佐賀県唐津市の観光・歴史を、わかりやすく解説してゆきます!
唐津の海の幸、石炭輸送で栄えた港町の歴史等を、やさしく解説してゆきます!
今回は佐賀県・唐津(からつ)の魅力に迫る
さて、今回は佐賀県にある街である、唐津の魅力を深く探ってみましょう!
今回から全3回にわたって、ボリュームたっぷりで解説してゆきます!
唐津の地理やそして興味深い歴史を学ぶことで、観光や探訪がより楽しいものとなることでしょう。
きっと、新しい発見がたくさんありますよ!!
唐津市についての基本的知識
唐津市とは?どこにある?

唐津駅(佐賀県唐津市)
佐賀県唐津市は、佐賀県の北西部に位置している市になります。
玄界灘に面した唐津市 「海の幸」のめぐみ
唐津市の北側は、玄界灘という海に面しています。
玄界灘:九州の北西部に広がっている海のことです。
ここでは西から暖かい海の流れに沿って大量の魚がエサを求めて流れ込んでくるため、おいしい魚がたくさんいます。
玄界灘については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

このように、唐津の地はまさに海の幸に恵まれた、とても自然豊かな場所というわけですね!
海の幸:主に海でとれる魚や貝・海藻といった、自然の恵みともいうべき、美味しい食べ物たちのことですね!
福岡・博多との結びつきがとても強い街
唐津市は福岡市からも比較的近く、交通の便もとても良いところです。
そのため、経済的・地域の結びつき的には「福岡の延長線上」としての活気も持っています。
つまり、通勤・通学で福岡(博多)方面へ行かれる唐津市民の人々はとても多く、遊びに行くのにも博多へ行くという人は多いです。
唐津市は、まさに「福岡のベッドタウン」としての側面があるというわけです。
佐賀県でありながら、福岡とも一体化した街・唐津
唐津市は、福岡市中心部からは、車や電車で1時間~1時間半ほどの距離です。
意外と近くて、日帰り旅行にもぴったりな場所なのが嬉しいですね。
すなわち、唐津の人々は、「佐賀県民としての誇り」を持ちつつも、通学・通勤・買い物・遊びなどといったその生活圏は「福岡・博多」にあるという、いわゆるハイブリッドな感覚を持っている方が多いといいます。
唐津市の人口は?佐賀県で何番目?
唐津市の人口は、約12万人(2025年現在)です。
佐賀県の中では、県庁所在地である佐賀市に次いで、2番目に多い市となっています。
つまり、佐賀県第二の都市であるといえるでしょう。
したがって、唐津市は佐賀県の北西部における非常に重要な拠点都市だといえますね!
拠点都市:周辺の他の地域よりも、人やモノ・情報などが集まってきやすい街・中心地のことをいいます。
唐津の名物は?
唐津の名物といえば、なんといっても「唐津焼」と「呼子のイカ」です。
唐津名物:唐津焼
まず唐津焼は、素朴で温かみのある陶器であり、また茶器(つまり、昔の人が上品に「お茶」などを飲むためのコップ)の1つしても知られています。
陶器:質のよい土を原料にして焼かれた、昔の上品・高級な食器などのことです。
お金持ちの人などのコレクションとしても用いられてきました。
粘土をこねて形を作り、窯で焼いて作ります。
また、粘土とは唐津焼の原料となる(粒子が細かくて粘り気のある)土のことです!
したがってこの土の性質が、独特の渋い風合いを生み出すわけです。
質感とは、触れたときの感じや、見た目から伝わる素材の雰囲気のことです。
唐津焼のざらっとした土の質感は、力強さと温かみを感じさせてくれます。
唐津名物:呼子のイカ
そして唐津の魚介類における「呼子のイカ」は、まるで透き通ったかのような活き造りが絶品です。
活き造り:魚介類を、生きたままさばいて盛り付けた料理のことです。
新鮮でおいしいものが多いので、ぜひ味わってほしいですね!
