中央線鉄道唱歌 第6番 武蔵小金井に到着 関東の桜の名所、小金井公園へ

まずは原文から!

彩(さい)の衣手(ころもで)ふりはえて
都(みやこ)少女(おとめ)がたもとほり
花狩りくらす小金井(こがねい)は
關東一(かんとういち)の名所かな

さらに読みやすく!

彩(さい)の衣手(ころもで)ふりはえて
都(みやこ)少女(おとめ)がたもとおり
花狩りくらす小金井(こがねい)は
関東一(かんとういち)の名所かな

さあ、歌ってみよう!

♪さーいのころもで ふりはえてー
♪みやこおとめがー たもとおりー
♪はなかりくーらす こがねいはー
♪かんとういちのー めいしょかな

(中央線)
飯田橋駅→市ヶ谷駅→四ツ谷駅→信濃町駅→新宿駅→大久保駅→中野駅→荻窪駅→吉祥寺駅→武蔵境駅→武蔵小金井駅→国分寺駅→立川駅→日野駅→豊田駅→八王子駅→高尾駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※現代の中央線の起点は東京駅
※飯田橋駅は、当時は飯田町駅と牛込駅に別れていた

花の名所・小金井市へ 栃木県にも同じ「小金井」がある!?

武蔵境駅(むさしさかいえき、東京都武蔵野市)を過ぎると、東小金井駅(ひがしこがねいえき、東京都小金井市)、武蔵小金井駅(むさしこがねいえき、東京都小金井市)の順に進んでゆきます。

武蔵小金井駅(東京都小金井市)

小金井(こがねい)は、かつてより「花の名所」と呼ばれてきました。他にも茨城県桜川市(さくらがわし)の岩瀬(いわせ)や、奈良県の吉野山(よしのやま)など、こうしたところが桜の名所です(もちろん全国他にもたくさんあります)。

東京都小金井市(こがねいし)には、後述するように桜の名所の小金井公園(こがねいこうえん)があります。

小金井(こがねい)の由来は、”水が金のようにじゃぶじゃぶ溢れ出るような井戸”などの意味から来ています。
昔は現代と違っていつも水不足で困っていたましたから、まるで水が「金のよう」に出る井戸というものはとてもありがたく、嬉しかったわけですね。
現代では日照りで水不足に陥っても、ダムや溜池などから水を補填(ほてん)できます。

栃木県にも小金井駅(こがねいえき、栃木県下野市)という駅がありますが、東京都の武蔵小金駅の方が後にできたため、重複を回避する必要がありました。
そこで、旧国名である「武蔵国」の名前を冠して、武蔵小金井(むさしこがねい)ということ
で重複を避けたのだと思います。

小金井が「花の名所」になった理由 玉川上水と、桜の関係

現在の武蔵小金井駅は、明治時代に小金井の桜が有名になって観光名所となったため、そのときにお花見の季節限定で開設された仮のプラットホームが原型です。つまり、お花見のために後述の小金井公園まで歩いていくために列車を乗り降りするためのスペースを確保したことが、現在の武蔵小金井駅の原型になっています。

小金井駅より北へ1kmほどいくと、歌詞にもある桜の名所である、「小金井公園」に着きます。

歌詞によれば、鉄道唱歌の当時(明治時代)には小金井公園は「関東一の名所」と呼ばれていたようですね。

では、なぜ小金井が関東一の名所になったのか。それは、現在の小金井公園のすぐ南を流れる、玉川上水(たまがわじょうすい)に植えられた大量の桜にありました。

玉川上水(たまがわじょうすい)とは、江戸時代にできた、江戸の町に人々の生活に必要な飲み水を供給するための、人工的な川のことです。上水(じょうすい)とは、人々の生活に必要な水のことであり、対義語は下水(げすい)になります。その水の源は東京都西部の多摩川(たまがわ)であり、東京都羽村市(はむらし)の羽村取水堰(はむらしゅすいぜき)から水を取り出し、玉川上水として東京都新宿区の四ッ谷(よつや)まで流れて、そこから江戸・東京都民に不可欠な用水となって供給されています。

玉川上水の源・羽村取水堰については、以下の記事でわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

【東京都】羽村市・玉川上水の源に行ってきた!

