鉄道唱歌 関西編 第62番 妙国寺のソテツを後に、堺を出発 大和川を渡り、住吉大社へ

まずは原文から!

蘇鐵(そてつ)に名ある古寺(ふるてら)の
話きゝつゝ大和川(やまとがわ)
渡ればあれに住吉(すみよし)の
松も燈籠(とうろ)も近づきぬ

さらに読みやすく!

蘇鉄(そてつ)に名ある古寺(ふるてら)の
話きき(聞き)つつ大和川(やまとがわ)
渡ればあれに住吉(すみよし)の
松も灯籠(とうろ)も近づきぬ

さあ、歌ってみよう!

♪そてつになーある ふるてらのー
♪はーなしききつつ やまとがわー
♪わたればあーれに すみよしのー
♪まつもとうろもー ちかづきぬー

※正式名称は「鉄道唱歌 関西・参宮・南海編」です。記事タイトルの便宜上、このようなタイトル(関西編)とさせていただいております。ご了承ください。

大阪府堺市(さかいし)は、妙国寺(みょうこくじ)のソテツ(蘇鉄)で有名です。
ソテツ」とは、この妙国寺の前に立っている大きな植物の一種です。
歌詞にある「古寺」とは、ここでは妙国寺のことをさします。

堺市の「妙国寺」は、織田信長がらみの「ソテツ」の伝説で知られます。
それはあまりにも奇妙で、あの無敵の織田信長ですら恐怖に震え上がったほどです。
その奇妙なソテツとはどんなものだったのでしょうか。 

もともと妙国寺にあったソテツは戦国時代には大変珍しいものであったようで、珍しいモノ好き・骨董品コレクターの織田信長からは大変欲しがられたようです。

織田信長は大のコレクター(今でいうオタク)であり、欲しいと思ったら他人が持ってるモノだろうが強引に奪ったりと、当時からかなりの自己チューぶりを発揮していました。
まさに「お前のモノは俺のもの、俺のものは俺のモノ」といった、リアルジャイアンですね・・・。

そんな織田信長はこの妙国寺のソテツの噂を聞き、何としてもこのソテツが欲しくてたまらくなりました。
そしてよりによってソテツを強引に引き抜き、なんと本拠地の安土(あづち。滋賀県の琵琶湖の東にある地域)まで持ってくるように命じました。

しかし、織田信長がソテツを安土まで持ってくると、ソテツは(植物なのに)毎晩のように、「堺に帰りたいよ~」と言って、夜な夜な泣きました。

そんなソテツに恐怖に感じた織田信長は、ソテツを切り倒してしまえという風に命じました。

すると切られたソテツは、なんと血を流し、これに怯えた信長は、堺の元の位置に返すように命じました。

昔は今よりも祟り(たたり)とか怨霊(おんりょう)の存在を信じた時代です。
しかし織田信長は比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を焼き討ちにしたり、仏教勢力(延暦寺や石山本願寺、一向一揆など)と徹底的に戦ったり、さらには”墓石”や”お地蔵さん”を石材代わりにして城を造るなど、かなり仏様に対しては罰(ばち)当たりな事が出来るほどであり、仏の祟り(たたり)などの非科学的なことは微塵も信じていませんでした。しかしさすがの織田信長も、このソテツに対しては恐怖でびっくりしたようです。

まな、妙国寺はかつて幕末の戊辰戦争(ぼしんせんそう)の時代に、フランスと土佐藩が衝突し、フランスの怒りを買ったために土佐藩士11人が切腹されたという悲劇に見舞われた場所でもあります。
これを「堺事件」といいます。

時は戊辰戦争の1868年、世の中は”外国を打ち払って天皇中心の世の中にしよう”という「尊皇攘夷運動(そんのうじょういうんどう)」という雰囲気の中でした。
このとき、土佐藩士(高知県から来た武士)が堺の港湾地域でフランス人と接触・衝突し、フランス人を殺害に追いやったことでフランスの怒りを買ってしまいました。

フランスは江戸幕府に対して、加害者(土佐藩士)の処刑と15億ドルの賠償金を求めてきました。
幕府には到底飲めない理不尽な要求でしたが、相手は強国フランス。まともにやって勝てるわけがありません。
そこで幕府はやむを得ず、土佐藩士20人の切腹を命じ、しかもフランス人の立ち会いの元で行われました。
しかし実際にそれが開始されると、その切腹の光景があまりに残酷すぎたため、それを見ていたフランス人が「もういいよ!日本の謝罪の意思は伝わった!これ以上はもう止めてくれ!」と嘆願し、20人中11人の切腹が終わったところで処刑は打ち切られました。

同時期に、薩摩藩とイギリス人が衝突した「生麦事件(なまむぎじけん)」「薩英戦争(さつえいせんそう)」という事件も起こっています。

生麦(なまむぎ)」とは、神奈川県横浜市のやや東にある地名です。横浜駅と鶴見駅(つるみえき、横浜市鶴見区)の間にある地域です。
この生麦で、参勤交代で通りかかった薩摩藩(現代の鹿児島県)の大名が、日本のルール(参勤交代においては、通りかかった大名に対して腰を低く平伏すること)を知らずに何もしなかったイギリス人に対して「無礼だ!」といって斬りつけてしまいました。これが「生麦事件」です。
これに憤慨したイギリスは薩摩藩を攻撃(薩英戦争)。結果はやはり近代的な装備を身につけたイギリスの勝利でしたが、薩摩藩もかなり奮闘したためイギリス側もかなりダメージを負い、かなりの犠牲者が出てしまいました。

