関門海峡の観光・歴史や、壇ノ浦の戦いでのエピソード、さらに下関のふぐの歴史まで、初心者の方にもわかりやすく解説してゆきます!
関門海峡・壇ノ浦・下関の地理・歴史を学ぼう

関門海峡と、向こう岸の和布刈の景色(山口県下関市)
さて、今回は関門海峡を中心に、その地理と歴史を深掘りしてゆきましょう!
源平合戦の最終決戦地である壇ノ浦や、ふぐの名産地である下関には、たくさんの興味深い物語が眠っています。
したがって、潮流の速い海峡が育んだ、ユニークな文化や歴史的な事実を知ることで、きっと感動があるはずですよ!
関門海峡とは?様々な歴史

下関・関門海峡・壇ノ浦古戦場跡より(山口県下関市)
現在の山口県下関市の付け根にある海である、関門海峡の向こう側は、すぐに福岡県の門司が迫っています。
- 関:下関の「関」
- 門:反対側・福岡県の門司の「門」
古くから航海の難所だった、関門海峡
この関門海峡は、海がとても狭いため、
- 潮の流れがとにかく速くなりやすく、
- 波も立ちやすいため、
- 船が波にあおられやすい
という、まさに古くからの難所だったというわけです。
そのため、たとえ船を操縦しても、舵(ハンドル)を波にとられやすく、思うように操縦がしにくかったりしたわけですね。
さらに、もっとも狭いところでわずか600mの幅しかないため、大型船が通るためには、さらに難易度が上がるのです。
そんな歴史的に多くの船乗りさんたちが苦戦してきた難所中の難所が、この関門海峡であったというわけですね。

筆者・関門海峡より(山口県下関市)
門司港駅から関門海峡(和布刈→壇ノ浦)までのアクセス
例えば青春18きっぷなどの鉄道で関門海峡へ向かうには、
- 門司港駅(福岡県北九州市門司区)
からが便利です。
つまり、福岡県側からが便利ということですね。

門司港駅(福岡県北九州市門司区)
門司港駅から、和布刈エリア(関門海峡の福岡県側)へ
門司港駅から和布刈エリアへは、西鉄バスを利用するのが便利です。
駅前のバス停から「和布刈」方面行きのバスに乗りましょう。
したがって、「和布刈」バス停で降りれば、関門海峡に面した
- 和布刈公園
- 関門トンネル人道
の入口へとアクセスできます。
バスでの所要時間は、約10分程度となっついます。
途中の海の景色もとても綺麗なので、バスに乗って海沿いの景色を楽しむのもまた素敵ですね!
関門トンネル人道(じんどう)
また、和布刈からは、反対側の下関・壇ノ浦方面へとつながっている関門トンネル人道があります。
このトンネルは、関門海峡の海底を通って、九州と本州を結ぶという、全長約780メートルにもおよぶ歩行者専用トンネルです。
つまり思ったよりも長いトンネルですが(向こう岸まで行くので当然かもしれませんが)、このトンネルを通ることで、自分の足によって県境をまたいで福岡県から山口県(壇ノ浦方面)へと渡ることができるというわけです。
歩行者は無料で通行でき、約15分で渡りきることができます。
海底を歩くなんて、また普段とは一味違った経験をここではすることができます。

関門海峡人道トンネルを通過中!(福岡県・山口県)

