岐阜県の多治見駅・美濃太田駅をそれぞれ結ぶ「太多線(たいたせん)」について、その観光と歴史を、わかりやすく解説してゆきます!
太多線と姫駅の物語
歴史と鉄道が運ぶ「陶器」の風

太多線・姫駅(岐阜県多治見市)
岐阜県のやや南の平野を走る太多線と、その途中にある、姫駅(岐阜県多治見市)。
ここは一見、静かなローカル線に見えますが、実は日本の近代化や美しい名前の由来など、ワクワクするような物語が詰まっているわけですよ!
「美濃太田」と「多治見」を結ぶので「太多線(たいたせん)」
太多線は、
- 美濃太田駅(岐阜県美濃加茂市)→終点
- 多治見駅(岐阜県多治見市)→起点
の区間をそれぞれ結ぶ路線です。
「太」「多」の文字をそれぞれ取って、「太多線」です。
「おおたせん」ではありませんので注意しましょう。
マヌケな筆者の「誤読」シリーズ!
- 太多線→おおたせん(正:たいたせん)岐阜県
- 小千谷→こせんだに(正:おぢや)新潟県
- 白木原→はっきばら(正:しらきばる)福岡県
- 主計町→しゅけいちょう(正:かずえまち)石川県
他にもまだまだあるよ!
起点・多治見駅(岐阜県多治見市)
多治見とは、太多線の起点となる、陶器の名産地として名高い街です。
夏はとても暑いことで有名ですが、歴史ある窯元巡りも最高に楽しいですよ!
多治見市については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

終点・美濃太田駅(岐阜県美濃加茂市)
美濃太田駅は、太多線の終着駅となる駅です。
現在の市名は美濃加茂市ですが、合併前の駅名・町名(太田町)がそのまま残されて、美濃太田駅となっています。
高山本線ともつながっており、岐阜方面・高山方面とも分かれています。
高山本線およびその沿線(下呂温泉など)については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

なぜ「多太」ではなく「太多」なのか?
ちなみに勘のいい方は、起点は「多治見」の方なのに、なぜ「太多線」なのかについては、少し「謎」に思うかもしれません。
それは、「たたいせん(多太線)」よりも「たいたせん(太多線)」と言った方が、リズムが良くて呼びやすいから、こうなったというわけですね。
まあ確かに、「たたいせん」だと、なんだか言いにくくて舌が回らず、かんでしまいそうですよね(^^;
太多線は「陶器」を運ぶための主要ルートだった
この路線の歴史を語る上で欠かせないのが、岐阜県が世界に誇る「美濃焼」の存在です。
美濃焼:岐阜県東部において作られる陶器です。
いわば「昔のプロの手作りによる、高級かつオシャレな食器」です。
私たちの食卓を彩る、日本の器の代表格と言えますね!
土岐川沿いの陶器を各地に運ぶために作られた
太多線は、もともとは土岐川沿いで作られた、こうした陶器を全国へ効率よく運ぶために作られた「私鉄」が始まりというわけです。
というのも、当時は高速トラックや航空輸送が存在しなかったため、鉄道で運ぶのが一番よかったわけですね!
さらに言うと、鉄道が出来るまでは土岐川の上を舟に載せて運ぶのが、一番よかったのでした。
このように太多線の歴史は、このたくさんの重い荷物をより大量に運ぶために生まれたという、まさに「焼き物の道」から始まったというわけです。
土岐川とは?

