鉄道唱歌 奥州・磐城編 第30番 仙台を出発し、多賀城・塩釜、そして松島へ

まずは原文から!

多賀(たが)の碑(いしぶみ)ほどちかき
岩切(いわきり)おりて乘(の)りかふる
汽車は鹽竈(しおがま)千賀の浦(ちかのうら)
いざ船よせよ松島(まつしま)に

さらに読みやすく!

多賀(たが)の碑(いしぶみ)ほどちかき
岩切(いわきり)おりて乗りかうる
汽車は塩釜(しおがま)千賀の浦(ちかのうら)
いざ船よせよ松島(まつしま)に

さあ、歌ってみよう!

♪たーがのいしぶみ ほどちかきー
♪いわきりおりてー のりかうるー
♪きしゃはしおがま ちかのうらー
♪いざふねよせよー まつしまにー

(東北本線)
福島駅→伊達駅(旧・長岡駅)→越河駅→白石駅→岩沼駅→仙台駅→岩切駅→国府多賀城駅→塩釜駅→松島駅→鹿島台駅→小牛田駅→石越駅→花泉駅→一ノ関駅→平泉駅→盛岡駅

※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ抜粋

仙台観光を終え、再び東北本線に乗り、仙台駅を出発します。

すると、現在では利府線(りふせん)との分岐駅である岩切駅(いわきりえき、宮城県仙台市宮城野区岩切)に到着します。

利府線(りふせん)は、元々は東北本線の本来のルートでした。つまり、岩切駅→利府駅→品井沼駅(しないぬまえき)のように、小牛田(こごた)方面へ向かって斜め45度の直線状のルートだったのです。

しかし、この区間は勾配がきつく、戦時中の軍事輸送のボトルネックになったことから、1944年に勾配のゆるい現在の松島経由の海線(うみせん)に変更されたわけです。

しかし、元々あった山側の区間を全部廃止しては近隣住民の反発にあうため、岩切駅~利府駅のみを残して「利府線」となり、利府駅から先の元々あった東北本線の部分は廃止されたのでした

そして、古くから重要な港町だった塩釜(しおがま)までは、岩切駅から塩釜線(しおがません)という貨物支線に乗り換えて向かっていたのでした。また、塩釜は後述する「鹽竃神社(しおがまじんじゃ)」という重要な神社が存在する街なので、そこへ参拝する人達を乗せるために、貨物のみならず旅客(一般の人々も乗せること)も扱っていました。

塩釜線に乗って塩釜で列車を降りたら、千賀の浦(ちかのうら)と呼ばれる塩釜の港を出発して、松島の海めぐりをするわけです。

歌詞には
多賀の碑ほどちかき 岩切おりて乗りかふる 汽車は塩釜 千賀の浦 いざ船よせよ松島に
とあります。

これは
多賀の碑がある多賀城市にほど近い、岩切駅で塩釜線に乗り換えて、塩釜へ向かおう。
そして、塩釜の千賀の浦から船を出して、松島の海めぐりへ行こう。

といった具合の意味になります。

現代では岩切駅で降りる必要性がないので、なぜこのような歌詞になっているのか、疑問に思った方も多いと思います。しかし、上述したような東北本線と塩釜線、そして利府線の歴史を知っていれば、歌詞の意味はわかるようになります。

宮城県多賀城市(たがじょうし)は、かつての陸奥国(むつのくに)の国府(こくふ)があった場所です。

陸奥国(むつのくに、みちのくのくに)とは、簡単にいうと現在の東北地方の東半分にあたります。つまり、福島県、宮城県、岩手県、青森県が陸奥国の領域に含まれます。
一方、東北地方の西半分、つまり秋田県や山形県を領域とする地域は「出羽国(でわのくに)」と呼ばれます。
陸奥国と出羽国を合わせて、「奥羽(おうう)」と言ったりします。

国府(こくふ)とは、簡単にいえば現在の県庁のようなものです。
昔は現在のような都道府県ではなく、「国」という行政区域に分けられていました(江戸時代は「藩」)。その国における政治的な中心機関を「国府」というわけです。
つまり、多賀城市は陸奥国における中心地域であったということができます。

