福岡県北九州市・門司港の観光・歴史を、わかりやすく解説してゆきます!
石炭とともに発展してきた歴史を、やさしく解説してゆきます!
今回も門司港・門司港駅の観光・地理・歴史
前回に引き続き、今回も門司港とその玄関口である門司港駅の、観光・地理・歴史について学んでいきましょう。

門司港駅(福岡県北九州市門司区)
門司港は、かつて九州の近代化を支えた石炭輸送の一大拠点でした。
すなわち、関門海峡を挟んで本州と向かい合う、非常に重要な地理的位置にあります。
したがって、門司港レトロの美しい街並みだけでなく、当時の熱気あふれる歴史背景を知ることは、とても興味深いですよ!
門司港とは

門司港から眺める関門海峡と、向こう岸の下関(福岡県北九州市門司区)
門司港は、福岡県北九州市門司区にある港町です。
門司港についての基本的な知識については、以下の記事(前回の記事)でも解説していますので、ご覧ください。


門司駅(旧・大里駅)より(福岡県北九州市門司区)
かつて石炭産業とともに栄えた、門司港の歴史
門司港でかつて石炭の輸送が重要だった理由
当時の門司港において石炭の輸送がとても重要だったのは、九州が当時の日本の中でも特に石炭がガッポリ採れるという、まさしく一大石炭産地だったからという事情があります。
すなわち、
- 九州でも特に大きかった「石炭の宝の山」ともいうべき筑豊炭田において採掘された大量の石炭を、
- 門司港での船へと大量に積み込み、
- そこから国内外へ輸出するための「積み出し港」
として、門司港がまさにその最重要拠点となっていました。
石炭を船に積む「積み出し港」としての門司港
この門司港が担ってきた「積み出し港」としての役割は、主に石炭などの資源を船に載せて送り出し、全国各地へ売って利益にするという重要な役割でした。
このように、門司港は鉄道と船をそれぞれ繋ぐ・接続するための、まさに「巨大なリレー拠点」のような存在だったというわけです。
すなわち、まだ航空輸送も高速トラックなども無かった時代、門司港は多くの荷物を効率よく各地へ運んでいくための、とても重要な物流のハブ(拠点)でした。
物流:物が生産者から消費者へ向けて届くまでの流れのことです。
すなわち、ただ物を運ぶというだけでなく、「保管し、届ける」までの一連の全ての仕組みのことをいいます。
物流における「ハブ(拠点)」とは
ちなみに、交通・物流の分野におけるハブとは、
- 各地からの運搬ルートが集まってして、
- さらにそこから、各地へと繋がる拠点の中心
のことをいいます。
すなわち、門司港は、
- 「陸の鉄道」→各地から石炭が鉄道によって集まってくる
- 「海の航路」→石炭が船に載せられて運ばれていく
とがそれぞれ交わる、九州最大の乗り換え地点だったわけですね!
九州最大の「石炭の宝の山」筑豊炭田とは?
筑豊炭田は、福岡県の筑豊地域を中心とする、北海道などと並んで日本でも特に多くの石炭が採れる産出地でした。
当時は掘れば掘るほど儲かるという、まさに「石炭の宝の山」だったというわけです!
なぜ九州に炭鉱が多かったのか?
ちなみに九州に炭鉱が多かった理由は、大昔はこの地域は大量の植物が眠るジャングルだったことと関係しています。
すなわち、数千万年も前の昔に起きた地質活動によって、九州の地下にはジャングルの植物が変形してできた、質の良い石炭の層がたっぷり眠っていたからです!
地質活動:火山の噴火や地層の積み重なりなど、地球の地面が長い時間をかけてパワーを加えられ続け、変化・変形していくことをいいます。
もう少し簡単にいうと、
- この地殻変動のパワーによって、
- 大昔に九州にあったジャングルの大量の植物が、
- 長年かけて地球から力・パワーを加えられ続けて、変形してゆき、
- 石炭の山になった
というわけです。
日本の産業革命に貢献した、門司港から運ばれた石炭
すなわち、この炭田は明治時代から昭和時代にかけて、日本の産業革命を支える重要なエネルギー供給源となりました。
「産業革命」とは?
ちなみに産業革命とは、18世紀後半から19世紀にかけて、主にイギリスで起こった、技術革新による社会・経済の大きな変化のことです。
これにより、それまで手工業で時間がかかっていたのが、機械や蒸気機関によって大量生産・自動化・低価格化・競争力アップが可能になったのです!
なんだか今のAI革命と似ていますね。
「西洋に追い付け追い越せ」日本でも次々に産業革命を達成していった
江戸時代のおわりに開国したばかりの日本は、当時既に産業革命を起こしていた西洋諸国に対して、大きな遅れをとっていたのでした。
しかし、明治時代に入ってからの日本は「西洋諸国に追い付け追い越せ!」といわんばかりに、蒸気機関や機械を取り入れてゆき、産業革命を起こしてゆきました。
この蒸気機関など(鉄道の蒸気機関車を含む)を動かすのに必須だったのが、まさに石炭だったというわけですね!
蒸気機関については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

