鉄道唱歌 北陸編の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
明治11年の御幸などについて、わかりやすく解説してゆきます!
↓まずは原文から!
かたじけなくも御車を
とゞめ給ひし松かげは
今この里にさかえたり
さらに読みやすく!
かたじけなくも 御車を
とどめ給いし 松かげは
今この里に さかえたり
さあ、歌ってみよう!
♪かたじけなくもー みくるまをー
♪とーどめたまいし まつかげはー
♪いまこのさとにー さかえたりー
長岡駅→三条駅→東三条駅→加茂駅→矢代田駅→新津駅→亀田駅→越後石山駅→新潟駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅と、その他主要と思われる駅を筆者の独断と偏見でピックアップしたもの
明治11年に、天皇が北陸地方を行幸
「明治11年の行幸」とは、明治11年1878年に明治天皇が、北陸地方を行幸された時の事をいいます。
「行幸」とは?
ここで行幸(ぎょうこう/みゆき)とは、天皇陛下が外出または出張なさることをいいます。
現代でも、天皇陛下はじめ皇族の方々が被災地などをはじめ、全国各地をご訪問されたりしますよね。
東京駅の「御幸通り」
東京駅でも、皇居から東京駅の正面玄関に向けて「御幸通り」という豪華な道路があります。
ちなみに天皇陛下が全国各地へ行幸される際には、
- この「御幸通り」を通られて、東京駅の正面玄関から入り、
- 「お召し列車」に乗られて、各地を回られる
というわけです。
「明治11年の行幸」の目的
なお、明治11年の行幸の目的は、天皇の権威を全国各地にアピールする、という目的があったとされています。
当時は天皇陛下の権限が絶大であり、1889年の「大日本帝国憲法」の下では、「天皇は神聖不可侵」とされていました。
そのため、天皇の権威をアピールして、国をまとめることが重要だったわけです。
行幸のルート 難所の「親不知」を通過
明治11年に天皇が行幸されたときのルートについてです。
- まずは東京を出発して、
- 群馬県から新潟県に入り、
- 今回解説する、前回も解説した加茂市かもしあたりを訪問され、
- 後述する「親不知」という難所を通り、
- 北陸地方を西へ進み、
- やがて、西日本まで赴かれた
ということです。
明治11年の行幸の当時は、北陸地方にはまだ鉄道が通ってなかった
この時期は、まだ西南戦争が1877年が終わったばかりでした。
また、新橋~横浜で鉄道が開通してまだ6年、首都圏や関西都市部などで、ようやく鉄道が走りはじめた段階という時代でした。
そのため北陸地方には、まだ鉄道は開通していませんでした。
そのため、天皇陛下は神輿のようなものに担がれての移動となりました。
明治11年の行幸の後に通られた「親知らず」
先述した通り、天皇が「明治11年の行幸」の際に北陸地方の旅をなされた際に、「親知らず」という難所があり、かなり苦労されたようです。
「親知らず」とは、富山県と新潟県の間にある、日本海側にある断崖絶壁です。
えちごトキめき鉄道「日本海ひすいライン」の、
- 「親不知駅(新潟県糸魚川市)」
がこれに該当します。
親が子供を思わず突き落としてしまうくらい、余裕がなく狭いスペースであるため、「親不知」と呼ばれるわけです。
人が一人通れるスペースが辛うじてあるだけで、すぐ横には波が迫ってきています。
そのため歴史上、何人か波にのまれて、犠牲になったそうです。
参勤交代などの際に、大名などお偉い方が親知らずを通るときは、
- 護衛の人達が、大勢でバリアーや壁のような役割を果たし、
- 大名が波で濡れないようにした
そうです。
天皇陛下が明治11年に通られた時は、安全のため山側のルートを新しく造って通られたといいます。
現代では立派な道路やトンネルができているため、断崖絶壁を通る必要はありません。
加茂市の「青海神社」
そして前回解説した新潟県加茂市の青海神社の境内には、松の木がたくさん植えられています。
歌詞によれば、この松の木々は、明治天皇のやってこられた御車(つまり、先ほど述べた神輿のような車)を、かたじけない思いで見守っていたのでしょう。
「かたじけなくも」とは、「畏れ多くも」という意味です。
つまり、とても偉い人を前にかしこまる、みたいな意味でしょう。
つまり神社の松陰で、天皇陛下を恐れ多くも見守っいた松陰は、この里現代の加茂市ということになります。

加茂駅(新潟県加茂市)
加茂市を訪問されたときは、このような昔のことを偲びながら旅行するのも、旅の一つの趣といってもいいのではないでしょうか。
次回は、新津へ
列車は、やがて新津に到着します。
新潟へは、あともう少しです!
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