そのため、薩摩藩とイギリスは”お互いいがみ合っても意味がない”ということで、これを気に「やっぱりお互い仲良くしようよ」ということで、以後薩摩藩とイギリスは協力関係になってゆくのです。
そして薩摩藩は長州藩(現代の山口県)とも手を組み、欧米諸国から近代的な武器を大量に購入し、幕府を倒すために向かってゆくのです。

堺駅を出発するとさらに北へ、大阪・難波方面へ向かってゆきます。
やがて大和川(やまとがわ)という大きな川を渡ります。

大和川(大阪府)(南海本線の車窓より)

大和川は、奈良県では「初瀬川(はつせがわ)」という風に呼んでいました。
鉄道唱歌 関西・参宮・南海編でも第35番で初瀬川とすぐそばにある名所・長谷寺(はせでら)を訪れていますので、それ以来となります。
初瀬川は大阪府に入ると「大和川」と名前を変えて西へ進み、やがて大阪湾に注ぐのです。

大和川は、前回も少し触れた通り、江戸時代に工事によってルートを大きく西へと変更されています。
つまり、現代のように大阪湾に注ぐ、堺市の北を横切るルートとなったのです。
大和川は、江戸時代までは現在の柏原市(かしわらし)から(現在のように西へは曲がらず)北西へ真っ直ぐ向かっていました。そして八尾(やお)・久宝寺(きゅうほうじ)や河内地方(かわちちほう)を通り、やがて大坂城の近くで淀川(よどがわ)と合流していました。
しかしこの古いルートだと、河内平野(かわちへいや)で大洪水に見舞われていたため、古くは奈良時代から大和川の西へのルート変更の構想はあったようです。

ちなみに関東地方の利根川(とねがわ)も元々は東京湾に注ぐ川でした。しかし利根川は江戸の町に多大な洪水被害をもたらしていたため、江戸時代に東へ大きく流れを変える大規模な工事が行われ、現代のように千葉県銚子市(ちょうしし)へ流れるルートに変更されています。

こうした江戸時代の大規模な河川工事が行われた理由の1つに、「全国各地の藩や大名に無理矢理手伝わせて、藩や大名の財力を減らさせ、幕府に反発するのを防ぐ」目的があったとも言われます。
工事にかかる人件費や材料の調達などは、みな藩の負担・大名もちです。これによって、ただでさえ参勤交代などで多大な負担を強いられる藩はさらに負担を課されることになります。
これを「手伝普請(てつだいぶしん)」といいます。
中部地方の伊勢湾にある長良川(ながらがわ)・木曽川(きそがわ)・揖斐川(いびがわ)の洪水氾濫を防ぐための「木曽三川工事(きそさんせんこうじ)」は、手伝った薩摩藩に多大な労力と犠牲がかかりました。
(先ほど述べた利根川のルートを東へ変える工事は、手伝普請ではなく家康をはじめとする江戸幕府が主体となって行ったものと思われます。)

大和川を渡ると、住吉大社(すみよしたいしゃ)の横を通ってゆきます。

住吉大社(すみよしたいしゃ)は、摂津国(せっつのくに)一宮(いちのみや)となります、

摂津国(せっつのくに)とは、大阪府北西部のことをいいます。
(くに)とは、奈良時代の律令制のときにできた全国のエリア分けであり、現代の都道府県に該当します。
一宮(いちのみや)とは、その国で最も格式の高い神社のことをいいます。

参考までに、大阪府はかつて三つの国に分かれていました。

摂津国(せっつのくに)」:大阪府北西部
和泉国(いずみのくに)」:大阪府南西部
河内国(かわちのくに)」:大阪府東部

これら三つの国のちょうど境目に位置するのが「堺市(さかいし)」であり、堺市の地名の由来となっています。

かつて住吉あるいは「住之江(すみのえ)」という地域は、飛鳥時代に「遣隋使」「遣唐使」が海を渡って船出をしていった場所になります。

西暦618年に「隋」が滅ぶまでは「遣隋使」が、隋が滅んで「唐」ができたら「遣唐使」がそれぞれ派遣され、中国の文化や技術などを学んで帰ってきました。
しかし当時は現代ほど天気予報の技術が発展していなく、海が荒れたりなどその航海は危険以外の何物でもなく、海で遭難したり船が大破したりなどは普通に起こっていました。
その海の交通安全を守るための神社が、この住吉大社というわけです。

西暦630年に「犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)」という人物が初の遣唐使として唐に派遣され、奈良時代には仏教を中心に唐の文化は日本に多大な影響を与えました。
しかし平安時代の894年、あの菅原道真(すがわらの みちざね)公によって、航海の危険を理由に遣唐使は廃止されます。
その結果、中国の文化は日本に入ってこなくなったため、その代わり日本独自でオリジナルの「国風文化」が平安時代に栄えるのです。

灯籠(とうろう)とは、今でいう灯台(とうだい)です。つまり、夜の海を明るく照らし、船に道しるべを提供し、海難事故を防ぐためのものです。
昔は灯台のように電気の光で海を照らすわけではなかったので、火で灯りを照らしていたのですね。
広島県福山市にある海の景勝地・「鞆の浦(とものうら)」にある灯籠もまた印象的です。

次はいよいよ、ゴールの大阪・難波にさらに近づいてゆきます!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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