玄関口として、北海道最大の都市として繁栄。
しかし1940年に札幌に人口を抜かれてしまう。
1960年代:漁業で栄えるが、安い外国からの輸入品におされて(+北洋漁業の規制などにより)徐々に衰退。
現代:漁業が衰退したため、観光都市へのシフトをはかる。
そして国内外から約500万人が訪れる観光都市に。
明治時代は、北海道への玄関口だった函館
現在の北海道の玄関口といえば、なんといっても新千歳空港です。
しかし、江戸時代には飛行機などは無かったため、函館(箱館)が北海道(蝦夷地)への入り口という位置付けでした。
つまり、
- 江戸から「奥州街道」で約20日もかけて(徒歩または馬で)青森まで行き、
- 青森からは津軽海峡を舟で渡って、
- 蝦夷地・箱館に入っていた
とうわけです。
したがって、当時の人々は、本当に大変な移動をしていたというわけです。
明治時代は、北海道最大の人口を誇っていた函館
明治時代の函館は、北海道への入口でしたから、当時の函館は必然的に、人口が北海道最大となりました。
しかし、北海道全体を発展的させていくのに、道南・函館に発展が偏っているという状況は、当時の日本としては都合がよくありませんでした。
したがって、道南・函館ではなく、道庁所在地の札幌をメインに発展させていくように方針をシフトしたのです。
1940年には、札幌に人口を抜かれる
そして時代が進むにつれて、1940年には人口が札幌に追い付かれ、抜かれてしまうことになります。
広大で肥沃な石狩平野の中心にある札幌は、北海道の開拓(耕したり、鉄道や道路を作ったりして、生産力を上げること)に適していたため、先述の通り札幌をメインに発展させていったのでした。
その結果、1940年には函館は札幌に人口を抜かれてしまったのでした。
戦後も漁業で栄えるも、規制が厳しくなり衰退
函館は1960年代までには引き続き漁業で栄えます。
しかし、安い外国製の魚に負けてしまったことで、苦戦するようになります。
また、外国の領海まで入って漁業をやるという「北洋漁業」が規制されてしまい、好き勝手に魚釣りが出来なくなってしまったのでした。
その結果、上記の理由もあり、函館の漁業は衰退していくこととなりました。
ただしこれは、函館のみに限らず、釧路などの各地の漁港も同じことがいえます。
衰退した漁業を諦め、「観光都市」へと方針転換
このように、もはや漁業では食えなくなってしまったために、街の発展の方針を転換することとしたのでした。
今度は観光事業に対してたくさん税金・予算を当てていくことで、
- 観光都市としての整備(街をより綺麗で美しくするなど)を行い、
- 観光客にたくさん来てもらい、
- 街にお金を、たくさん落としてもらう
ことで街を発展させていくというモデル・方針に切り替えた、というわけです。
そうした努力が実って、観光都市として大成功したというわけですね。
「観光都市への転換」の例は、他地域にも存在
ただし「安い外国製品に負ける」というのも、「観光事業にシフトする」という方針も、函館だけに限った話ではなく、日本全国各地の都市でも同じようにいえることです。
ただ、同じ北海道の夕張市は、観光事業へのシフトを図ったものの、借金をやり過ぎて返しきれなくなって失敗してしまい、財政破綻してしまったという歴史があります。
夕張市については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