当時の日本で石炭が重要だった理由
当時の日本で石炭が重要だったのは、それが産業を動かすための「主要なエネルギー源」だったからです。
どんなもの(工場・鉄道・船など)を動かすためにも、石炭は重要だった
明治時代に石炭が必須だった理由は、先述の通り、産業革命に必須だった蒸気機関を動かすための唯一無二のエネルギー源だったからです!
工場を動かし、蒸気機関車や船を走らせるために、石炭は
- 「産業の米(さんぎょうのこめ)」
- 「黒いダイヤモンド」
と呼ばれるほど大切にされていました。
石炭を掘って運ぶほど売れた時代
したがって、石炭を掘って運ぶほど、多くの工場などが大量に買ってくれ、売れてゆくような時代だったのでした。
それだけ、当時は石炭がないと日本は何も動かすこともできず、一歩も前に進めなかったのでした。
ましてや戦争になってしまうと、工場・船・蒸気機関車も何も動かすことができず、国が負けてしまうことを意味していました。
明治時代に石炭をトラックで運ばなかった理由
また、なぜ当時は車ではなく鉄道で運んだのか。それは、そもそも明治時代には、大きな荷物を運べるような「トラック」そのものが存在していなかったからです!
ガソリンで動く自動車が普及するのは、そのずっと後の時代の高度経済成長期あたり(1960年代頃)ことになります。
逆にいえば、トラック輸送が一般的になっていくと、貨物列車は衰退し、姿を消していくことになったのでした。
すなわち、当時は一度に大量の重い石炭を運ぶためには、当時はまだ鉄道(蒸気機関車)や船を使うしかなかったのですね。
もちろん、明治時代の当時としては、貨物列車による石炭輸送は、それまでの江戸時代には無かったような画期的な手段だったのでした。
石炭が石油に移行した経緯
また、ではなぜ石炭はやがて衰退し、今は石油がメインのエネルギー源になったのか。
それは、高度経済成長期にあたる昭和30年代(1960年代)ごろから、石炭よりもさらに安くて、しかも運びやすく、さらには使い勝手までもが良い「石油」が新たに世界中で大量に使われるようになったからです。
これを「エネルギー革命」と呼びます。
すなわち、石炭よりも石油の方が効率よく大きなパワーを出せるため、主役の座を奪われてしまったのですね!
多くの炭鉱が衰退した経緯
そして、多くの炭鉱が衰退したのは、先述の通りエネルギーの主役が石油に変わっていったことで、石炭の需要がガクンと減ってしまったからです。
さらに、海外からの輸入品である安い石炭に勝てなくなったことも大きな理由でした。
したがって、かつて賑わっていた九州の炭鉱も次々と閉山してゆき、炭鉱とともに栄えていった町は次第に静かになっていったのです。
閉山:資源をもはや掘り尽くしてしまったり、さらには需要がなくなって売れなく・儲からなくなったりして、鉱山での作業を完全にやめることをいいます。
工場や製鉄所などが、たくさんの石炭を必要とした
明治時代の近代化によって、工場や製鉄所などが次々と建設されてゆきました。
これらの施設を稼働させるためには、大量の熱と動力が必要でした。
そんな時代のなかにあって、石炭は蒸気機関車や汽船の燃料(エネルギー源)にもなっていったため、鉄道や海運といった交通網の発達を支えてゆきました。
つまり、石炭なくしては、日本の工業化と経済発展は不可能だったのです。
危険ゆえに高給な仕事 炭鉱でパワフルに働いていた人たち
炭鉱での労働は危険であるがゆえに、高給で儲かったのでした。
命がけの仕事だった分、給料は非常に高かったのです!
危険と隣り合わせだからこそ、稼ぎも破格だったのですね。
筑豊炭田付近には、豪快に稼いだ男たちの遊び場がたくさんあったのでした。
すなわち、炭鉱周辺には劇場や飲食店が並び、不夜城のように「眠らない町」として賑わいました!
まさに、夢を追う男たちの熱狂の場でしたね。
「宵越しの金は持たない」明日と引き換えに豪快に楽しむ当時の男たち
彼らは宵越しの金はもたず、一晩でパーッと遊び倒し、周辺地域に大きな経済効果をもたらしたのでした。
「宵越しの金は持たない」とは、夜明け前にはもはや金を持たないくらいにパーッと遊ぶ、気風ある言い方です。
つまり、いつ4ぬかわからないような危険な現場で働いて彼らにとって、夜の(女の子たちと遊ぶ)時間は本当に貴重だったのです!
このように、炭鉱の夜の町ではもはや稼いだお金をすぐ使う気風すらあり、これによって町には多くのお金が回り、とても感謝されたようです。
したがって、炭鉱は九州全体の経済を潤す源だったのです!
初代門司駅(現・門司港駅)と大里駅(現・門司駅)
初代門司港駅の駅跡と移転の理由

