まずは原文から!
柞の森(ははそのもり)と歌によむ
祝園(ほうその)すぎて新木津(しんきづ)の
左は京都(きょうと)右は奈良(なら)
奈良は歸(かえ)りに殘(のこ)さまし
さらに読みやすく!
柞の森(ははそのもり)と歌によむ
祝園(ほうその)すぎて新木津(しんきづ)の
左は京都(きょうと)右は奈良(なら)
奈良は帰りに残(のこ)さまし
さあ、歌ってみよう!
♪ははそのもーりと うたによむー
♪ほうそのすぎてー しんきづのー
♪ひだりはきょうと みぎはならー
♪ならはかえりにー のそさましー
(JR東西線)
大阪城北詰駅(網島町)→京橋駅
(片町線(学研都市線))
京橋駅→放出駅→徳庵駅→住道駅→四條畷駅→星田駅→津田駅→祝園駅→木津駅
※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ表記
※網島駅、旧桜ノ宮駅は1913年に廃止
※現在の駅で最も近いものに置き換えてあります
※正式名称は「鉄道唱歌 関西・参宮・南海編」です。記事タイトルの便宜上、このようなタイトル(関西編)とさせていただいております。ご了承ください。
松井山手駅(まついやまてえき、京都府京田辺市)を過ぎ、京田辺駅(きょうたなべえき、京都府京田辺市)、同志社前駅(どうししゃまええき、京都府京田辺市)を過ぎると、やがて祝園駅(ほうそのえき、京都府相楽郡精華町)に着きます。
「柞の森(ははそのもり)」とは、祝園駅(ほうそのえき)のやや北東にある、祝園神社(ほうそのじんじゃ)に由来します。
祝園神社の周辺は森のように木々に囲まれているように見えるため、「柞の森」と呼ばれるのだと考えられます。
柞(ははそ)とは、コナラ(木楢)という植物の一種です。
この「柞の森」が、古くから色々な歌に詠まれてきたために、歌詞では「柞の森と歌に詠む」となっているわけです。
祝園駅(ほうそのえき)は、京都府の精華町(せいかちょう)の駅になります。
この地域はいわゆる「けいはんな学研都市」と呼ばれ、主に学術とその研究員、学生やその家族の人々を中心に栄えてゆく都市となります。
「けいはんな」とは、恐らく以下のような由来になると思われます。
けい→京(京都)
はん→阪(大阪)
な→奈(奈良)
このような学研都市が置かれる理由についてですが、まず前述の通り様々な学問を研究することにより、その(街と学問の)発展が期待できます。
次に、その都市で暮らす教員・研究員・学生の皆さんがたくさん増えると、人口が増えて税収も増えますし、またこうした人々をもてなすための商業施設や住宅なども増えるので、さらなる税収アップにもつながり街の発展が期待できます。
さらには、もし彼らの努力によりノーベル賞受賞のような研究成果が出れば、街の知名度がさらに上がるため、一石三鳥です。このようにして、学園都市は発展してくことになります。
やがて、奈良線との交差駅である木津駅(きづえき、京都府木津川市)に到着します。
木津駅は、十字の交差点のようになっています。
上:宇治(うじ)・京都方面
右:加茂(かも)・亀山(かめやま)・名古屋方面
左:大阪方面(これまで来た道)
下:奈良方面
歌詞に沿って言及すれば、これまで大阪側から来たため、左(北)は京都で、右(南)は奈良というわけです。
奈良は、(鉄道唱歌の旅程では)伊勢神宮の参拝のため三重県を巡ってから、帰りに再び寄ることになります。
歌詞には「奈良は帰りに残さまし」とあり、それは「奈良めぐり」として、付録的に全8番の歌詞を充てて歌われることになります。こちらは後ほど解説します。
なお、歌詞にある新木津駅(しんきづえき)とは、現代の木津駅とは異なります。
新木津駅は、鉄道唱歌の時代(西暦1900年)に存在した、木津駅から北西約600mの位置にあった駅です。
新木津駅は現代では廃駅であり、存在しません。
元々(明治時代には)、現代の奈良線(ならせん)にあたる奈良鉄道(ならてつどう)という明治時代の私鉄会社が、京都~木津間を開業させていました。
その後、当時の私鉄・関西鉄道、つまり現代の片町線(学研都市線)が、西(大阪)から東へ木津駅付近まで延びてきました。
つまり、明治時代には先に奈良線(現在)の木津駅が開通しており、その北西約600m先に片町線(現在)の新木津駅が出来たイメージです。
(明治時代の1898年、鉄道唱歌の2年前のことです)
当初この駅間は、徒歩で移動していたようでした。
しかし、新木津駅が出来た約3ヶ月後に、新木津駅と木津駅が直接線路で結ばれ、便利になりました。
このため、新木津駅は存在意義が薄れてしまい、明治時代の終わり(1907年)に廃止になったというわけです。
また、新木津駅が存在していた当時は、現在の加茂駅(かもえき、京都府木津川市)と奈良駅との間をショートカットで結ぶ路線が存在していました。これを「大仏線(だいぶつせん)」といい、大仏駅(だいぶつえき)という駅が存在していました。大仏駅は奈良駅のやや北東の佐保村(さほむら)と呼ばれた地域に存在していました。
その名前の通り、奈良の大仏の観光を容易にするために設置された駅だと思われます。
また当時、奈良市の佐保村(さほむら)と呼ばれた地域については、鉄道唱歌 関西・参宮・南海編 「奈良めぐり」の第7番でも登場しますので、改めて解説します。
この時代(19世紀後半~20世紀前半)は、まだ自動車が一般的でなかったので、人々の移動手段として鉄道を作れば儲かるという時代でした。
なので、地元の金持ちや民間の会社が金を出し合って、鉄道を造っていくという形が一般的でした。
国に鉄道建設の許可を申請して、認可が下りれば鉄道建設という流れです。
それが日露戦争後の1906年、国の軍事輸送力強化のために国有化されました。
それが国鉄時代を経て、やがて現代のJR線という形に至っています。
また、かつて(大昔)は大和街道(やまとかいどう)といって、昔の人々は生駒山を大きく北へ迂回するルートを通っていました。
この大和街道は、またの名前を古堤街道(ふるつつみかいどう)とも呼ばれます。
恐らく、昔の人々は徒歩または馬ではるばると移動していたのでしょう。途中、旅人たちは野崎(のざき)という地域の慈眼寺(じげんじ)というお寺に参拝をなされて行ったものと思われます。
それが鉄道がひらかれてから、大阪から奈良へのアクセスが一気に向上し、「奈良の大仏」などの観光も容易になったのでした。
なお、野崎は現代の野崎駅(のざきえき、大阪府大東市)が最寄駅で、四条畷駅(しじょうなわてえき、大阪府四條畷市)の隣にあります。
また、もし北陸新幹線が敦賀→小浜→京都→松井山手→新大阪のルートで開通したら、松井山手駅から新大阪駅までの移動距離と時間がすごい速いことになりそうですね。
開業予定は2046年とも言われており、まだまだ先の未来のこととなりそうです。
次は、奈良線に乗り換え、京都方面へ少し寄り道となります!
注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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