中央本線・釜戸駅付近を流れる土岐川(岐阜県恵那市)
ちなみに土岐川とは、多治見市内を主に流れる川のことです。愛知県では、庄内川に名前を変えます。県によって川の名前が違うわけですね。
土岐川の流れは、かつては
- 陶器の原料となる「土」
- 完成した、陶器の「製品」
を舟に載せて運ぶための、主要ルートとして活躍しました。
太多線の「東濃鉄道」から始まった歴史
太多線の歴史は、元々は大正時代の1918年に東濃鉄道という私鉄が、多治見と可児(ただし当時は広見という駅名でした)をそれぞれ結んだのがスタートでした。
東濃鉄道とは、太多線の前身となった私鉄会社です。
今の会社とは別組織ですが、地域に鉄道を引こうとした情熱の先駆けですね!
東濃(とうのう)とは?
東濃とは、岐阜県における南東部の地域を指します。
美濃国の東部ということで、東濃です。
- 岐阜県南部:美濃国
- 岐阜県北部:飛騨国
この東濃地域は、多治見や中津川などをはじめとする、土岐川や恵那山などが作り出す豊かな自然と、「焼き物」の文化が息づく、5つの市で構成されているわけですよ!
「軽便鉄道」からスタートした東濃鉄道(太多線)
この太多線の前身となる東濃鉄道は、当初は「軽便鉄道」という、今の鉄道よりもずっと線路の幅が狭くて、小さな車両が走るという規格でした。
軽便鉄道とは、普通の鉄道よりも安く、早く建設するために、
- 線路の幅を、(仕方なく)狭くする
- 急カーブを、(仕方なく)許容する
というふうにして作られた、簡易的な鉄道のことです。
これは建設コストが安くて済むというメリットがありますが、スピードが出にくいというデメリットがあります。
国有化に伴い、太多線へ
その後、国有化されて今の太多線(多治見〜美濃太田)という形になりました。
国有化:民間の鉄道を、国が買い上げることです。
これにより、太多線は地域の私鉄から、全国へとつながる国鉄のネットワークへと組み込まれたというわけですね。
東濃鉄道の歴史・もう少し詳しく
中央本線の発展から取り残された可児地方
明治時代の1900年に中央本線が多治見駅に開業すると、やや北の可児地方は鉄道の発展から取り残されることになってしまいました。
「これではマズい」ということで、可児地方では地元でも鉄道を通したいということで、自分達で私鉄の「東濃鉄道」を発足させました。
まずは国からの許可をもらう必要性
そしてまず必要なのは、国からの鉄道建設の許可でした。
なぜ国からの認可が必要だったのかというと、それは
- 国が元々計画している路線と重複させてはいけない
- 誤って、国の鉄道と競合させても意味ない
などの理由があるからです。
国は名古屋を経由しない「一大迂回ルート」を考えていた?
というのも、国は元々、後に「木曽路」に沿った長野方面から降りてくる中央本線を、名古屋を迂回して、関西や北陸へ抜けるルートを別途作ることを構想していました。
なぜなら、当時は戦前の世の中であり、いつ戦争が起きてしまい、名古屋が攻撃を受けて壊滅的になるかわからなかったからです。
さらには、当時はまだ新幹線も高速道路も無かったため、日本の大部分のトラフィックは在来線の東海道本線に集中していました。なので、このとき名古屋もひっ迫状態にあったのでした。
そのため、どのみち「名古屋を経由しない迂回ルート」は国にとっても急がれたのでした。
そのための「名古屋迂回ルート」として、多治見→美濃太田方面へ続く(さらに高山本線に乗り入れて関西・北陸方面へと抜ける)という、現在の太多線のルートの構想を考えていたというわけです。
将来、「国へ売ってくれる」ことを条件に、建設の許可が降りる
そのため、国は東濃鉄道に対して、
「将来、我々が国が必要になったとき、きちんと売ってくれる(国有化・買収に応じる)のであれば、線路を作ってもいいぞ」
という条件をつけました。
また、国としても当時はすぐさま太多線に該当する線路を作る余裕はなかったため、先に民間企業である東濃鉄道に作ってもらって、後から買い取った方が都合がよいと考えたのでした。
つまり、国と地元でWin-Winの決着がついたわけです。
時代は第一次世界大戦 物価高により、株の買い手がつかず
こうして国から鉄道建設を許してもらった東濃鉄道でしたが、いかんせん時代は第一次世界大戦の頃でした。
みんな戦争でいっぱいいっぱいで、軍事物資の大量生産などによって物価ははね上がっていた、ハイパーインフレというような時代。
そんな世の中にあって、なかなか東濃鉄道の株を買ってくれるような人はいませんでした。
しかし株を買ってもらわないことには、なかなか鉄道建設に必要な資金は集まりません。
やむを得ず予算削減 「軽便鉄道」で作ることに決定
そのため、大幅に予算を削減して、
- レールの幅が762ミリと短い
- キツい勾配あり
- キツいカーブあり
という、「軽便鉄道」という方式で作られることが決まってしまいした。
この軽便鉄道の方式で作ることとなったため、まともにスピードは出せず、坂道にさしかかったときに列車が止まってしまうことがしばしばあり、そのたびに乗客が降りて後ろから列車をみんなで押して進んでいたという、なんとも当時らしいエピソードも残っています。
当時は「人車鉄道」などの存在もあり、乗客が列車から降りて「後ろから押す」ということはわりと日常茶飯的に行われていたのでした。
そのため、今では「手押し」は当時の地方鉄道の「あるあるネタ」として語り継がれているとのことです。
開通にともない、別途「新多治見駅」を設置
また、当初の目標は、可児地方と多治見駅をつなげることでした。
そこで、既存の中央本線の多治見駅と全く同じではなく、新しくすぐそばに「新多治見駅」という別の東濃鉄道用の駅が設置されました(ただし後の国有化のときに廃止されます)。
さらに、可児地方には現在の可児駅となる、「広見駅」が設置されました。
こうして、1918年に晴れて新多治見駅~広見駅との間で東濃鉄道が開通しました。
そして先述の通り、軽便鉄道がゆえにスピードが出ずに不便ながらも、それまでの馬車などよりははるかに運送効率が上がってマシということで、地元にも定着してゆきました。
1926年 ついに国に買い取られる時が来る
そして1926年、ついに国に買い取られるときがやってきます。
この時にはもはや国も高山本線などを作ってゆき、北陸方面へと抜けられるようになっていたため、いよいよ国に買い取られる「国有化」が現実的なものとなってゆきました。
2年かけて線路の幅を広げ、美濃太田までも線路を伸ばしてゆく
そしてそれまで軽便鉄道だった規格も、約2年かけて工事してゆき、1928年には狭軌(つまり、中央本線などに合わせた規格)に改められました。
つまり、線路の幅を国が作った官設鉄道のものに合わせて1,067ミリ(約1メートル)に広げ、スピードアップしやすくなったということです。
この工事は単なるバージョンアップというよりも、広見(可児)~美濃太田までの区間の新設まで含めた完全な「作り直し」に近いような大工事でした。
新多治見駅は廃止へ 1928年に晴れて全通「太多線」の誕生
そして、それまで多治見駅のそばにあった東濃鉄道専用の「新多治見駅」も、既存の「多治見駅」と重複して存在していても意味が無いということで、廃止となりました。
こうして、1928年に、広見~美濃太田までの区間までもが開通(全通)し、晴れて現在の太多線の区間が完成しました。
しかも、国は買収の時点から美濃太田まで接続させる気満々だったため、まだ美濃太田まで開通していなかったにもかかわらず、買収時点で既に「太多線」とフライング気味に名前をつけたといいます。
逆にいえば、それだけ国の
という気迫や意気込みが伝わってくるようですね。
東京を出て名古屋を経由せず関西・北陸へ通じる「迂回ルート」も実現
これによって、東京から中央本線の内陸部を通ってきた列車は、万一名古屋が(災害や混雑などで)パンクして不通になったとしても、
- 多治見から太多線・高山本線に乗り入れて、
- (万一)名古屋を経由せずとも、関西・北陸方面へと抜けられる
ようになったのでした。
1982年 広見駅は「可児駅」へ
そして昭和後半の1982年、「可児市」が誕生したことにより、「広見駅」は「可児駅」へと変更され、現代に至ります。
「姫駅」の由来は、伝説の美しい姫君?

