冬の東北本線・一ノ関の鉄道旅と、一関市の偉人・大槻三賢人・大槻玄沢の歴史について、わかりやすく解説してゆきます!
一ノ関駅(一関市)に到着
北上川に沿って南下すると、やがて一ノ関駅(岩手県一関市)に到着します。

一ノ関駅(岩手県一関市)

一ノ関駅に到着!(岩手県一関市)
一ノ関の偉人・大槻三賢人の像

一ノ関駅前・大槻三賢人の像(岩手県一関市)
一ノ関駅の西口には、大槻三賢人の像があります。
大槻三賢人とは?
大槻三賢人とは、一ノ関出身の3人の偉人たちです。
江戸時代の一関市は、一関藩といって、伊達藩(仙台藩)の支藩となっていました。
つまり仙台藩の付属的・バックアップ的な藩だったわけですね。
なので一関市は、なぜ宮城県ではなく岩手県なのか少し不思議に思うわけです。
江戸時代、最先端のオランダの医学を学び広めた、大槻玄沢
一ノ関駅にある「大槻三賢人」のうち、真ん中の人物を大槻玄沢といいます。
大槻玄沢は、簡単にいえば、江戸時代に当時の日本では最先端のオランダの医学を学び、日本に広めた人物です。
大槻玄沢の名前は、先輩の医学者である
- 杉田玄白
- 前野良沢
の2人の名前から採られたものです。
一ノ関から長崎へ、医学を学びに遊学
岩手県に生まれた大槻玄沢は、お父さんが一関藩のえらいお医者さんだったため、一ノ関に育ちました。
早くも13歳くらいから地元で語学・医学の才能を発揮し、成績がめちゃくちゃ優秀だったことから、その将来性を認められ、一関藩から江戸への遊学を認められました。
遊学とは、(江戸などの)遠くの地域へ、学ぶための旅行・遠征を行うことです。
まあ、今でいう「留学」に近いイメージでしょうか。
もちろん遊学のためには、「旅費」や「現地での滞在費」などもすごくかかるため、一関藩にも認められなければ、お金の支援をしてもらえません。
多くの人から「この人は優秀だ!」と認められ、藩に推薦され藩からの承認が出る必要があるわけです。
でなければ、江戸に勉強の旅・長期滞在に行く(遊学する)ことは、当時としてはなかなか難しかったでしょう。
それだけ大槻玄沢は成績優秀だったというわけですね。
江戸で、杉田玄白と前野良沢に仕える
江戸にやってきた大槻玄沢は、師匠・先輩である医学者の杉田玄白と前野良沢に仕え、医学を学びました。
この二人は、後述する「解体新書」というオランダ語の医学書を翻訳した偉人です。
ではなぜ、江戸時代はオランダの医学を発展させる必要があったのか。
まだ医学未発達だった江戸時代は、現代医学に通じる発展をさせる必要がありした。
江戸時代までの医学は「おまじない」「祈祷」「温泉」など、どちらかというと自然の力をベースにしたものでした。
それは奈良時代の聖武天皇にはじまり、「奈良の大仏」など仏様の力を頼ったり、また「湯浴み」といって温泉の力に頼ったりすることが多かったのでした。
そこに当時の世界では画期的・先進だった「西洋の医学」を日本でも学んで、広める必要があったわけですね。
「オランダの医学」の習得は大変だった
江戸時代の日本で、西洋の医学といえば「オランダの医学」でした。
当時は鎖国していた日本にとって、西洋の進んだ医学は入ってき難いため、ヨーロッパの国で日本が唯一貿易をしていたオランダの医学を学ぶしかなかったのでした。
しかしオランダの医学は、もちろんオランダ語で書かれています。
そのため、医学を理解するにはオランダ語をも学ぶ必要も出てきます。
オランダの最先端の医学書「解体新書」を翻訳した杉田玄白と前野良沢は、まるで暗号の解読をするレベルの難解作業であり、めちゃくちゃ苦労したそうです。
当時はオランダ語の辞書などなかったので、日本人にとって暗号や呪文にも近いようなオランダ語の文章を日本語に翻訳したのですから、先人たちの苦労が伺い知れます。
ちなみにオランダ語で「こんにちは」は、Goedendag(フーデンダッハ)です。
