鉄道唱歌 北陸編の歌詞について、わかりやすく解説してゆきます!
倶利伽羅峠の観光・歴史などについて、初心者でも楽しめるよう解説してゆきます!
↓まずは原文から!
倶梨伽羅山は義仲が
五百の牛に火をつけて
平家せめたる古戰塲
さらに読みやすく!
倶利伽羅山は 義仲が
五百の牛に 火をつけて
平家せめたる 古戦場
さあ、歌ってみよう!
♪くりからやまはー よしなかがー
♪ごひゃくのうしに ひをつけてー
♪へいけせめたるー こせんじょう
富山駅→高岡駅→福岡駅→石動駅→倶利伽羅駅
(IRいしかわ鉄道線)
倶利伽羅駅→津幡駅→金沢駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
富山県と石川県の境に位置する、倶利伽羅山

倶利伽羅峠を越える(あいの風とやま鉄道線の車窓より)(富山県・石川県)
まずは「倶利伽羅」などの用語に関する基礎知識から
倶利伽羅山、別名・砺波山は、富山県と石川県の間にある山です。
倶利伽羅は、サンスクリット語に由来します。
サンスクリット語とは、古代インドの言葉です。
古代インドは、仏教を開かれたお釈迦様(ゴータマ・シッダールタさん)のお生まれになった国になります。
「加賀」とは、現代の石川県(金沢市のある県)のことをいいます。
「越中」とは、現代の富山県のことをいいます。
補足しておくと、「越前」は福井県、「越後」は新潟県になります。

IRいしかわ鉄道線・倶利伽羅駅(石川県河北郡津幡町)
旭将軍・義仲が、500の牛に火をつけて平氏と戦った「倶利伽羅山の戦い」
倶利伽羅山は、かつて源平合戦の時に源義仲が
という、
- 「倶利伽羅山の戦い」
で知られます。
この戦いまたは、この戦いにおいて義仲が取った先述の戦法のことを、
- 「火牛の計」
といいます。
「倶利伽羅山の戦い」は、どうやって起きた?義仲の生涯
「朝日将軍」の異名を持つ義仲
源義仲は、長野県の木曽地域の宮ノ越という場所で育ったので、「木曽義仲」とも呼ばれます。
また、義仲は倶利伽羅以降の快進撃の末に念願の京都に入ったとき、
ため、
- 「朝日将軍」
- 「旭将軍」
の異名も持ちます。
埼玉の秩父で生まれ、木曽の「宮ノ越」で育った義仲
義仲は、埼玉県の秩父あたりの生まれです。
しかし、幼少期を木曽地域で育っています。
義仲が育った場所は、長野県の木曽地域の、「宮ノ越」という場所になります。
中央西線の
- 宮ノ越駅(長野県木曽郡木曽町日義)
が最寄駅です。
ここで、「日義」という地名は、
- 「朝日(将軍)」
- 「義仲」
からきているものと思われます。
義仲の出身地・宮ノ越については、以下の記事でも解説してますので、ご覧ください。

源平合戦で、以仁王の呼びかけにより、全国の源氏が挙兵
時代は平安時代終わりの1180年、伊豆へと流されていた源頼朝も復活し、
- 以仁王
と呼ばれるお偉い方が、全国の(平氏に不満を持つ)源氏へと声をかけのでした。
そして、源頼朝や義仲らが、これに応じて平氏に戦いを挑むことになったのでした。
木曽の宮ノ越で旗揚げした、義仲
義仲は、宮ノ越の、
- 南宮神社
と呼ばれる神社において、戦に向けて、いざ出発(出陣)することになります。
当時は
といって、平氏の全盛期で驕り高ぶっており、それに対して不平不満を持つ人たちが全国にたくさんいました。
義仲は、そんな驕り高ぶっていた平氏に対して、木曽・宮ノ越にて旗揚げしたのでした。
みたいなイメージですね。
ここで、いとこの源頼朝は神奈川県の西にある真鶴という場所の近くで、戦って破れてしまっています(石橋山の戦い)。
福井県の火打城(燧城)で敗退した義仲
義仲も、福井県南部の燧城というところで敗退してしまいます。
そして、義仲は北陸地方(富山県あたりまで)へ大きく逃げることになります。
倶利伽羅山「火牛の計」平氏を撃退し、一気に京都へ

