まずは原文から!
櫻井(さくらい)いでてわが汽車(きしゃ)は
畝傍(うねび)耳無(みみなし)香山(かぐやま)の
鼎(かなえ)に似たる三山(みつやま)を
前後(ぜんご)に見つゝ今ぞゆく
さらに読みやすく!
桜井(さくらい)いでてわが汽車(きしゃ)は
畝傍(うねび)耳無(みみなし)香山(かぐやま)の
鼎(かなえ)に似たる三山(みつやま)を
前後(ぜんご)に見つつ今ぞゆく
さあ、歌ってみよう!
♪さくらいいーでて わがきしゃは
♪うーねびみみなし かぐやまのー
♪かなえににーたる みつやまをー
♪せんごにみつつー いまぞゆくー
(桜井線/万葉まほろば線)
奈良駅→帯解駅→天理駅(旧・丹波市駅)→三輪駅→桜井駅→香久山駅→畝傍駅→高田駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※正式名称は「鉄道唱歌 関西・参宮・南海編」です。記事タイトルの便宜上、このようなタイトル(関西編)とさせていただいております。ご了承ください。
初瀬(はつせ)・長谷寺(はせでら)・多武峰(とうのみね)などの観光を終えると、桜井駅を出発します。
そして桜井線(万葉まほろば線)に乗って、高田(たかた)方面に向かって行きます。
すると窓の周辺には「大和三山(やまとさんざん)」と言われる、畝傍山(うねびやま:標高199m)・耳成山(みみなしやま:標高140m)・天香久山(あまのかぐやま:標高152m)という3つの山が登場することになります。
前方に「畝傍山」、右側に「耳成山」、左側に「香具山」です。
ただ、「山」と言ってもせいぜい標高200m以下であり、 山というよりはどちらかというと盛り上がった小高い丘という印象です。
大和三山(やまとさんざん)の中で最も標高の高い山が、標高199mの畝傍山(うねびやま)です。
しかもこの大和三山は、なんでも性別があるらしく、つまり「男女」があるらしいです。しかも「恋の三角関係」ということらしいです。
大和三山のそれぞれの性別についてですが、畝傍山が「女性」で、耳成山(みみなしやま)と香具山(かぐやま)が「男性」という扱いであり、これらの男性の山が女性の畝傍山を奪い合うという構図だそうです。昔は山にも神様が宿ると信じられてきましたから、このような事が言い伝えられてきたのでしょう。
「鼎(かなえ)」とは、中国の古代の土器の一つです。その土器には足が3つトライアングル状に付いているため、歌詞ではこの3つの山を「鼎に似ている」と形容・表現しているわけですね。
また、この地域のやや南側には、明日香村(あすかむら)という、「飛鳥時代」というの言葉の由来になった村があります。
もちろんこの辺りは聖徳太子のゆかりの地であり、「聖徳太子生誕の地」「聖徳太子の墓」と伝わる史跡もたくさん存在します。
(ちなみに、聖徳太子の墓と主張している場所は、全国にあちこち存在します。)
また、ここはかつて中大兄皇子と中臣鎌足、そして蘇我氏が戦った場所でもあります(「645年の「乙巳の変(いっしのへん)」。敗れたのは蘇我氏)。
時代は古墳時代終わり頃の西暦538年。
日本にも初めて、中国から仏教が伝わってきます。
すると、中国から来た僧侶は、日本にたくさんあった古墳を見て、こう言います。
「なんだ、このバカでかい墓は。こんなものを造るのに膨大な人件費と時間をかける暇と金あったら、もっとお寺を造って、人々を幸せにさせるべきだ。」
これを聞いた人々は、「うーん、言われてみれば確かにそうだな」と納得します。
古墳を造るのには確かに膨大なコストや苦労がかかり、それは人々も内心そう思っていたと思います。また、日本人にとっては常識的なことでも、外国人の目から見ればおかしいと思うことだってあるわけです。
また、人間は刺激に慣れやすく、常に新しいものを求めますから、それまでの古墳よりももっと斬新な「お寺」というものを作るべきだと考えるようになったのは、ある意味自然な流れともいえます。
そのようにして、時代は古墳よりもお寺を建て、仏教によって(仏様の力によって)国を幸せにしていきたい、という動きが加速するのです。
これにより古墳時代は終了となり、飛鳥時代の幕が開きます。
聖徳太子は、この考えに基づき、仏教と天皇を中心とした国家を造ろうとして動き出します。
また、当時はそれぞれの「クニ」によってルールがバラバラでした。「クニ」というのは、今でいう「都道府県」や「州」のようなものです。「クニ」を仕切る人々(一族)のことを「豪族」といい、今でいう「知事」や「議会」に匹敵する権力があったようなものです。そして飛鳥時代までは、それぞれのクニがみなバラバラで争いが絶えず混乱状態に陥っていました。