福岡県・和布刈側から、山口県・壇ノ浦側まで来た筆者(山口県下関市)
関門海峡が、船にとっての難所である理由

山口県側・下関市の壇ノ浦より(山口県下関市)
関門海峡が船にとっての難所である理由は、主に二つあります。
幅がとても狭く、大きな船が通りにくい

関門海峡(向こう側は福岡県・和布刈)(山口県下関市)
一つ目は、海峡の幅が、最も狭い場所でわずか約600mしかないということです。
すなわち、大型船が行き交うには十分なスペースがあまり確保されておらず(自然の海に対してこの表現は少し違いますかね(^^;)、非常に手狭な水路・ルートなのです。
狭い海域を大型船が通ると、すれ違いも困難
大型船がこの600mしかない狭い海峡を通るには、つねにすれ違いの恐怖があり、まるで針に糸を通すような緊張感があります。
さらには、大型船どうしが接近すると、水の圧力がおかしいことになって船同士が吸い寄せられて接触の危機という、恐ろしい現象(※)がおこります。
※この現象を相互干渉といいます。
逆に、お互いの船が弾き飛ばされるという、これまた危険な現象も起こります。
関門海峡の「潮の流れ」が速い理由
二つ目は、潮の流れ、つまり潮流が非常に速いことです。
潮流:海水がまとまって同じ方向へ移動するという流れです。
主に月や太陽の引力による、満潮・干潮のために起こります。
特に満潮と干潮の前後では、潮の流れが時速10ノット(約18.5キロメートル)に達することもあります。
そのため、船の操縦が非常に難しくなります。
ホースの先を強く握ると、水が勢いよく飛んでいくのと同じ現象
広い場所から狭い道へ水が通ると、水の流れは一気に加速します。
そう、それはまるで
というのと同じ現象です。
それと同じような現象が関門海峡でも起こっており、これによって関門海峡の水の流れは非常に速くなっているというわけです。
狭い海域へ、多くの海水が一気に流れ込む「潮の速さ」
つまり潮汐によって、大量の海水が一気に狭い海峡へ流れ込もうとするため、その流れがボトルネックのようになって速くなるのです。
潮汐:月や太陽の引力によって、海面が上がったり(満潮)、下がったり(干潮)することです。
さらに、一日になんと700隻もの船が行き交う交通量の多さも、危険を増す大きな要因です。
つまり船乗りさんたちは、いつも緊張感をもって、この狭く厳しい海の上を航行しているわけですね!
関門海峡は、船の事故も多かった?
残念ながら、関門海峡は歴史的に、とても船の事故が多い場所でした。
関門海峡は、前述の通り、
- 潮の流れが速いこと→ハンドル(舵)がうまく取れない
- 海峡が狭いこと→船同士でぶつかるリスク・岸に座礁するリスク
- 船の交通量が非常に多いこと→船同士でぶつかるリスク
などの様々な要因から、昔から船の難所とされてきました。
昔は今ほど船の技術が発達していなかった
かつては現在ほど航行技術や船の性能が今ほど高くなかったのでした。
つまり今と比べて船乗りさんたちの知識や技術も発達しておらず、船も荒れた海には(今と異なり)弱かったのでした。
そのため、船同士の衝突や、岸に乗り上げるという座礁などといった海難事故が、残念ながら頻繁に発生していました。
特に悪天候の日となると、操船がさらに難しくなってしまいます。
波は荒れに荒れ、舵(ハンドル)がまともに効かなくなるなど、大変な危険が伴っていました。
あれっ、岸が近い!干潮の影響を受け、座礁もしやすかった
また、関門海峡は、干潮の影響も非常に受けやすく、座礁も起きやすくなっています。
つまり、さっきまでは深かった海であっても、干潮の予測をミスるとすぐに海水が無くなってしまい、両端の岸が近く迫ってきてしまう現象が起こります。
そうなるといつのまにか船が岸に乗り上げて座礁、といったことが起こりえて、危険なわけです。
しかし、現在は
- 技術の進歩
- 厳しい航行ルール
- 関門マーチスという交通管制
などの仕組みによって、事故は大幅に減少しています。
関門海峡の船の交通ルールは厳しい?
そして、関門海峡の船の交通ルールは、他の地域の海(海域)と比べても非常に厳しく定められていると言えます。
先述の通り、ここは潮の流れが速いことに加え、狭い水路・ルートを非常に多くの船が行き交うために、事故防止のために特別なルールが定められています。
特に大型船などは、関門海峡航路という決められたルートを通らなければならない決まりとなっています。
さらには、先述の関門マーチスという専門の管制所の指示に従って進まなければならないという義務があります。
このように、全ての船乗りさんたちは、ここで細かいルールをしっかり守りながら、事故を起こさないように緊張感をもって航行しているというわけです。
「壇ノ浦の戦い」の舞台ともなった関門海峡