たくさんの「館」があった、道南の「箱館」
函館という地名は、北海道の南のこの地域に全部で12の館があったことに由来します。
函館を含む北海道の南のことを、「道南」といいます。
この道南に、全部で12の館があったことから、道南十二館と呼ばれます。
「館」とは、城ほどは大規模でない、立派な造りの(簡易な防御力を持つ)建物のことですね。
これらの館は、和人(日本人)が北海道(蝦夷地)を管理・監視し、アイヌ民族をまとめたりするために建てたものです。
函館(箱館)の由来となった、ウスケシ(宇須岸)館
その12の館のうち「まるで箱みたいな館」が現在の函館市・函館山にあり、いわゆるウスケシ(宇須岸)館というものです。
ウスケシとは、もちろんアイヌ語に由来しています。
「館」そのものは日本人のものですが、土地の名前そのものは元々住んでいたアイヌ民族が「ウスケシ」と呼んでいたわけですね。
そのウスケシに、無理やり漢字を当てはめたものが、宇須岸になります。
宇須岸は、現代でも函館市(函館山の麓)にある地名になります。
また、ウスケシ館跡が、史跡として残っています。
そのウスケシ館が、まるで箱のような形だったため、「箱館」となったというわけです。
さらに箱館は、明治時代以降に「函館」に漢字表記が改めてられています。
北海道では珍しく、アイヌ語に由来しない地名「函館」
そのため、「函館」という地名は、北海道では珍しくアイヌ語に由来しない珍しい地名になります。
つまり、思いきり日本語由来というわけですね。
ただし、お隣の北斗市も近年・2006年に合併によってできた新しい市なので、もちろんこちらもアイヌ語由来ではないです。

ウスケシ館のあった、函館山周辺の景色(北海道函館市)
「世界三大夜景」の一つ・函館の夜景

函館夜景(北海道函館市)
函館山の景色は「世界三大夜景」と言われたりもしています。
日本では、他に長崎の夜景(稲佐山の夜景)も有名です。

長崎・稲佐山からの夜景(長崎県長崎市)
函館夜景は、北海道では
- 藻岩山
- 小樽の天狗山
と並んで「北海道三大夜景」とも言われています。
現代の函館駅は二代目!元々はもっと港から離れた、不便な位置にあった
現在の函館駅は二代目であり、明治時代の初代函館駅(1902年)が後述する通り不便だったため、1904年に現在の函館駅(二代目)の位置に移転してきたわけです。
初代函館駅は、二代目函館駅が出来た後に亀田駅と駅名変更されました。
しかし、その後に存在意義が無くなってしまい、やがて廃止となりました。
亀田という地名は、現代でも函館市や渡島地域に残る地名です。
しかもその亀田駅は、現在の函館駅よりもやや五稜郭駅寄りに、しかも港から離れた位置にありました。
「青函連絡船」が一般的だった時代
現在の函館駅は、港に密着した位置にありますよね。
そして、その目の前の桟橋には、青函連絡船「摩周丸」が、当時の姿のままで保存されています。
青森を出発した青函連絡船は、
- 津軽海峡を越えて、
- 函館港に着いて、
- そのまま函館駅で列車に乗り換えて、
- 札幌へ向かう
というのが、1988年に青函トンネルや飛行機が一般的になる前の常識でした。
青函連絡船については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

より港へ近い、現在の位置に「函館駅」を新設
初代函館駅は、函館港から離れていて不便な位置にあったことから、2年後の1904年に、現在の函館駅(二代目)の位置に移ってきたというわけです。
そして、駅名の重複を避けるために、初代函館駅は亀田駅と駅名変更したのでした。
五稜郭駅が出来たことで、初代函館駅(亀田駅)は廃止に
しかし、後の1911年に五稜郭駅が出来ることが決まったのでした。
また、そのため、函館駅と五稜郭駅の間の函館駅と五稜郭駅の間の中途半端な位置になる亀田駅は存在意義を無くしてしまったため、1911年に五稜郭駅が出来る直前に廃止となりました。
現在では、遺構がほぼ残されていないようです。
しかし、「旧函館駅所在地の碑」として、記念碑が存在しています。
おまけ:筆者の自撮り写真

函館駅より(北海道函館市)

函館ベイエリアまで移動(北海道函館市)

函館ベイエリアまで移動(北海道函館市)

函館ベイエリアまで移動(北海道函館市)

函館ベイエリアにて(北海道函館市)

函館ベイエリアにて(北海道函館市)

函館ベイエリアにて(北海道函館市)

函館ベイエリアにて(北海道函館市)

函館ベイエリアにて(北海道函館市)
次回は、ベイエリア~八幡坂編
最後までお読みいただき感謝です!次回も函館観光編となります!
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