倶利伽羅駅にある、「火牛の計」のオブジェ(石川県河北郡津幡町)
ここから義仲は、追ってくる平氏を撃退して、快進撃を見せることになります。
義仲は倶利伽羅峠において、なんと
のでした。
これは、
- たくさんの松明を牛につけることによって、
- 敵(平氏)にとっては、まるで大勢の軍がいるかのように見せかける
ことができます。
これに驚いた平氏軍は、混乱状態に陥ったといいます。
これを「火牛の計」といいます。
これは津幡町の名物になっています。
その他、源平合戦の有名な奇襲攻撃やエピソードなど
ちなみに、
のは、静岡県富士市における
- 富士川の戦い
になります。
また、源頼朝の弟である源義経が
のは、神戸市須磨区における
- 一ノ谷の戦い
になります。
倶利伽羅山で、多くの平氏が最期を迎えた「地獄谷」
倶利伽羅峠の戦いで敗れた平氏は、恐怖に怯えて、次々と谷へと飛び降りてゆきました。
崖の下には、たくさんの平氏軍の遺体が山のように積み上がったため、「地獄谷」と名付けられたといいます。
人間は逃げ場を無くすと、高い崖でも低く見えてしまい、「助かる」と錯覚して、飛び降りてしまうそうです。
義仲の軍が、手と手を取り合って 渡った 「手取川」
また、京都方面へ敗走する平氏軍たちは、石川県の
- 手取川
にさしかかりました。

手取川(石川県)
ここで、平氏軍を追う義仲軍の皆さんは
ことから、手取川という風にいいます。
ちなみに手取川は、
なので、「石川県」の名前の由来にもなっています。
まるで朝日のように京都に入り、「旭将軍」の異名がついた義仲
このようにして、京都を目指す源義仲の快進撃は続いていくことになります。
やがて義仲は、念願の京都に入っていくことになります。
彼が京都に入った時、まるで東の方から朝日のように登場してきたので、義仲には
- 「旭将軍」
- 「朝日将軍」
などの異名がつきました。
延岡市・旭化成も、義仲にちなんだ名前
ちなみに、宮崎県延岡市にある会社である「旭化成」の名前も、「旭将軍(義仲)」が由来であるとされています。
旭化成の前身である会社が、後述する義仲が滅んだ滋賀県大津市における、
- 粟津(琵琶湖近くの地名)にすぐ近い、膳所
に存在したことが由来となっています。
社名の由来になるほどですから、義仲を尊敬される人々は多いことがわかります。
念願の京都へ入るも、トラブル続きで堕落・衰退へ
ここ(京都入り)まで義仲の快進撃が続くと、まるで全てが何もかもうまくいったようにも思えました。
京都(=当時の日本の首都)には天皇がいますので、世の中の後継者を「天皇のお墨付き」で任命してもらえれば、平氏ではなく源氏の天下にできるという可能性が、グッとあがります。
しかし、この個人的な欲望が、後に義仲の運命を、ドン底に突き落とすことになります。
トラブル続きで、京都で嫌われる義仲
しかし、京都における義仲の行い・振る舞いは決して良いものとはいえませんでした。
- 天皇の後継者を誰にするかで揉めたり(※1)、
- 後白河法皇と対立して、お寺に閉じ込めたり(幽閉)(※2)
など、かなりの奇行が目立つようになりました。
※1 つまり、皇位継承問題。ここで次の天皇を、義仲にとって都合のいい人物を推薦したのでした。
しかしこれでは、まるで平氏の失敗の二の舞になってしまうため、多くの人から疎まれたのでした。
※2 なお、「法皇」とは出家した後の天皇のことをいいます。
「出家」とは、仏教の修行に出たり、お坊さんになることをいいます。
さらには、
- 義仲の率いる軍隊が、大量に京都に押しかけたため、
- 元々食糧難だった京都の食糧不足は、さらに悪化した
ため、治安も悪化することになりました。
また義仲は、いわゆる「田舎育ち」であり都で要求される「上品な作法」には疎かったのでした。
そのため、義仲は公家たちから「田舎者」などと笑われてしまったのでした。
ついに京都を追放された義仲
こうした義仲のわがままぶりと、今でいう「コミュ障」ぶりにより、京都で様々な問題やトラブルを引き起こし、後白河法皇をはじめ、多くの人々から嫌われました。
やがて義仲は、京都で次々に人望を失い、信頼を無くし、嫌われて追い出されることになりました。
義仲の堕落ぶりをチャンスと捉え、兵を送った頼朝
そして、この義仲の堕落ぶりをチャンスと見た源頼朝は、義仲を倒すために京都に対して兵を送りました。
なぜ同じ源氏同士で戦うのかというと、当時は
- 身内同士で手柄を争ったり、
- 同じ兄弟でも、片方が冷遇されたりすると、敵対視する
ことはよくありました。
いとこの義仲は、頼朝に討たれてしまうわけわけです。
しかし、弟の義経も後に政治的意見が対立して、岩手県の平泉で頼朝によって討たれています。
「宇治川の戦い」で敗北した義仲
この時起きた「宇治川の戦い」では、弱体化した義仲軍と、頼朝からの使者である佐々木四郎をはじめとする軍隊が宇治川でぶつかりました。
京都側が義仲で、琵琶湖側が佐々木軍です。
また、佐々木軍の中でも
と味方同士で争っていたので、佐々木四郎がわれ先にと攻めに出る
- 「佐々木四郎の先陣」
で知られます。
既に味方の裏切りや離反などで数を減らし、大幅に弱体化していた義仲の軍はボロ負け、宇治川を突破されました。
そして命からがら京都から逃げた義仲は、(かつて倶利伽羅で大勝もしたこともある)北陸地方への脱出を試みました。
最期は滋賀県・大津の粟津で散った義仲
北陸地方へ逃れるため滋賀県大津市の(琵琶湖の近くの)粟津まで逃げてきました。
ここで追っ手に捕まってしまいます。
「もはやここまで」ということで、義仲は自害を決意します。
そして、愛人かつ良き仲間の女性であった
- 巴御前
とはここで別れてしまい、巴御前はここで歴史上から姿を消しました(その後どうなったのかは不明)。
また、義仲は自害を決意しましたが、
- 粟津の深田(深い田んぼのこと)
に足をとられ、もがいているところを無名の兵士に撃たれて死亡してしまいました。
鉄道唱歌 東海道編 第41番でも、
朝日将軍義仲の 滅びし深田はいづかたぞ」
と歌われていますね。
こうして、義仲は、
- 木曽で育ち、
- 倶利伽羅山で怒濤の攻撃し、
- 破竹の勢いで京都に入ったものの、
- 人間関係がうまくいかなかったせいか、嫌われて京都を追い出され、
- 粟津にて無念の最期を遂げた
という、波乱の生涯を終えたのでした。
今や義仲は、津幡町のヒーローにも
石川県・津幡町では、
- 義仲
- 巴御前
をテーマにした倶利伽羅山における「火牛の計」を、NHK大河ドラマとして誘致するための取り組みを行っています。
大河ドラマの舞台となれば、そこが観光名所となり、たくさんの人々の来訪があるという効果が期待できるわけです。
長野県歌「信濃の国」の第5番で、第一に登場する義仲
旭将軍義仲は、長野県歌「信濃の国」の第5番で、長野県の英雄として、真っ先に登場します。
「信濃の国」第5番では、長野県出身の歴史上の偉人たちが次々に紹介されます。
その中でも義仲はトップに来るのだから、それだけ義仲が歴史上重要人物であることが伺い知れます。