下関・関門海峡・壇ノ浦古戦場(山口県下関市
また、この関門海峡にある壇ノ浦は、平安時代終わりの1185年、源平合戦のまさにラストおいて、源氏が平家を東から西へ西へと追い詰めてきた最終決戦地として、とても有名です。
つまりここでは、源頼朝の弟である源義経が率いるいる源氏軍が、当時まだ幼かった安徳天皇を擁して逃げてきた平氏軍を追い詰めて滅ぼしたという、
- 壇ノ浦の戦い(1185年)
が行われた場所であるというわけです。

下関・壇ノ浦古戦場より(山口県下関市)
平家が関門海峡・壇ノ浦に追い詰められた理由
平家が最終的に壇ノ浦に追い詰められたのは、
- 戦略的な失敗と、西国での味方の離反
が大きな原因です。
源氏に敗北続き 相次ぐ西への敗走
まずそれまでの戦で、源氏に次々と敗北し、本拠地を失いました。
したがって、源氏に負け続けた平家はそれまでのよりどころ・本拠地を失い続け、船で瀬戸内海を転々としながら、西へ西へと逃げるしかなくなったのでした。
また、平家が味方にできると思っていた西国の武士たちも、勢いを増す源氏になびいてゆき(つまり寝返って・裏切ってゆき)、平氏側からは次々と人々が離れていきました。
このようにして頼る場所も兵力も失った結果、船で逃げられる最後・限界の場所であった関門海峡の壇ノ浦に追いつめられてしまったというわけです。
壇ノ浦の戦いについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

