石北本線・白滝~遠軽の鉄道旅と、遠軽の町・名寄本線の歴史などについて、初心者の方にも、わかりやすく解説してゆきます!
丸瀬布駅・瀬戸瀬駅を過ぎて、遠軽駅へ
前回で「白滝シリーズ」のエリアについて解説してきましたが、このエリアを過ぎると、次は
- 丸瀬布駅
- 瀬戸瀬駅
を過ぎてゆきます。

丸瀬布駅(北海道紋別郡遠軽町丸瀬布)

瀬戸瀬駅(北海道紋別郡遠軽町瀬戸瀬)
遠軽駅(遠軽町)に到着
やがて、
- 遠軽駅(北海道紋別郡遠軽町)
に到着します。

遠軽駅(北海道紋別郡遠軽町)

遠軽駅(北海道紋別郡遠軽町)
かつて遠軽駅から北へ出ていた、名寄本線
遠軽駅からは、かつて
- 名寄本線
という路線が出ていました。
遠軽駅が、北へ延びるスイッチバック構造になっている理由
遠軽駅は北へ延びた構造の線路になっています。
それは、かつて北の方面に「名寄本線」という線路が出ていたことの名残というわけです。
かつて北の紋別方面へ出ていた、名寄本線
名寄本線は、遠軽を北に出て、
- オホーツク海側の、湧別町
- 同じく、オホーツク海側の紋別市
- 内陸部・北西の名寄市
の方面へ向かっていたのでした。
名寄市と名寄本線については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