太多線・姫駅(岐阜県多治見市)
「姫」という名前、とっても素敵で気になりますよね!
実はこの地名には、古くからの言い伝えが様々に存在しています。
「姫」の地名の由来(諸説あり)
その昔、この地域を訪れたとある高貴な身分の姫君が、その美しさと優しさによって村人たちをメロメロに魅了したという伝説が残っている、とのことです(諸説あり)。
姫君:身分の高い女性への敬称です。
これらは、姫駅の由来にまつわる伝説の女性を指し、地名に優雅な彩りを添えてくれていますね。
あるいは、ここが地形が緩やかであったために、
だったからという説もあるようです。
したがって、歴史的な重厚さと、駅名の持つ可憐さが共存しているのが、この駅の最大の魅力だと言えますね!
太多線沿線の旅:可児駅(岐阜県可児市)
最初の終点、当時は「広見駅(ひろみえき)」

太多線・可児駅(岐阜県可児市)
可児駅は、大正時代の1918年に初めて太多線の原型となる東濃鉄道が開通したときの、当時の終点でした。
当時は(これまで何度も説明してきた通り)、広見駅という駅名でした。
明智光秀のふるさとと伝わる、可児市
岐阜県可児市は、太多線が通る、歴史とバラの街です。
戦国武将の明智光秀や森蘭丸の生誕地とも言われ、歴史ファンにはたまらない魅力が詰まっています!
また、可児市には明智光秀の生誕地という説がある「明智城跡」があります。
日本ライン
日本ラインは、可児市や美濃加茂市を流れる、木曽川の美しい峡谷のことです。
ドイツのライン川に景色が似ていることから名付けられた、世界に誇れる絶景スポットというわけですよ!
おわりに・まとめ
太多線や姫駅を訪れると、単なる移動手段以上の「物語」を感じることができます。
- 美濃焼の発展を支えた産業鉄道としての顔。
- 姫駅という名前に込められた、土地の温かい記憶。
これらを知ってから列車に乗ると、車窓から見える景色も少し違って見えてくるはずです。
のんびりした列車の揺れに身を任せながら、昔の職人さんや、伝説の姫君に思いを馳せる…。
そんな贅沢な時間の使い方も、鉄道旅の醍醐味ですね!
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