安徳天皇の悲しいエピソード
安徳天皇は、わずか2歳という幼さで即位し、平家とともに(平家に守られながら、西へ西へ逃れる)苦難の旅を続けたという、なんとも悲劇の運命をたどった天皇です。
1185年、壇ノ浦の戦いにおいて平家が源氏軍により敗北すると、当時わずか8歳だった安徳天皇は、祖母(つまり、おばあちゃん)であり平清盛の妻でもある二位の尼に、この海の手前で抱きかかえられました。
そして、
二位の尼「波の下にも、都がございます。これからそこへ行くのです。」
という言葉とともに、幼い安徳天皇は三種の神器と共におばあちゃんと入水してしまうという、なんとも悲劇の最期を遂げたわけです。
これの悲劇のエピソードは、平家の滅亡とともにその短い生涯を閉じたという、なんとかわいそうなエピソードです。
戦という大人たちの事情に翻弄されてしまった幼い命を思うと、なんとも涙が出そうになりますね…。
三種の神器とは、歴代の天皇が受け継いでいる、鏡・剣、玉のことです。
安徳天皇は生きていた?という都市伝説
さて、ここからはそんな可哀想な運命をたどった安徳天皇を救うような、ららに興味深いエピソードを紹介します。
壇ノ浦の戦いで入水したとされる安徳天皇ですが、
という都市伝説があります。
これは、「悲劇の幼い天皇の死」を信じたくないという、後世の人々の強い願いから生まれたストーリーなのものかもしれません。
したがって、この伝説では、
- 実は(本物ではない)身代わりの子どもが入水しており、
- 本物の安徳天皇は、平家の残党に見守られながら、
- 九州の奥深く、山奥などへ逃げ延びた
とされています。
九州に多く存在する「安徳天皇ゆかりの地」
そのため、熊本県・宮崎県には、安徳天皇を祀る神社や、平家の落人伝説が残るとされている集落が点在しています。
落人伝説:戦いに敗れた武士などが、「実は生きていて、人里離れた土地へと逃げ込み、ひっそりと暮らしていた」などというような言い伝え。
史実ではないけれど、まるで想像力をきたてるような、なんとも切ないお話ですね!
下関の名物「ふぐ」
下関で「ふぐ」が盛んな理由
ちなみに、下関は日本のふぐ取引の中心地であり、ふぐが盛わけです。
明治時代に、それまで禁止されていたふぐを、初代内閣総理大臣の伊藤博文が下関において解禁したことがきっかけでした。
下関は、ふぐの流通と文化を支えているわけですね。
伊藤博文:明治時代の政治家で、日本で最初の内閣総理大臣になった人物です。
伊藤博文が下関でふぐを解禁した理由
伊藤博文が下関でふぐの食用を解禁した理由は、ふぐの美味しさに深く感動したからです。
明治時代の初めは、ふぐは毒があるため、まだ全国的に禁止されていました。
あるとき、伊藤が下関に滞在したときに、たまたま振舞われたふぐ料理のあまりの美味しさに驚き、
と感銘を受けました。
そのため、山口県でのふぐの販売と食用が許可されたのです。
おかげで、今では美味しいふぐを安全に楽しめますね!
ふぐは危険?安全?食中毒にならないためには?
ふぐは、その身は安全で美味しいのですが、内臓や皮などに猛毒である「テトロドトキシン」という神経毒を持っているため、非常に危険です。
そしてこの毒は、加熱しても分解されないため、素人が調理するのは、絶対にやってはいけません。
したがって、食中毒を避け、安全に食べるためには、国や都道府県が定めた資格を持つ「ふぐ調理師」がいるお店で食べることが唯一の方法です。
このような資格を持ったプロが、毒の部分を確実に取り除いてくれるからこそ、我々は安心して美味しく味わえるのですね!
テトロドトキシン:ふぐが持っている毒のこと。
非常に強力で、人の神経の働きを止めてしまうことがあります。
実は、ふぐが自分で毒を持っているわけではない?
ちなみに、ふぐ自身が毒を作り出しているわけではありません。
つまり、
- ふぐが主にエサとして食べるエビやカニ、あるいは貝類などに付着している、毒を持ったプランクトンや微生物を、
- (ふぐが食べて)一緒に体内に取り込むことで、
- その毒がふぐの体内に蓄積されてしまう
というわけです。
また、ふぐにとってもこの毒は、捕食者(天敵)から身を守るための、ある種の強力な武器となっているわけです。
神経毒にやられると、神経がやられてしびれて動けなくなる?
もし、ふぐが持っている神経毒にやられてしまうと、神経が侵されてしまい、しびれて動けなくなってしまいます。
ふぐの毒である「テトロドトキシン」は、非常に強力な神経毒です。
つまり、もしこの毒が体内に入ると、神経の伝達(体の隅々まで脳の命令信号が行き届く)というものをブロック・止めてしまういます。
そうなると、唇や舌のしびれから始まり、やがて全身の筋肉が麻痺してしまい、動けなくなります。
したがって、意識があるのに体が動かないという、非常に恐ろしい状態に陥るのです。
もし中毒でしびれたら、必ずすぐに病院へゆきましょう。
下関には多くの「ふぐ調理師」が集まっている?
下関は、ふぐの取引の中心地であるため、日本全国でも有数のふぐ調理師が集まっています。
すなわち、南風泊市場がある下関には、高級なふぐの調理と流通を担う、高度な技術を持ったプロフェッショナルが不可欠なのです。
ここで働く調理師たちは、厳しい資格基準を満たし、ふぐの安全を守っています。
プロの技って、本当にすごいですよね!
下関では「ふく」という?理由は?
ちなみに、下関では、ふぐのことを「ふく」と呼ぶ習慣があります。
この理由は、非常に縁起の良い言葉に掛けているからです。
すなわち、「ふく」は「福」、つまり「幸運や幸せ」を意味する言葉に通じます。
また、「ふぐ」という音が
- 「不遇」
- 「不運」
などといったマイナスのイメージに通じるのを嫌って、縁起を担いで「ふく」と呼ぶようになったというわけです。
とても粋な呼び方ですね。
おわりに・まとめ
関門海峡から壇ノ浦、そして下関にまつわる地理と歴史を学んでみて、いかがでしたか。
そこは源氏と平家の悲劇の舞台でありながら、ふくや船の交通の要衝という、多面的な魅力を持った場所だとわかっていただけたのではないでしょうか。
したがって、関門海峡を歩いて渡れる海底トンネルや、伊藤博文によるふぐ解禁のエピソードなど、旅がしたくなるような知識が増えれば、歴史の旅ももっと楽しくなることでしょう。
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