自動車の台頭などにおされ、名寄本線は廃止へ
しかし、明治時代にこれだけたくさん存在していた北海道の鉄道路線でしたが、
- 1960年代以降の自動車普及(モータリゼーション)の加速
- 炭鉱の閉山などによる、人口減少
- 札幌一極集中
などが原因で、これらの鉄道路線は次々に廃止されていったのでした。
明治時代、多くの人々が資源を求め、北海道に移住
明治時代には、北海道には石炭や魚介類をはじめとするたくさんの資源が眠っていたことがわかったため、多くの人々が北海道に移住してきました。
この移住のことを「入植」ともよばれます。
つまり、多くの野心家の人たちが 「北海道で一発当てて、大成功するぞ!」 と言う感じで、とりわけ1880年代頃からたくさんの実業家たちが北海道に移住してきて、私財を投資して開発をしたりしてきたのでした。
当時、石炭は特に重要なエネルギー源 だった
また、当時は「北海道に移住してきたら儲かる」というような風潮もあったわけです。
特に「石炭」は、いざ戦争になったときに必要な「蒸気船」や「(兵士や食糧・軍事物資を運ぶための)鉄道」などの動力機関を動かすのには特に必要であり、重宝されました。
つまり、石炭を掘り出せば掘り出すほどに(そういう蒸気船や蒸気機関車などの建設・製造を行う企業が)買ってくれたのでした。
そうした背景から、石炭が眠っている炭鉱がたくさん存在する北海道に、どんどん人々が移住してくるのもわかります。
60年代以降、自動車の普及で北海道の多くの鉄道は衰退へ
しかし戦後、1960年代の高度経済成長期に入ると、自動車が普及してきます。
ドアツードア(家から家へ)で移動できる自動車の方が便利だったことから、次第に鉄道の利用客は減っていくようになりました。
また60年代、エネルギー革命により石炭から石油へ 石炭は衰退
また、エネルギー革命により、エネルギーが先述の石炭から「石油」に変わっていったのでした。
そのため、それまで石炭をたくさん掘り出していた炭鉱・鉱山は不必要なものとなり、次々に閉山しゆくこととなりました。
すると、それまで炭鉱・鉱山で働いていた人々は、職を失うことになってしまったのでした。
鉱山の閉鎖により、北海道の各地で人口減少
そのため、住民たちは新たな仕事を求めて町を出てゆき、札幌や東京などの都市部へと引っ越していくことになったのでした。
これによって沿線人口が減り、鉄道は石炭も人も運ぶ機会が減少していったのでした。
そのため、北海道のあちこち(もちろん全国の過疎地域でも)で鉄道は廃線に追い込まれていったのです。
みんなで北海道を元気に
そしてかろうじて現存している北海道の鉄道路線も、札幌都市圏を含めてすべての路線が赤字であり、廃止の議論がなされている路線もたくさんあるのです。
みんなで北海道へ行って、北海道を元気にしましょう!
この記事を読んでくださっているあなたが、少しでも北海道の鉄道旅行をする興味を持つ機会になれれば幸いです。
遠軽の開拓者の心の支えとなった、キリスト教
遠軽町には、キリスト教の教会が多く存在します。
これは先ほども解説した、明治時代における北海道開拓のときに、遠軽に移住してきた方々がキリスト教を信仰をしていたためです。
厳しい北海道の開拓において、神様の存在は開拓民にとって、心の拠り所だった
後述の通り、キリスト教は厳しい気候の北海道を開拓する人々にとっては、心の拠り所となる存在でした。
先述の通り、
- 明治時代の北海道には、たくさんの石炭が埋まっていることがわかったこと
- 北海道は様々な資源の宝庫であることから、「北海道に移住すれば儲かる」というような風潮もあったこと
から、多くの人々が北海道に移住してきて、せっせと開拓事業に励んだのでした。
加えて、前回も解説したロシアの南下政策に備えて、北海道の防御力を固める必要性も出てきたため、多くの「強い人達」が北海道に移住してきました。
その強い人達とは、江戸時代に「武士」だった人達です。
職を失った多くの元・武士たちが、北海道へ移住してきた
明治時代になると士農工商が廃止され、元々武士だった人達の中には職を失った人達も多くいたのでした。
そのため、(国の命令で)北海道の警固にあたるために移住してきた人達もいたのでした。
「屯田兵」などはまさにその例ですね。
ロシアの南下政策と北海道開拓については、以下の記事でも分かりやすく解説しておりますので、ご覧ください。
道東の旅2 石北本線・上川→白滝 駅間距離約40分の国境を越える
寒くて慣れない土地での開墾作業
開拓者たちは北海道という慣れない土地で、過酷な環境な中でも開墾(何もない土地を耕して、切り開いていくこと)を強いられました。
何もない土地に水を引いて、田んぼを耕し、なんとか人が住めるような土地にしていったのです。
北海道は冬の極寒がすごいですから、本州より南の温暖な土地から移住してきた開拓者たちにとっては、かなりこたたことでしょう。
また、町内を流れる湧別川が氾濫を起こしたとき、それに巻き込まれるのではという恐怖もあったことでしょう。
それだけ苦労して農作業に勤しんだにも関わらず、不作に見回れようもんなら。
それはとても心が折れたはずです。
厳しい気候で働く開拓民たちにとって、「心の拠り所」となった神様の存在
キリスト教は、明治時代の遠軽のそうした開拓者たちの心の拠り所となってきたわけですね。
また、開拓者たちはキリスト教とはいわなくても神社を建てたりして、お祭りという行事を楽しみ・目標・励みにして頑張ってきたりもしたのでした。
そのようにして、明治時代の開拓者たちは神様の存在を心の拠り所にしたりしながら、過酷な環境での開拓を乗り越えてきたわけです。
遠軽駅からは、進行方向を変えて南へ
遠軽駅はスイッチバックの構造(「人」の形をした、先頭から突っ込んでバックをする線路の構造)となっています。
そのため、遠軽駅からは進行方向が逆になります。
なぜ遠軽駅がスイッチバックの構造なのかは、先述の通り、名寄本線が北方面へ出ていたことの名残です。
そして、険しい常紋トンネル(じょうもんトンネル)を過ぎて、留辺蘂方面へと向かってゆきます。
次回は、留辺蘂・北見方面へ
今回はここまでです。
次回は
- 留辺蘂
- 北見
方面へと向かってゆきます!
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