ちなみ活き造りのメリットは、さっきまで泳いでいた魚(イカ)を捌くために、食感がコリコリして、最高の味となるわけです。
鮮度が抜群だからこそ味わえる、贅沢で特別な食べ方だと言えますね。
唐津の魚がおいしい理由
さて、唐津の魚がとてもおいしいのは、まさにその魚が採れる海である玄界灘の「魚が集まってきやすい」という独特の環境が、ものすごく関係しています。
唐津市が面している海である玄界灘には、水の深さが浅くなっている大陸棚が多くなっています。
大陸棚:大陸の縁にある、水の深さが比較的浅い海底のことです。
魚が育ちやすい、玄界灘の大陸棚
この大陸棚の「浅い海」には光があたりやすくなっています。そのため、お魚がたくさん寄ってくるというわけです。
また、海が浅いがゆえに、山や川などから流れ込んできた栄養分も多くなり、魚にとっての栄養も豊富になりやすくなるわけですね。
また、この玄界灘には南からたくさんの温かい海水による暖流が流れてきているため、プランクトンが多く発生します。
暖流:南の暖かい海から流れてやってくる、暖かい海水の流れのことです。
この暖かい海水は、熊本の西や、対馬の南を通り、大きく迂回して玄界灘へと流れ込みます。
つまり、この大陸棚は魚にとってエサが豊富であり、とても過ごしやすい場所であるというわけですね!
したがって、様々な種類の魚が集まってきやすくなり、おいしく育つといわけです。
逆に、北極などから流れてくる、冷たくて栄養がたっぷりの潮の流れのことを、寒流といいます。
暖流や大陸棚がもたらす、お魚へのめぐみ
暖流は、お魚たちを運ぶ「乗り物」!
そしてブリやアジ・サバなどは、暖かい水を好んで旅をする魚たちです。
彼らは、南から流れてくる暖流に乗って、一気に玄界灘まで運ばれてくるわけですよ!
到着した先には「ご馳走」がたっぷり!
そして彼らが流れ着いた先である玄界灘には、先述の通り、「浅い海」で育った多くのプランクトンや、それを食べた小魚たちが山ほどいます。
したがって、南の島からやったきたお魚たちは「暖かいし、食べ物もいっぱいだ!」と、そこに居着いてしまうわけですね!
このような原理で、玄界灘にはたくさんの魚がいる→たっぷりおいしい魚が採れるというわけですね。
唐津市 港町・石炭輸送の歴史
さて、唐津の地は、古く(ガチの大昔)から大陸方面との交易の窓口として栄えてきました。
交易:いわば国と国とのトレードです。
自国にはあるも相手国には無くて貴重(その逆もしかり)というモノ・賞品同士を、お互いに交換し合います。
特に江戸時代には、唐津藩の城下町として発展しました(次回以降で、詳しく解説)。
また、明治時代以降は、石炭の積出港としても重要な役割を果たしていたわけですよ(こちらはあとで詳しく解説)。
唐津港で運ばれた石炭と、唐津線
その昔(だいたい明治時代あたり)、唐津港からは全国各地へ、多くの石炭が運ばれていました。
この全国各地へ運ばれていた大量の石炭は、主に九州にかつて広がっていた筑豊炭田において採掘されたものが多く占めるといえます。
筑豊炭田:その昔、現在の福岡県に広がっていた、日本最大の石炭の産地のことです。
また、唐津から南へと延びる唐津線は、この筑豊炭田と唐津港をそれぞれ結んでおり、掘り出されたこれらの大量の石炭を運んで全国各地へ売るために、とても重要な役割を果たしてきました。
すなわち、唐津線は、石炭の輸送を担う貨物線として、この地域の発展に不可欠な路線だったというわけです。
唐津線については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

この石炭輸送のおかげで、唐津の街にはたくさんの仕事・雇用がもたらされ、港町として得られた利益によって人々は「豊かな暮らし」が送れるようになり、街が栄えてきたというわけですね!(後述)
唐津港からの石炭輸送と雇用
次に、唐津港での石炭輸送が街に与えた影響についてです。
先述の通り、この唐津港からの石炭輸送による仕事は、港町で暮らす人々に対して大きな雇用をもたらしました!
例えば、
- 鉄道で運ばれてきたたくさんの石炭を、船に積み込むための作業
- 港が(雨風や老朽化などで)痛まないように、メンテしたり点検したりする作業
- また、船をメンテしたり、船に燃料(石炭など)を積んだりする作業
など、とにかく多くの労働力が必要だったのです。
当時は何もかも手動でAIもロボットありませんでしたから、全てがほぼ人力であり、そのために多くの人手を必要としたわけです。
石炭がバカ売れすればするだけ、多くの仕事が生まれます。
したがって、港で働く人が増え、港湾関係の仕事がとても盛んになりました。
港湾:船が安全に出入りできるように整備された場所(港)と、その周りの施設のことです。
この時期、多くの活気に満ちた人達のワイワイガヤガヤの声が飛び交い、唐津の街は多くの血気盛んに働く人達の活気に満ちていたに違いありません!