現代において、都道府県においてルールがバラバラだったら、日本は大変なことになります。
例えば、ある県Aでは、「正当な理由があれば殺人はOK」であり、別の県Bでは「いかなる理由に関わらず殺人は犯罪である」というルールになっていたとしましょう。
ここで大変になるのは、県Aの人が県Bの人を殺してしまった場合です。もちろん、
県Aは
「うちは正当な理由があったからやったんだ!それがうちのルールだ!」
と主張し、
県Bは
「いや、ふざけんな!いかなる理由があろうと殺人は犯罪だ!」
と主張します。こうなると、収拾がつかなくなります。
それを防ぐために、日本は天皇の下に憲法があり、法律があるのです。すなわち、憲法や法律は、日本全国共通のルールとなります(一方、それぞれの都道府県や自治体ごとのルールは「条例」といいます。また、憲法や法律に違反するような(人権や財産を侵害するような)ルールや規則は作れません)。
このように一つの政府や法治で全国統一された国を「中央集権国家」といい、聖徳太子が理想とした国家です。
そして上記のような混乱が、飛鳥時代までの日本では実際に起こっていたわけです。それぞれのクニを仕切る豪族や大王(おおきみ)が自分たちのルールで好き勝手に治め、それぞれのクニ同士で争うという、混乱かつカオスな時代でした。
日本国内がこんなに荒れていると、いざ外国から攻められたときに一致団結できず、大変なことになります。
そのため、日本列島の各クニやムラはみな天皇(奈良県にあった大和朝廷)を中心とし、その下(もと)に全国を統一したルール(現代でいう日本国憲法や法律)を適用した構造になっていきました。
これが「中央集権国家」というものです。
聖徳太子は仏教を中心とした国作りを進め「中央集権国家」の理想をかかげましたが、彼の生前ではなかなかそれは叶いませんでした。
そして聖徳太子が亡くなると、今度は蘇我入鹿(そがのいるか)がこれチャンスと言わんばかりに国を仕切るようになってきます。
そうすると、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)など、聖徳太子の志を引き継ぎ「中央集権国家」でやっていきたいと願う人たちにとっては、蘇我入鹿が邪魔になってきます。
そのため、蘇我入鹿を倒す必要性がでてきます。
やがて中大兄皇子・中臣鎌足の両者は桜多武峰(とうのみね。奈良県桜井市にある山)で語り始め、そこで談合(だんごう)をし、明日香村(あすかむら)の飛鳥寺(あすかでら)で蘇我入鹿を倒すことになりました。
これが645年の「乙巳の変(いっしのへん)」です。この乙巳の変がきっかけで起きた政治の転換を、「大化の改新」といいます。
これによって蘇我入鹿を倒した中大兄皇子は「天智天皇」として即位ました。
一方、中臣鎌足は没年に「藤原」という姓を賜(たまわ)りました。
これによって全国の「藤原さん」「近藤さん」「内藤さん」「工藤さん」「佐藤さん」などの名前の由来になりました。
この「大化の改新」から約30年後の672年、今の滋賀県大津市(おおつし)、つまり近江国(おうみのくに)に、天智天皇によって都が移されていました。
天智天皇とは、先ほどの中大兄皇子のことです。
その天智天皇が亡くなる時に、天智天皇の「弟」と「息子」の間で争いが勃発してしす。
この672年に起きた戦いを「壬申の乱(じんしんのらん)」といいます。
この「壬申の乱」で勝った「弟」の大海人皇子(おおあまのおうじ)は、「天武天皇」として即位します。
天武天皇はその後、都を大津から飛鳥に移し、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)という都を建てました。
そして後に妻の持統天皇によって、「藤原京」に再び都は移されました。
そして持統天皇は、「小倉百人一首」において
「春過ぎて 夏来たるらし 白妙(しろたえ)の
ころもほすてふ(ちょう) 天の香具山」
意味:春が過ぎ、夏が来たらしい。
真っ白な衣を干すという、天香久山に。
と歌ったわけです。
このように、奈良県では飛鳥時代の名所旧跡がたくさん残っています。
次は、畝傍駅(うねびえき)・橿原市(かしはらし)に向かってゆきます!
注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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