鉄道唱歌 関西編 第18番 桑名に到着 そして揖斐川と木曽川の間の長島へ

まずは原文から!

萬古(ばんこ)の燒(や)きと蛤(はまぐり)に
其(そ)の名知られし桑名町(くわなまち)
日も長島(ながしま)の西東(にしひがし)
揖斐(いび)と木曾(きそ)との川長し

さらに読みやすく!

万古(ばんこ)の焼(や)きと蛤(はまぐり)に
其(そ)の名知られし桑名町(くわなまち)
日も長島(ながしま)の西東(にしひがし)
揖斐(いび)と木曽(きそ)との川長し

さあ、歌ってみよう!

♪ばんこのやーきと はまぐりにー
♪そーのなしられし くわなまちー
♪ひもながしーまの にしひがしー
♪いびときそとのー かわながしー

(関西本線/大和路線)
木津駅→加茂駅

(関西本線)
加茂駅→笠置駅→(木津川橋りょう)→大河原駅→月ヶ瀬口→伊賀上野駅→佐那具駅→柘植駅→(鈴鹿峠のトンネル)→関駅→亀山駅→四日市駅→桑名駅→長島駅(→至・名古屋駅)

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記

※正式名称は「鉄道唱歌 関西・参宮・南海編」です。記事タイトルの便宜上、このようなタイトル(関西編)とさせていただいております。ご了承ください。

四日市から北上し、桑名駅へ

四日市駅(よっかいちえき、三重県四日市市)からさらに北上していくと、やがて桑名駅(くわなえき、三重県桑名市)に到着します。

桑名駅(三重県桑名市)

「万古焼」と「蛤」で知られる桑名市

三重県桑名市(くわなし)は、歌詞にあるように「万古焼(ばんこやき)」と「(はまぐり)」に名ある街です。

万古焼(ばんこやき)とは

万古焼(ばんこやき)」は、いわゆる焼き物のことで、昔の高級な食器の一つです。

粘土のような材料を、高温に熱して、固めてから作ります。

原材料の生産地が近くにあることが、大きな強みだった

また、こうした食器や焼き物はどこでも出来るわけではなく、原材料がある程度は近所で採れるということが必要になります。
昔は「遠隔地から材料を取り寄せ」という行為が難しかったためです。

万古焼の原料も、桑名近辺で採れたことから盛んになりました。

現代は大量生産、昔は「手作り」が基本だった

現代の食器は、「ダイソー」や「セリア」などの100均で、いとも簡単に買えてしまいます。
それは、工場で大量生産ができるようになったからです。

しかし、昔は手作りが基本でしたから、人手も手間もかかるため、どうしても高価になってしまいがちでした。
そういう意味では、現代はとてもありがたい時代なのだといえます。

蛤(はまぐり)とは

(はまぐり)」は、いわゆる魚介類の一種です。
つまり、貝の仲間です。

なぜ桑名にてはまぐりが非常に盛んなのか。それは、理由の一つに木曽三川(きそさんせん)から流れる水によって、海の栄養が豊富になりがちだからです。

木曽三川(きそさんせん)」とは、

  • 木曽川(きそがわ)
  • 揖斐川(いびがわ)
  • 長良川(ながらがわ)

という、この辺りを流れる3つの非常に大きな川です。
この木曽三川から流れてくる水(真水)と海水がうまく混ざり合い、蛤(はまぐり)が育ちやすい環境にあったことが、はまぐりが盛んになった理由でもあります。

東海道の宿場町「桑名宿」と、「七里の渡し」

桑名は、東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)における

  • 七里の渡し(しちりのわたし)」

において、愛知県の熱田(あつた)からやってきた旅人たちにとって、海上交通の終着点でもありました。

七里の渡し(しちりのわたし)とは、かつて江戸時代に、

  • 名古屋(熱田神宮)→桑名

へと移動する際に、先述の木曽三川(きそさんせん)という大きな川があり橋を架けられなかったのでした。
そのため、代わりに渡し舟(わたしぶね)によって移動していた、七里(約28km)に及ぶ海上ルートです。

