広島県三原市の観光・歴史について、小早川隆景が築いていった山陽道の交通の歴史などを、わかりやすく解説してゆきます!
広島県三原市とは?

三原駅(広島県三原市)
広島県三原市は、以前解説した尾道市の西側にある市です。
山陽新幹線が止まり、呉線への分岐点でもあり、さらには広島空港にも近い街でもあります。

三原からほど近い、うさぎの楽園・大久野島(広島県)
また、うさぎの楽園・大久野島への観光拠点でもあります。
駅のすぐ裏には、三原城もあります。
三原市のお隣・尾道市の観光・歴史などについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

うさぎの楽園・大久野島については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

天然の要塞「三原城」と浮城
まず、三原市の歴史を語る上で重要なのが、かつて戦国時代に小早川隆景が築いた三原城の存在です。
この三原城は当時としては珍しく、まるで「海に突き出すような形」で建てられていたため、「浮城」とも呼ばれていました。
小早川隆景:戦国時代の有名な武将で、毛利元就の三男です(養子縁組で「婿入り」したため、苗字は異なりますが)。
頭がとても良くて知略に優れ、豊臣秀吉からも高く評価されていました。
浮城(うきしろ)と呼ばれ、理由新幹線の駅がお城の中にある
この三原城は、海が満潮でいっぱいになったときには、
ということから、先述の通り浮城と呼ばれていました。
三原城と山陽道

山陽本線・三原~白市間(広島県)
この三原城とかつての昔の人々のメインルートである山陽道は、切っても切れない「共生関係」にありました。
重要な脇往還の一つ・山陽道
まず山陽道は、江戸時代には五街道の付属的な位置付けである「脇往還」の一つとして整備されました。
また、山陽道は「西国街道」とも呼ばれ、非常に交通量が多かったです。
五街道とは
ちなみに五街道とは、江戸時代に幕府が定めた、江戸(東京)を起点とする5つの重要な道路の総称です。
主要な街道ではないものの、脇往還として重要だった山陽道
三原を通っている山陽道はこの五街道には含まれてはいませんが、それに次ぐ重要路線として「脇往還」と呼ばれ、非常に大切にされていました。
脇往還:江戸幕府が定めた五街道以外の重要な街道のことをいいます。
- 脇:メインの街道に付属・接続するという意味
- 往:往くという意味
- 還:還るという意味
すなわち、「行って帰るための道」ということで、「往還」となります。
三原は「海(瀬戸内海)」と「陸(山陽道)」の2つの大きなルートが交わる場所だったからこそ、これほど豊かな歴史が刻まれたんですね!
山陽道の「圧倒的な」重要性
ただし脇往還といいつつも、山陽道はむしろ江戸時代以前から現代に至るまで「日本で最も重要なメインストリートの一つ」として君臨し続けてきました。
これは現代でいう山陽新幹線が東海道新幹線に匹敵するくらい重要なのとにていますね。
すなわち、歴史的な位置づけを整理することで、山陽道の凄さがより際立つことになります。
「脇往還」とはいえ非常に重要ルートである山陽道
先述の通り、江戸時代にはあくまで幕府が定めた「五街道(東海道など)」が交通の中心であったのでした。
そのため、そもそもその「五街道」含まれていない山陽道は、形式上はあくまでその次のランクにあたる「脇往還」に分類されているわけです。
しかしながら、「脇往還」といいつつも、実際には
- かつて「西国将軍」と呼ばれた強大な大名である島津氏(鹿児島県)や毛利氏などの大名が、
- 参勤交代のときには、江戸(東京)に向かうときに、必ず通る
という、超重要なルートだったのでした。
昔から「京都」「九州」をそれぞれ最短・最速で結ぶ、とても重要な道だった
このように、山陽道は当時から京都と九州をそれぞれ陸路で結ぶための最短ルートであったことから、古代から「大路」として最高ランクの整備がなされてきました。
すなわち、その古代からの重要性は、現代の山陽新幹線の時代になっても、決して変わっていないというわけです。
「陸路」「海路」をそれぞれ結ぶ「結節点」としての三原
また、三原の英雄・小早川隆景が本拠地を置いた三原という土地は、
- この山陽道という「陸のルート」
- 瀬戸内海という「海のルート」
とがそれぞれ交差するという、「陸海の結節点」となっていました。
そのため、多くの旅人や運送業者たちが集まってきやすくなり発展してきたという歴史があります。
したがって、小早川隆景はただ一地方の領主・リーダーだったというだけでなく、日本の大動脈を支配する司令官のような立場だったわけですね!
瀬戸内海に面した三原の町
三原城は、山陽道のほぼ中央に位置しており、まさしく瀬戸内海に面しています。
瀬戸内海とは、本州、四国、九州に囲まれた日本最大の「内海」です。
外からの強い波が入ってきにくい地形構造のため、波が穏やかで強い波が起きにくいという特徴があります。
また、貨物列車などが無かった時代には、古くから船を使った物流の道として栄えてきました。