その玉川上水の脇に、たくさんの桜が植えられたわけです。その理由は、昔は桜の花びらが、水を綺麗にしてくれると人々に信じられていたからです。また、桜をたくさん植えることで観光名所になりますし、またお花見にきた人々が玉川上水の土手や堤(つつみ)の地面を踏むことで、地面を固めてくれる効果を期待したものでもありました。

こうして玉川上水にたくさん植えられた桜ですが、中でも小金井のものが特に有名になったのでした。小金井の桜は、奈良県の吉野や茨城県桜川市(さくらがわし)から取り寄せたものであり、当時としてはとても珍しい桜だったので、多くの人々が小金井の桜を見ようとして、明治時代~大正時代にかけて小金井の桜は鉄道唱歌の歌詞にあるように関東一の名所になったのでした。

小金井にある、高橋是清の邸宅

小金井公園には、高橋是清(たかはし これきよ)の邸宅があります。
高橋是清は戦前の1930年代の総理大臣であり、「二・二六事件」で殺されてしまった人物でもあります。

二・二六事件とは、現代でいうと
「自衛隊が国を裏切って、政府を攻撃した」というようなとんでもない事件です。
つまり、「クーデター」の一種です。
もっと正確に言うと、大日本帝国憲法の通りに天皇による政治を推し進めたい「皇動派」と、天皇ではなく軍部で政治を推し進めたい「統制派」の対立から起きた事件です。
1930年代の日本は、「天皇と政府、偉いのはどっちだ」と世論が二分していました。
例えば1931年の「満州事変」は天皇の意思決定ではなく、軍部が勝手に暴走して行われたことだからですね。
また、満州事変をきっかけに1932年に「満州国」という日本の操り人形のような国を作ったのも、天皇の意思決定ではなく軍部の暴走によるものです。
さらに1930年の「ロンドン海軍軍縮条約」では日本の軍艦の保有数は欧米列強の7割と決められてしまい、しかもそれも天皇の決定ではなく、政府の決定でした。

大日本帝国憲法下では、「天皇は神聖不可侵」であり、天皇が全ての意思決定をするほど天皇が一番偉いはずです。

しかし当時の昭和天皇は、「天皇機関説」といって、「天皇は君臨こそするが、統治はしない」というスタンスを取っていました。
つまり、現代の日本や欧米諸国などと同じです。
そのためこの時の昭和天皇は直接政治をしない、口を出さないというスタンスを貫きました。

しかしこれに納得できないのが、大日本帝国憲法を忠実に守り、「天皇主権」を重んじる人々です。彼らのことを「皇道派」といいます。

そんな「皇道派」の人達(特に「青年将校」という、若いエリート達)が、天皇を差し置いて政治をやる政府を攻撃すべく1936年2月26日に起こしたクーデターが、二・二六事件です。
これにより、当時の総理大臣だった高橋是清は殺され、しかも永田町や霞ヶ関などの主要機関は占拠されました。

現代でいうと自衛隊が政府機関を攻撃して占拠するようなものです。
考えただけで恐ろしいですよね

しかし昭和天皇は「余計なことをしてくれるな」と、この事件に激怒します。
天皇主権を復活させるために皇道派はクーデターを起こしたのに、逆に怒られる始末です。
昭和天皇にとっては、いわゆる「ありがた迷惑」だったわけですね。
結局クーデター側は投降し、二・二六事件は失敗に終わります。

なんか全然関係ない話題になったかもしれませんが、少しでも皆様の何かの参考になれば幸いです。

太宰治が生涯の最後を過ごした、東京都三鷹市

あと前回触れられなかった、東京都三鷹市(みたかし)について触れておきます。

東京都三鷹市(みたかし)は、私が好きな小説家である太宰治が最後に暮らした町であり、またその生涯を終えた街でもあります。
生まれつき精神的に弱かった太宰治は、それまで5回ほど自殺未遂を繰り返していました。しかも愛人の女性と一緒に自殺するはずが、愛人だけ死んで自分は生き残るということもありました。

その度重なる自殺未遂が、ようやく「完遂」となったのが、三鷹駅のすぐ隣にある「玉川上水(たまがわじょうすい)」という場所です。
玉川上水」とは先述したように、東京の街に飲み水を提供するために作られた、人工的な川です。玉川上水は先述の小金井市だけでなく三鷹市をも経由しており、現在の三鷹駅のそばを流れているのです。
太宰治は1948年6月13日に玉川上水へまたまた愛人の女性と飛び込み、38歳の若さで亡くなりました。
ちなみにこの時、遺作となった「グッド・バイ」という小説を書いている途中でした。「グッド・バイ」は、太宰治が「人間失格」の後に書いていた小説です。しかし書いている途中で太宰治は自殺したため、未完の(途中までの)作品となってしまいました。

以上、今回はとにかく話がズレてすみませんでしたが、次は国分寺(こくぶんじ)に止まります!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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