道北・宗谷本線の旅について、わかりやすく解説してゆきます!
天塩川の地理・歴史などを、やさしく解説してゆきます!
音威子府駅を出て、天塩川に沿って進む
音威子府駅を過ぎると、窓の左側には天塩川が登場します。

天塩川(宗谷本線の車窓より)
かつて道北の水運で、重要な役割を果たしてきた天塩川
天塩川は、かつては「水運」によって舟が通るための道として重要でした。
水運とは、まだ貨物列車やトラック等が無かった時代に(主に江戸時代まで)、船に荷物を載せて運んでいたことをいいます。
つまり、道北地方を縦(南北)に長く貫く天塩川は、
- 現在の宗谷本線が出来る前には、重要な交通ルートだった
というわけですね。
宗谷本線ができてからは、貨物輸送は水運から鉄道にシフトしていくため、今度は逆に水運は衰退していくわけですね。
天塩川の由来「天塩国」

天塩川(宗谷本線の車窓より)
明治時代になって、北海道にも「国」が割り当てられた
しかし北海道の場合は、その長い歴史において「蝦夷地」であり、江戸時代まではまだ日本の一部ではありませんでした。
それが明治時代になって蝦夷地が「北海道」に改められ、ようやく日本の一部になりました。
そのときに、北海道を「~の国」のように、それまでの日本と同じようにするため便宜的に「国」というエリアで分けるようにしたのです。
例えば
- 「天塩国」
- 「北見国」
- 「石狩国」
- 「胆振国」
- 「十勝国」
- 「渡島国」
などのエリア分けになります。
そのうち、「テシオ」「イシカリ」「トカプチ」は、アイヌ語に由来しています。
また、どの名前も現在の北海道で使われている地名になります。
筬島駅 「北海道命名の碑」と、松浦武四郎
音威子府駅から1駅行くと、
- 筬島駅(北海道中川郡音威子府村)
という駅に着きます。
筬島駅の付近には、「北海道命名の碑」というものがあります。
これは、明治時代に蝦夷地が松浦武四郎という人物によって「北海道」という地名が命名されたことを示す記念碑になります。
松浦武四郎とは、明治時代に北海道を開拓し、また冒険をした人です。
つまり、松浦武四郎がこの地で「北海道」という地名をつけたということになり、その記念碑となります。
佐久駅 長野県が関係?でも違う
天塩川に沿ってさらに進むと、
- 佐久駅(北海道中川郡中川町)
に到着します。
佐久駅という駅名を聞いて、地元の人以外で「長野県」を想像できた人はスゴい(?)です。
- 北陸新幹線・佐久平駅(長野県佐久市)
- 小諸駅(長野県小諸市)
などがある平野を佐久平といいます。
詳しくは以下の記事で解説していますので、ご覧ください。
鉄道唱歌 北陸編 第23番 御代田・小諸へ 佐久平地域をゆく
じゃあ長野県と関係性あるのか?長野の佐久平の人たちが、明治時代に北海道のこの地に移住してきて入植・開拓をしたのか?と思いますよね。
しかし、実はどちらも違います。
駅付近がアイヌ語で「サッコタン」と呼ばれていたことから、それがなまって「佐久」というように命名されたとされています。
「古丹/古潭(コタン)」とは、アイヌ語で村や集落などの意味です。
これは駅からやや北にある河川の、アイヌ語名「サッコタンナイ(sak-kotan-nay)」という言葉に由来しています。
- サッ=夏
- コタン=村
- ナイ=川
です。
つまり「夏の村の、川」という意味ですね。
これは、昔のアイヌ民族は魚釣りを行うために、夏の期間だけはここの川岸の村で生活していたことに由来しています。
北海道とはいえ夏はそこそこ暑いですから、おそらく昔のアイヌ民族の皆さんは、涼しいこの地域にショートステイ(短期滞在)を行い、魚釣りをやってきたんでしょうね。
稲作がまだ無かった昔のアイヌ民族にとって、貴重な食糧源である魚釣りは本当に重要だったのです。
また、明治時代には多くの金持ちや野心家たちが北海道に夢とロマンを求めて、北海道に移住・入植・開拓を行い、(自分が持っているお金をさらに増やすために)私財を投資し、事業を発展させていったのです。
天塩中川駅へ到着
佐久駅からは進路をやや北東に変え、
- 天塩中川駅(北海道中川郡中川町)
に着きます。
中川も前回の佐久駅同様に、アイヌ語由来っぽくない地名ですね。
アイヌ語由来ではない北海道の地名は、明治時代の開拓における入植者の氏名や出身地などが由来であることが多いため、中川という人が入ってきたのかなぁ、と思いきや。
なんと
- 「天塩川の”中にある川“」
というものが由来です。
まぁ、かなりシンプルなネーミングですね(^^; 私(筆者)の深く考えすぎだったようです。
次回は幌延町へ
天塩中川駅を出ると、さらに北へ進み、
- 幌延町
へと入ってゆきます。
今回はここまでです。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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