難しいですね!
当時最先端のオランダ医学といえば、長崎の出島
これ以上さらにオランダ語で医学を学ぶには、独学ではかなりきついでしょうから、やはりオランダ人と直接関わりながら学ぶのがいいに決まっています。
江戸時代の当時、日本でオランダ人が住んでいた場所といえば、長崎の出島です。
長崎の出島は、江戸時代の外国人に対する規制が厳しい中で、唯一外国人の居留が認められていた「外国人居留地」になります。
出島は、現在の長崎駅の近くにある、江戸時代に(外国人を住まわせる目的で)人工的に作られた島です。
当時の一ノ関→長崎への旅行は大変だった
なので、本気でオランダ医学と語学を学ぶため、大槻玄沢は長崎への遊学を認められ、長崎へと旅して向かいました。
長崎は岩手県・一ノ関からはめちゃくちゃ遠いので、恐らくですが奥州街道・東海道・山陽道などの主要街道を通って、約60日・2ヶ月ほどかけて移動(旅)したものと思われます。
昔は新幹線も飛行機もなかったので、何十日もかけて移動するのが普通だったわけです。
ちなみに現代でもし新幹線・特急で一ノ関駅→長崎駅に移動したら、
- 一ノ関駅→東京駅(東北新幹線)
- 東京駅→博多駅(東海道・山陽新幹線)
- 博多駅→武雄温泉駅(特急リレーかもめ)
- 武雄温泉駅→長崎駅(西九州新幹線)
で、約9時間以上かかります。
かなりしんどい移動にはなりますね。
または、仙台空港か羽田空港まで移動し、空路で長崎空港・福岡空港まで向かうという人も多いでしょう。
それでも新幹線・特急と乗り継ぐため、約7時間はかかります。
一ノ関から長崎って、今も昔も遠いんですね。
大槻玄沢の、オランダ医学を学ぶ情熱がいかにすごかったかわかるでしょう。
大槻玄沢が直接江戸から長崎へ向かったのか、それとも一旦、一ノ関へ戻ってから江戸を経由して長崎へ向かったのか正確なことは不明ですが、どちらにせよ長崎までの旅行は当時はすごく大変だったわけです。
江戸に移住、医師として働き、弟子たちにも医学を教える
こうして長崎でオランダの医学を学んだ大槻玄沢は、江戸に移住して、自身も医師として働くかたわら、塾を開いて弟子たちに医学を教え始めました。
もし大槻玄沢だけが(長崎で)最新鋭の医学を学んだところで、それを世の中の人々に知らせなければ意味がありません。
なので、大槻玄沢が苦労してオランダ語で学んだ医学を、彼の塾で日本語のわかりやすい形で弟子に教えていったわけです。
大槻玄沢はいずれ亡くなるわけですから、残された弟子たちが彼から学んだ医学をさらに発展させ、そうして医学が発達していったのですね。
その弟子たちの中には、今日でも医学界では有名・著名な人達も含まれています。

※一ノ関駅・大槻三賢人像の前より(岩手県一関市)
江戸時代後期の医学 緒方洪庵の適塾
その後、大槻玄沢が亡くなった後の江戸時代後期の医学は、緒方洪庵による適塾が有名です。
緒方洪庵は岡山県の出身であり、15歳のときにお父さんの仕事の都合で大阪(当時は大坂)に出てきました。
大坂で医学を学び、21際のときに江戸に遊学しました。
その後、長崎へ遊学し、オランダ人の医者の元で医学を学びました。
この辺りは大槻玄沢と似ていますね。
その後、大坂へ戻ってきて、「適塾」を開きました。
適塾は、現在の大阪大学医学部の前身であり、大阪府大阪市の、淀屋橋にその跡地があります。
緒方洪庵は、「天然痘」の撲滅に尽力しました。
一ノ関を出て、小牛田・仙台へ

一ノ関駅を出発!(岩手県一関市)
一ノ関駅を出ると、小牛田駅を過ぎ、さらに、大都市・仙台はますます近くなってきます。
次回は、本当に最終回 仙台→東京へ
次は、いよいよ本当に最終回で、仙台→東京への行程となります!
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