七里の渡しについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

木曽三川を渡り、長島へ

木曽三川(きそさんせん)とは、先述の通り、

  • 木曽川(きそがわ)
  • 揖斐川(いびがわ)
  • 長良川(ながらがわ)

の3つの大きな川のことをいいます。

揖斐川(いびがわ)

流されるくらいなら、初めから橋をかけなかった

昔の川は氾濫して暴れるとあっという間に橋が流されてしまい、何度造っても流されていたのでした。
そのため、だったら最初から橋を架けずに、舟で移動した方が得策である、とされていたのでした。

昔の川は、氾濫しやすかった

昔の川(自然に出来た川)は元々はカーブも多く、大雨のときに水がカーブを曲がりきれなくて、そのたびに氾濫が起こっていたのでした。

また、川幅も一定ではなく、急に狭くなったりして、溢れたりしていました。
堤防も無かったため、洪水が起きると周辺は水浸しになり、大惨事となっていたのでした。

現代では様々な仕組みにより、川は氾濫しにくくなっている

現代では人々の並々ならぬ努力もあり、河川工事によって川のルートを真っ直ぐにしたり、川幅を一定にするなど、洪水を防ぐために様々な改善・工夫がなされています。
しかし木曽三川に至っては、後述するように、薩摩藩による甚大なコストと労力が割かれていた歴史もあるのです。

伊勢方面への入口を示す「鳥居」

また桑名には大きな鳥居があり、ここから先は(東海道で江戸方面からやってきた旅人たちにとっては)、伊勢参りの参道の始まりとなっていました。

鳥居には、「ここから先は、神様の領域である」という意味があります。

江戸時代、薩摩藩に大きな負担・犠牲が出た「木曽三川工事」

かつて長島(ながしま)および木曽三川においては、江戸時代の薩摩藩による、木曽三川工事(きそさんせんこうじ)という、とんでもなく多大な苦労を強いられた工事があったのでした。

すべて自費負担による危険な工事で、多大な犠牲者も

これによって薩摩藩(さつまはん)は大きな出費を強いられることとなりました。
ただでさえ、薩摩(現在の鹿児島県)からこの地域までは遠いのに、多大な労力や移動費・人件費もみな薩摩藩もちでした。
しかも危険な工事であり、多大な犠牲者も出たのでした。

おまけに、参勤交代の費用負担もあり(しかも鹿児島からだからより高くつく)、薩摩藩は幕府から半ば嫌がらせのように財力を削がれていたのでした。

わざと薩摩藩に負担をさせ、勢力を削いでいた

江戸時代は、薩摩藩のように非常に遠隔地にある藩は信用されておらず、謀反や反乱を起こさせないよう軍事力を削ぐ目的で、様々な名目で費用負担をさせていたのでした。

一方で薩摩藩は琉球王国との貿易によってかなり多大な利益を得ていたのですが、上記の費用負担によって実際の石高はそんなに多くなかったという風に言われています。

長島駅に到着 織田信長の戦いがあった土地

そして列車は長島(ながしま)に達します。
駅でいうと長島駅(ながしまえき、三重県桑名市長島町)です。

長島は、歌詞にある通り、揖斐川と木曽川に囲まれてできた細長い陸地です。
昔は、川と川に挟まれた陸地を「」と呼んでいました。

恐らく、細長い形の島なので、「長島」という地名の由来になったのだと思います。

長島は、織田信長が一向一揆を滅ぼすために戦った場所でもあります。

長島駅(三重県桑名市長島町)

次回は、亀山駅から津駅へ

ここまで来ると、もう名古屋までは近いです。しかし今回は名古屋までは行かず、次回からは、再び亀山駅に戻ってきます。
さらに三重県の県庁所在地の津市(つし)に向かってゆきます。

ちゅうい!おわりに

この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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