呉線・三原~忠海間の海の景色(広島県)
瀬戸内海という防御柵に守られた天然の良港
三原は、この穏やかな瀬戸内海に面した「天然の良港」だったため、周りを山々などの天然のバリヤーに囲まれていることから、水軍(海上軍事力)の拠点にもなったのです。
三原城は、戦国時代末期に築かれたお城であり、当時は遠くから見るとまるで海に浮いているように見えたため、「浮城」の別名があります。
当時の最先端技術によってなんと海の中に石垣を組んでおり、しかも軍船が直接お城の中まで入ってこられるような、なんとも特殊な構造をしていました。
山陽道の宿場町としての発展(三原城下町)
また、三原城下町は、山陽道の宿場町として賑わいました。
宿場町とは、街道沿いに作られた、旅人が泊まったり休憩したりするための街のことです。
当時は何日も徒歩または馬で旅をするのが基本だったわけなので、こうした宿場町が必要だったというわけです。
今で言う「サービスエリア」と「ホテル街」が合体したような場所ですね。
三原もこうした山陽道の宿場町として、多くの旅籠(一般人が泊まる比較的安い旅館)が立ち並び、とても賑わっていました。
宿場町には、普通の旅人たちや庶民の皆さんが泊まるための宿場である旅籠や商店が立ち並び、多くの人々が行き交うガヤガヤ・ワイワイと賑わうような場所だったのでした。
山陽道とは:京都から九州へのメインロード
山陽道は先述の通り、
- 日本の中心地である京都から、
- 西の端である九州へと続く
という、西国(西日本)最大の大動脈(メインロード)でした。
時代ごとの変遷をまとめると、おおむね以下のようになります
- 江戸時代まで(徒歩や馬の時代):山陽道(西国街道)
- 明治時代:山陽鉄道(現在の山陽本線の原型)
- 自動車の時代になってからは:国道2号
- 新幹線の時代になってからは:山陽新幹線
- 高速道路の時代になってからは:山陽自動車道
このように、この道はかつて江戸時代よりもずっと前から多くの大名が参勤交代で通り、しかも旅人や商人がいつも絶えず行き交うという、まさに情報の最先端が走る道でした。
現在の山陽本線の原型である、明治時代の山陽鉄道の歴史については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

三原城:山陽道を「握る」ための要塞
また、三原の英雄ともいうべき偉大な戦国武将の小早川隆景が、かつて三原城をこのとても便利な土地に築いた最大の理由の一つは、この山陽道の要衝を確保し、しっかりと人々やモノなどの動きをコントロール・管理することにありました。
要衝:交通や軍事の上で、非常に大切な地点のこと。
城下町の発展と地域経済
このように、山陽道が三原城のすぐそばを通っていたことで、多くの人やモノが集まってきやすい町の構造になっていたのでした。
そのため、三原城の周辺の城下町は、爆発的に発展してゆしました。
こうして三原の町は、歴史的に旅人が泊まる宿場町としての機能、そして各地の特産品がたくさん集まってくるような、まさに商業の拠点としての役割を果たしていったというわけです。
人が集まってくる場所ほど、モノは売りやすくなるわけですからね。
すなわち、山陽道の存在はただ「大きな道」だっただけでではなく、三原の町に対して大きな富をもたらす・運んでくるという「経済のエンジン」だったと言えますね!
昔の軍事拠点としての三原 瀬戸内海を監視する「海の要塞」
また、昔は三原城は、瀬戸内海を監視し、外敵の侵入を防ぐための軍事拠点としても機能ていましした。
すなわち、山陽道を通る軍隊や、さらには物資の輸送なども、みんなまとめて三原城が(厳格に)管理していたのでした。
陸と海を支配する軍事要塞・三原城
三原城は、沼田川の河口にある島々をつないで築かれたため、城のすぐ裏まで海が迫っていました。
そして、三原城は海に突き出していたため、広い範囲を見渡すことができました。
すなわち、三原城は瀬戸内海における主要な航路や行き交う船(=敵かもしれない船)を目の前で監視できるという、なんとも絶好の場所・好立地に位置していたというわけです。