働く人の増加と街の発展
このように、港で働く人が増えると、街には様々な良い影響がありました。
こうした働く人々が食事をしたり、生活に必要なものを買ったりするようになるため、必然的に飲食店や商店などが増えてゆきます。
すなわち、たくさんのお金(経済)が街の中で回るようになるため、経済が活発になるわけですね。
その結果、街の税収も増え、道路や学校などの整備が進み、街全体が豊かに発展していったわけです。
街がにぎわうのは、本当に素晴らしいことですね!
唐津線と唐津港のつながり
そして、唐津線と唐津港は、しっかりと(レールなどで)つながっていました。
それは、石炭を大量かつ効率良く(鉄道と船とで)運ぶことが最大の目的だったからです。
そして、その線路のレールは港の岸壁に至るで、直接引き込まれていたのでした。
岸壁:船を「横付け」しておき、人や荷物を積み下ろしするための設備がある場所のことです。
すなわち、運ばれてきた大量の石炭は、貨物列車から船へと、スムーズに積み替えられるようになっていた、というわけです。
したがって、この仕組みのおかげで、石炭の積み替え作業は、非常にスムーズに行えるようになったいたのでした。
こうしてみると、当時の技術者たちの知恵と、「いかにムダなく石炭を効率的に運べるか」という、並々ならぬ努力が伺い知れます。
筑肥線と石炭輸送の関係
また、唐津の東へと延びる筑肥線も、唐津港の貨物設備とへと接続していました。
それは筑肥線も先述の唐津線と同様に、かつて唐津周辺に点在していた小さな炭鉱や、またその他の貨物・モノなどを運ぶという、とても大きな役割も担っていたからです。
筑肥線:福岡市と唐津市をむすぶ鉄道の路線です。
筑肥線については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

筑肥線によるスムーズな積み替え
そして筑肥線もまた、唐津線と同じように唐津港の貨物線とレールで接続していたため、(鉄道→船への)石炭などの積み替え作業は、とてもスムーズに行うことができるようになっていたのでした。
すなわち、このスムーズな接続により、唐津の街から出たたくさんの貨物・荷物なども、列車から船へと(さらには全国各地へと)、効率良く運ぶことがでしていた、というわけです。
このように、唐津港は決して唐津線だけでなく、筑肥線の貨物も同じように受け入れることができるといった、まさに総合的で利便性のよい港湾として機能していたのでした。
すなわち、こうした複数の鉄道路線がつながっていることで、街の物流はとても盤石だったわけですね!
石炭の採掘・輸送が重要だった理由
そして、当時の明治時代の日本は、「西洋に追い付け追い越せ!」と言わんばかりに、いかに国を豊かに発展させていくための産業を、国をあげて急速に伸ばしていました。
産業:その国や地域に住んでいる人々が生活・食べていく・利益を上げるために、ものを作ったりサービスを提供したりする活動のことです。
そして、当時どんどん増えていった工場や鉄道を動かすためには、まず大量の動力源が必要でした。
この動力源といえば、確かに今では石油などがメインですが、当時はまだ石油は一般的ではなかったため、その動力源の主役は石炭だったというわけです。
したがって、石炭を炭鉱で掘り、鉄道や船で全国へ運ぶということは、日本の近代化・発展を進めるための、まさに生命線だったのでした。
この流れがなければ、今の日本の発展はありえなかったといっても過言ではありませんね!
すなわち、唐津の町や港、そしてそれらを取り巻く鉄道の数々は、日本の発展に多く貢献してきたというわけです。
今回はここまで 続きは次回
おわりに:ここまで、唐津の地理や歴史を一緒に学んでみましたが、いかがだったでしょうか。
唐津が、玄界灘に面した重要な港町であったこと、そして石炭輸送で栄えた歴史が分かったかと思います。
したがって、唐津の文化や景観が、歴史に深く根ざしていることが実感できたのではないでしょうか。
今回は長くなったため、続きは次回となります。
次回は、唐津藩の歴史について解説します!
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