IRいしかわ鉄道線・倶利伽羅駅(石川県河北郡津幡町)
旭将軍・義仲は、私(筆者)も尊敬する人物
しかしながら、私(筆者)は恥ずかしながら、鉄道唱歌を知るまで、源義仲のことをまるで知りませんでした(^^;)
歴史が得意だったにもかかわらず、義仲を全く知らなかったポンコツぶり
私は受験生~センター試験受験の頃は、模試とセンター試験で、日本史を安定して8割~9割取れるほどの実力でした。
当時は教科書の年表を、縄文時代から全部暗記できており、暗記科目は大好きでした)
しかし、日本史の教科書に、義仲は一度も出てこなかったために知りませんでした。(^^;)
逆にいえば、鉄道唱歌をきっかけに義仲を知れて本当によかったと思います。
もちろん義仲だけでなく、私が鉄道唱歌をきっかけに知った歴史上人物や観光地、名所旧跡は数知れません。
私(筆者)と義仲の性格は、よく似ている
そしてこのサイトではいつも言っていることですが、私(筆者)と義仲の性格は、よく似ていると思っています。
私も、学校や会社では勉強できたり知識が多いなど、能力やスキルそのものは高かったのでした。
しかし、人間関係がまるっきりうまくいかず、持ち前のコミュ障ぶりを職場で発揮しまくって、嫌われて干されるなどの経験をしてきました。
なので、義仲にはかなり親近感を抱くのです。
次回は、津幡駅から乗り換えて、能登・七尾方面へ
次は、津幡駅から七尾線に乗って、七尾方面へ向かいます!
コメント