沼田川(山陽本線・三原~白市間)(広島県)
このように、三原城はただ外敵が海から攻めてくるのを防ぐというだけでなく、行き交う船をチェックする軍事拠点として、これ以上ない機能を果たしていました。
したがって、小早川隆景が率いる最強の水軍がここ・三原城に常駐しているということは、彼らに敵対する勢力にとっては攻めにくいという、とても大きな脅威だったというわけですね!
山陽道の軍隊・物資輸送の管理拠点としての三原
そして、三原城の役割は海だけにとどまりません!
山陽道(当時のメインロード)は三原城のすぐ脇を通っていました。
すなわち、西国(九州・山口方面)と中央(京都・大阪方面)をそれぞれ結ぶ陸上の物流・旅人・商人・運送業者たちも、皆すべて監視の厳しい三原城の目の前を通過しなければならなかったわけです。
三原城は、人々やモノをコントロールしやすい絶妙な位置に存在していた
というのも、かつて軍隊の移動や重要な物資の輸送をコントロールするということは、当時の政治の安定を保つためにも、極めて重要でした。
三原城はいわば、「陸と海の交差点」をガッチリと握るコントロールタワーのような存在だったのですね!
要衝:交通や軍事で、どうしても通らなければならない非常に大切な場所のこと。
このように、陸からも海からも、すべての人々の動きが三原城に対して筒抜けだったと思うと、当時の緊張感と小早川隆景の知略の凄さがよりリアルに感じられますね。
小早川隆景と三原城
三原の英雄・小早川隆景は、毛利氏の一族で、優れた政治力と軍事力で知られています。
神奈川県・土肥氏を祖先とする一族・小早川家
小早川氏は、鎌倉時代から続く名門の武家一族です。
この鎌倉時代というのは、かつて現在の神奈川県・湯河原を支配していた、土肥実平を祖先としているからです。
彼は平氏に負けそうになって逃げ場を失っていた源頼朝を助けだし、後に源頼朝が鎌倉幕府を建てることに貢献したという功績を認められ、はるか西の三原の地を任されるようになりました。
沼田川の地に落ち着く 「小早川」を名乗る
もちろん故郷を遠く離れる淋しさもあったでしょうが、彼ら土肥氏は誇りを持って三原を流れる「沼田川」の土地を支配することになりました。
そしてこの地域に落ち着いた土肥氏が住んでいた場所の沼田川は、まるで
跡継ぎがいなくなった小早川家へ、毛利家出身の隆景が「婿入り」
三原の小早川氏の中でも特に有名なのがその小早川隆景であり、彼は毛利元就の息子であるため、先祖が神奈川県(相模)の土肥氏というわけではありません。
あくまで息子の跡継ぎがおらずに困っていた小早川家へ、養子として入ったことで小早川氏の一員となったのでした。
彼(小早川隆景)は三原の街を整備し、三原城を築いた「三原の父」とも言える存在です。
こうした縁で、広島県・三原市と神奈川県・湯河原町は姉妹都市の関係にあります。
神奈川県の湯河原町については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

毛利氏とは
また、三原の小早川隆景の生みの親である毛利氏は、戦国時代に中国地方の全ての地域を、その強大な力で支配した巨大な大名家です。
大名:広い領地を持ち、その圧倒的な力で軍隊を率いてその土地を治めていた、有力な武士のことをいいます。
この毛利家では、あの「サンフレッチェ広島」のチーム名の由来にもなった「三本の矢」の教えで有名な、毛利元就が有名ですね。
隆景含む3人の息子が協力するように教えた「三本の矢」
毛利元就といえば、彼の3人の息子たちである
- 毛利隆元
- 吉川元春
- 小早川隆景
に対して、
だから、兄弟3人が協力しなさい」
と説いたわけです。これがいわゆる「三本の矢」のエピソードです。
この教えこそが、まさに毛利家が長く繁栄していく要因となった、精神的な支柱となりました。
毛利両川(りょうせん)とは
毛利家の出身である小早川氏は、この毛利氏を支えるための「両川」という協力体制の一つとして、軍事や外交の場面において大きな役割を果たしました。
すなわち、
- 吉「川」(きっかわ)
- 小早「川」(こばやかわ)
の2つの川、すなわち「両方の川」で「両川」というわけです。
毛利を支える「毛利両川」体制
このように、三原を支えてきた小早川氏は、もう一つの毛利家出身の有力な一族である吉川氏とともに、「毛利両川」と呼ばれました。
毛利両川とは、先述の通り「吉川」と「小早川」という、それぞれ名前に「川」がつく二つの家が毛利本家(つまり、数ある毛利家の中でも、本当のメインの家系)を支えた独自の政治体制のことをいいます。
小早川家・吉川家の「両川」が、毛利本家を支えた
つまり毛利宗家(本家)を、強力な二つの川(小早川と吉川)の「両川」が両サイドから支えるという、最強の協力体制です。
- 吉川元春(次男):主に山陰地方を担当し、その圧倒的な武力で毛利家の軍事面を支えた「武の将」です。
- 小早川隆景(三男):主に山陽・瀬戸内海を担当し、海の主力チームである水軍の指揮や、豊臣秀吉との交渉など他地域との外交面を担った「智の将」です。
このとても素晴らしい「両川」が、軍事・外交の両方の面・ジャンルにおいて能力を発揮してフル回転したからこそ、戦国時代に毛利家はその巨大な領土を維持することができたというわけですね!
特に三原を拠点とした小早川隆景の外交センスは、毛利家が滅亡の危機を乗り越え、発展していくためにも、とても欠かせないものでした。
今回はここまで 続きは次回
おわりに:今回は長くなりましたので、続きは次回に解説してゆきます!
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