また、日本の長い歴史において、東北地方にいた「蝦夷(えみし)」とよばれる人々は、朝廷に反発したり、朝廷と対立したりしてきました。東北地方は朝廷(京都)から地理的にすごく離れているのだから、自分達くらい自由にさせてほしかったのかもしれません。
しかし、朝廷にとっては蝦夷の人々に下手に力を付けられては困るため、自分達に従わない蝦夷の存在は脅威となってきました。
そのため、朝廷は東北地方を軍事的に制圧し平定するため、主に平安時代、様々な武士が送られてきたりしました。
坂上田村麻呂(700年代後半~800年頃まで)や、源義家(1000年代後半)といった人物がそうです。
なお、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、蝦夷を征伐するための武将として、史上初の「征夷大将軍(せいいだいしょうぐん)」に任命されています。鎌倉時代以降の征夷大将軍といえば源頼朝や徳川家康などの将軍さまが思い浮かぶと思いますが、平安時代の征夷大将軍は「蝦夷を征伐・統制するための武士のリーダー」という意味になります。
源義家(みなもとの よしいえ)は、1083年に起こった「後三年の役(ごさんねんのえき)」で、朝廷に味方をして戦いました。八幡太郎(はちまんたろう)の異名があります。
なお、東北の防衛の拠点は多賀城から、後に現在の岩手県奥州市(おうしゅうし)にある胆沢城(いさわじょう)に移されています。

多賀の碑(たがのいしぶみ)」は、宮城県多賀城市(たがじょうし)にある、陸奥国(むつのくに)国府(こくふ)があった場所の近くにある、石碑に書かれた文字のことです。
多賀城碑(たがじょうひ)」と呼ばれます。
最寄り駅は、現在の東北本線・国府多賀城駅(こくふたがじょうえき、宮城県多賀城市)になります。

さて、この石碑に何て書かれているのか・・・奈良時代の700年代に書かれており、しかも全て漢字で書かれているため、私(筆者)にはわかりません(^^;)
しかし、多賀城は国府のあった場所であり、また東北地方を治めるために重要な場所だったことから、それに関係する文章が書いてあることは間違いがないでしょう。
なお、この多賀城碑の石碑の文字については偽物説があったようですが、現在においてはそれは否定され、本物であることがわかっているそうです。
なお、多賀城碑は古くから色んな和歌において読まれてきたので、多くの人が名前や存在を知っていました(なお、歌に出てくる観光地などの地名を「枕詞(まくらことば)といいます」)。
つまり、多賀城碑は多くの歌の枕詞になってきました。
あの松尾芭蕉も、多賀城碑について詠んだとされています。

宮城県塩釜市(しおがまし)は、陸奥国の国府津(こうづ)があり、また陸奥国の一宮(いちのみや)がある街です。

国府津(こうづ)とは、その国で最も重要な港のことをいいます。
神奈川県小田原市に、国府津(こうづ)という地名があると思いますが、これは相模国(さがみのくに)の国府津があったことに由来するとされています。
つまり、塩釜港(千賀の浦)は、陸奥国の国府津ということになります。

また、塩釜市は「鹽竃神社(しおがまじんじゃ)」という、陸奥国の一宮がある街でもあります。
一宮(いちのみや)とは、その国で最も格式の高い神社のことをいいます。
つまり、鹽竃神社は陸奥国の一宮ということになります
なお、「官幣大社(かんぺいたいしゃ)」という神社のランク付けの仕組みもありますが、これは明治時代の「近代社格制度」という仕組みのランク付けとなり、「一宮」とはまた異なります。つまり、「一宮=官幣大社」、とは必ずしもなりません。鹽竃神社や越後国(えちごのくに)一宮の弥彦神社は、国幣中社となります。
静岡県三島市の「三嶋大社」は、官幣大社にして伊豆国(いずのくに)一宮です。
我が国で最も格式が高いとされる伊勢神宮は、官幣大社よりも上ということで社格すらついていません。

しおがま」という漢字の表記には、「塩釜」「塩竃」「鹽竃」「鹽竈」などの表記揺れがあります。
塩釜駅には「塩釜」の表記であり、鹽竃神社は「鹽竃」の表記になります。

現在の東北地方の中心地や最大の都市は、言うまでも無く仙台市ですが、かつての陸奥国の中心地である多賀城市や、かつての陸奥国の中心的な港(国府津)や一宮もある塩釜市があるこの地域(仙台・多賀城・塩釜)は、やはり東北地方で重要な地域であうということができます。

塩釜駅

塩釜港(千賀の浦)から船を出して出港すると、いよいよ松島の海に向けて遊覧の旅となります。

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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