門司港駅付近にある、初代門司駅の駅跡(福岡県北九州市門司区)
九州鉄道の起点だった初代の門司港駅は、現在の駅舎のやや近く(やや南の内陸部)に、当時のおもかげである駅跡があります。
この初代の門司駅は、現在の門司港レトロ地区に駅が移転してくる前の、1891年(明治24年)から1914年(大正3年)までかけて使われていました。
利便性の観点から、現在の位置へ移動(門司港駅)
ちなみに、門司港駅が現在の場所に移転してきた理由は、主に港の発展・利便性と、さらには鉄道の輸送量の増加に対応するためでした。
すなわち、当初の少しだけ内陸部にあった場所よりも「海に近づける」ことで、より石炭などの(鉄道→船への)荷物の積み替えを効率的にしたかったからなのですね!
このように、次第に貨物や旅客が増大してゆくにつれ、より広い敷地や関門連絡船へのアクセスが良い場所が必要になっていったのが、現在の位置へ移転してきた理由です。
現在おなじみの門司港駅の重厚な駅舎は、この移転後に新しく建設されたものであるというわけです。
門司港駅と門司駅の駅名の変遷

門司港駅(福岡県北九州市門司区)
現在の門司港駅は、実はかつて「門司駅」という名前でした。
すなわち、九州鉄道の起点として、当初はこの地が「門司」の中心駅だったのです。
一方、現在の門司駅は、かつては「大里駅」という名前でした。
したがって、駅名が入れ替わったのは、関門トンネルの開通などにより、鉄道の運行上の拠点が大里(現在の門司駅)に移ったためです。
少しややこしいですが、当時の門司港の役割の変化を示す、興味深い歴史的なエピソードですね!
鉄道唱歌にも描かれている、当時の風景
この明治時代の「初代門司駅」「大里駅」のことについては、明治時代の1900年に大和田建樹さんという方によって作詞された、鉄道唱歌にも歌われています。
鉄道線路を はるばると
ゆけば大里の 里すぎて
ここぞ小倉と 人はよぶ
九州鉄道とは、前回も解説した通り、現在のJR九州の原型となる、当時の民間の鉄道会社のことです。
これは当然ですが、現在と同じですね。

かつて「大里駅」だった「門司駅」

門司駅(福岡県北九州市門司区)
先述の通り、現在の門司港駅の西隣にある門司駅は、明治時代には「大里駅」という名前でした。
すなわち、この二つの駅名が変更された大きな理由・経緯こそ、後述する関門海峡トンネルの開通と、それに伴う鉄道の運行上の変化にあるというわけです。

筆者・門司駅より(福岡県北九州市門司区)
かつては「関門連絡船」で本州と行き来していた
すなわち、関門トンネルが1942年に開通する以前は、九州と本州をそれぞれ行き来する鉄道の貨物や旅客は、まず門司港駅(旧・門司駅)から関門連絡船に乗り換えていました。
つまり、船がそのまま船に乗り込む(船の中にまで線路が続いている)という形であり、まさに「一つの鉄道ルート」でつながっていたというわけです。
したがって、門司港駅は船への積み替えという重要な機能を持つ、九州の玄関口として機能していたというわけです。
1942年 関門トンネルが出来ると、連絡船は廃止 現在の鉄道ルートへ
しかし、1942年に関門トンネルが開通すると、鉄道が門司港を経由することなく、関門海峡をまっすぐに直通できるようになりました。
つまり、これにより門司港をわざわざ通る必要がなくなり、本州への直通ルート上に位置する大里(現在の門司駅)の方が、より運行上の拠点として重要になっていったというわけです。
この機能の変化に伴い、1942年(昭和17年)になると駅名が整理され、大里駅を改め現在の門司駅が誕生することとなり、一方の初代・門司駅は門司港駅に改称されました。
鉄道の進化が、駅の役割と名前を変えたのですね!
おわりに・まとめ
前回・今回の全二回におよぶ学習を通して、門司港と門司港駅の深い歴史について知ることができたかと思います。
すなわち、関門トンネルの開通や、駅名の変遷といったエピソードは、この地域の鉄道と港湾の変遷を如実に示しています。
したがって、九州の玄関口として栄えた門司港の歴史を知ると、門司港レトロの街並みがより一層、魅力的に見えるのではないでしょうか。
今回の知識が、次の門司港観光をより豊かで充実したものとなる助けとなれば嬉しい限りです!
コメント