鉄道唱歌 北陸編 第68番 敦賀を出発し、琵琶湖方面へ 賎ヶ岳と余呉湖

まずは原文から!

疋田(ひきだ)柳瀬(やながせ)中の郷(なかのごう)
すぎゆく窓に仰(あお)ぎ見る
山は近江(おうみ)の賤が嶽(しずがだけ)
七本鎗(しちほんやり)の名も高し

さらに読みやすく!

疋田(ひきだ)柳瀬(やながせ)中の郷(なかのごう)
すぎゆく窓に仰(あお)ぎ見る
山は近江(おうみ)の賤が嶽(しずがだけ)
七本鎗(しちほんやり)の名も高し

さあ、歌ってみよう!

♪ひーきだやながせ なかのごうー
♪すぎゆくまどにー あおぎみるー
♪やーまはおうみの しずがだけー
♪しちほんやりのー なもたかしー

(北陸本線)
金沢駅→松任駅→美川駅→小松駅→動橋駅→大聖寺駅→細呂木駅→芦原温泉駅(旧・金津駅)→福井駅→大土呂駅→鯖江駅→武生駅→南条駅(旧・鯖波駅)→今庄駅→(北陸トンネル)→敦賀駅→新疋田駅→近江塩津駅→余呉駅→木ノ本駅→長浜駅→米原駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※北陸トンネル・新疋田駅・近江塩津駅・余呉駅は、鉄道唱歌の当時とはルートが異なります

敦賀駅を南下し、琵琶湖方面へ

敦賀駅(つるがえき)を出て北陸本線を南側(琵琶湖方面)へ進むと、山岳地帯のきつい坂道を登ってゆくため、大きなループを描く線路にかかります。

これは、下るときはそのまま真っ直ぐな線路を下って降りればいいのですが、問題は上りの時です。
登る時は大きなループ線を描いて距離を稼ぐように進まないと、列車が登らないためです。

鉄道は坂道に弱く、昔はこのように上りと下りで線路が違う(上りはループ状や大回りになっている)ケースがありました。
これは、列車を引っ張るための補助機関車をいちいち付け替えしていると、それに時間を取られてしまうため、特に戦時中はボトルネックなっていたからでしょう。
岐阜県の垂井駅~関ヶ原駅間にある新垂井線(しんたるいせん)も、この1つです。

かつて存在した旧線「柳ヶ瀬線」

そして、新疋田駅(しんひきだえき)を過ぎると、大きくまっすぐなトンネルを進み、滋賀県に入って琵琶湖方面へ出てきます。

昔は疋田(ひきだ)からはトンネルではなく、険しい山岳地帯を避けるために東へ迂回し、大きな柳ヶ瀬(やながせせん)という勾配のきつい道を選択していました。

現在では新線(しんせん)として、全長5,000メートルほどの大きなトンネルが掘られています。

ではなぜこのような新線という新しい線路できたのかというと、それは特急列車や貨物列車などの運送上のボトルネックにあるからです。

特に、関西から北陸地方へは特急「サンダーバード」、名古屋から北陸地方へは特急「しらさぎ」が出ていますから、速達のために少しでもまっすぐなルートを確保する必要が出てきます。

新しく長くまっすぐなトンネルが出来れば、それに伴って特急列車の所要時間も短くなる効果が期待できます。

近江塩津駅に到着 ここからは長浜・米原方面へ

そしてこの長いトンネルを出て、滋賀県に出てきます。
そして近江塩津駅(おうみしおづえき、滋賀県長浜市)に到着です。

ここからは湖西線(こせいせん)と北陸本線に分岐していますが、鉄道唱歌の旅では言うまでもなく北陸本線の米原方面へ向かっていきます。

余呉駅に到着 余呉湖と賤ヶ岳

やがて、余呉駅(よごえき、滋賀県長浜市余呉町)に着きます。

ここからは余呉湖(よごこ)と賤ヶ岳(しずがだけ)という山が見えます。
余呉湖(よごこ)は、羽衣伝説(はごろもでんせつ)で有名です。

余呉湖(滋賀県長浜市)

柴田勝家と豊臣秀吉による「賤ヶ岳の戦い」

余呉湖と賤ヶ岳(滋賀県長浜市)

賤ヶ岳の戦い(しずがだけのたたかい)」とは、豊臣秀吉たちが柴田勝家 (しばた かついえ)と戦った戦いです。

「賤ヶ岳の戦い」は、「本能寺の変」で織田信長が討たれた後、その信長の残した財産や領土などの配分を決めるために、愛知県の清洲城(きよすじょう)で行われた清洲会議(きよすかいぎ)の後に行われました。

清州会議は豊臣秀吉に有利な結果となり、柴田勝家にとっては不遇な結果となったため、豊臣秀吉と柴田勝家の戦いは避けられないものとなりました。
柴田勝家は織田信長に誠心誠意尽くしてきたため、「そりゃないだろ」という話なわけです。

豊臣秀吉は当時琵琶湖のあたりに布陣(ふじん)を構えていました。
柴田勝家の本拠地である越前(えちぜん)、つまり福井を攻め落とすためです。
このとき、織田側(=柴田側)が岐阜県の大垣あたりで反乱を起こしたため、秀吉は関ヶ原を越えて鎮圧に向かいました。
しかしこの秀吉が留守だったのをいいことに、柴田勝家の軍は福井から琵琶湖のあたりまで一気に攻め入りました。

これを知った豊臣秀吉は、大垣から5kmほどの道を約5時間で走って帰ってきたと言われています。
これを「美濃大返し(みのおおがえし)」といいます。

ここに「賤ヶ岳の戦い」が勃発し、豊臣秀吉は「木之本(きのもと)」という場所に陣地を構えます。
木之本(きのもと)は、琵琶湖の北東にある町で、かつては北陸街道(ほくりくかいどう)の宿場町とした栄えた町です。

七人の英雄「賤ヶ岳の七本槍」

ここに、秀吉に協力する7人の武将が立ち上がります。
賤ヶ岳の七本槍(しちほんやり)」です。

賤ヶ岳の七本槍(しちほんやり)」とは、賤ヶ岳の戦いで最も戦功をあげた、豊臣秀吉に貢献した武将たちのことであり、あの熊本の加藤清正(かとう きよまさ)も含まれています。
まるで7人の武将が7本の槍を天に突き立てたようなイラストにも見えることから、「賤ヶ岳の七本槍」と言われるわけです。

彼らの善戦により、柴田勝家は敗北。

妻である「お市の方」とともに、泣く泣く福井の北ノ庄城(現在の福井城)に敗退します。

やがて北ノ庄城は豊臣秀吉の軍隊に囲まれ、次々に攻撃を受けて燃え上がり、もはや柴田勝家とお市の方の最期は決定的なものとなりました。

そして夫婦は、「淀殿(よどどの。後の秀吉の妻)」をはじめとする3人の娘を城から逃がそうとします。

娘 「いやだ!母上と別れたくない!

お市の方 「いいえ。あなたたちは何がなんでも生き残りなさい。私は勝家様と運命をともにします。」

そして柴田勝家とお市の方は、燃え上がる北ノ庄城の中で、夫婦ともに自害しました。

こうして「賤ヶ岳の戦い」で勝利した豊臣秀吉は、1590年の「小田原攻め」で、神奈川県小田原市にある小田原城を得意の籠城(ろうじょう)攻めで攻略します。
これによって後北条氏は降伏し、ここに豊臣秀吉の天下統一が達成されるのです。

では、余呉駅を出ると、次は木ノ本駅(きのもとえき)に止まります!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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