鉄道唱歌 奥州・磐城編の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
鉄道旅行を楽しむためのノウハウを、初心者でも楽しめるよう解説してゆきます!
↓まずは原文から!
立てる岬は夏泊
とまらぬ汽車のすゝみよく
八甲田山も迎えたり
さらに読みやすく!
立てる岬は 夏泊
とまらぬ汽車の すすみよく
八甲田山も 迎えたり
さあ、歌ってみよう!
♪たてるみさにはー なつどまりー
♪とまらぬきしゃの すすみよくー
♪はっこうださんも むかえたりー
盛岡駅→好摩駅→岩手川口駅→いわて沼宮内駅→奥中山高原駅(旧・中山駅)→小鳥谷駅→一戸駅→二戸駅→目時駅
(青い森鉄道)
目時駅→三戸駅→八戸駅(旧・尻内駅)→三沢駅(旧・古間木駅)→野辺地駅→浅虫温泉駅→野内駅→青森駅
※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ抜粋(便宜上、各ターミナル駅や新幹線停車の主要駅なども併記)
野辺地駅に到着 日本最初の防雪林
三沢駅をさらに北上すると、やがて本州の右上部分に限りなく近い、
- 野辺地駅(のへじえき、青森県上北郡野辺地町)
に着きます。

野辺地駅(青森県上北郡野辺地町)と、日本最古の鉄道防雪林
野辺地駅(のへじえき)は、青森県でも有数の豪雪地帯にあり、なんとか吹雪の影響から駅を守るために「日本最初の防雪林」というものがあります。
線路を吹雪などから守るための、防雪林
防雪林は、その名の通り、吹雪から列車や線路を守るために存在します。
これは、海岸に「松原」といった大量の松が植えられているのと似ています。
昔は、現在のように高性能な防波堤を作る技術がなかったでしょうから、津波や潮風などの影響から逃れるために、多くの人によって松が植えられました。
また、松原は景観もよくできるため、観光地になる効果もあります。
恐らくこの防雪林も、少しでも吹雪の被害から駅や列車、線路などを守るために昔の人々によって植えられたものでしょう。
世界一の豪雪都市・青森
青森市は、世界一の豪雪都市と言われたりもします。
と思われるかもしれません。
しかし、実は緯度だけでなく、地形など様々な要因が関係しているのです。
特殊な地形のため、雪が降りやすい青森
例えば青森市は、
- 西は津軽半島(つがるはんとう)
- 東は下北半島(しもきたはんとう)
という、2つの半島に囲まれた、特殊な地形にあります。
さらに、南には八甲田山に囲まれています。
青森市は、このような山や半島に囲まれています。
そのため、北西(日本海側)から吹いてきた
- 「暖かく水分を多く含んだ空気(風)」
が山にぶつかってしまいます。
ぶつかった風は、山の上に昇っていくしかありません(上昇気流)。
空気は暖かいほど、水分を含みやすい
空気は温度が高いほど、多くの水分を含むことができます。
しかし、空気は温度が下がると水分を多くは含めなくなります。
そのため、霧・雲となって姿を現したり、雨・雪になって降り注ぎます。
山の斜面に沿って空気が上昇すると、雲がたまりやすくなる
したがって、
- 冬の期間に、八甲田山の斜面にぶつかった北西の暖かい空気は、
- 山の斜面にしたがって昇ってゆく
ということになります。
そして、
- 上空で冷やされて、
- それまで空気が含んでいた水分を、空気が含みきれなくなり、
- 雪となって降り注ぐ
というわけです。
こうして、青森市の特殊な地形により、北海道や日本海側を凌ぐ、豪雪地帯となるのです。
「緯度が高い=雪が多い」は、必ずしも成立しない
このように、必ずしも「緯度が高い=雪が多い」という図式は、成立しないのです。
例えば、緯度がより高い北海道の胆振地域(いぶりちいき:室蘭市など)は、真冬でもそこまで雪も積もっていなく、比較的温暖だったりもします。
しかし、青森市やこの上北(かみきた)地域あたりは、真冬はえげつない量の雪が降るわけです。
青森市は除雪作業のために、多大な予算をかけている
青森市は、この雪を取り除く作業(除雪といいます)のために、年間数十億円もの予算をかけているといいます。
青森駅周辺は、この除雪作業によって大量の雪が、道路脇に積み上げられています。
そのため、左右に「雪の壁」ができていて、本州の暖かい地域から来た人はびっくりします。
それだけ、青森市の雪はすごいのです。
野辺地駅から北へ延びる、大湊線
野辺地駅は、JR大湊線(おおみなとせん)との分岐駅でもあり、下北半島への入口ともなっています。
下北半島(しもきたはんとう)は、青森県の右上に突き出た半島です。
また、本州最北端にあたる大間岬(おおまみさき)があります。
また、下北半島の北には、
- 恐山(おそれざん、標高879m)
があります。
現在は「孤立路線」となっている、大湊線
前回も解説しましたが、JR大湊線は、他のJR路線とは切り離された、いわゆる孤立路線のようになっています。
その原因は、東北新幹線の盛岡駅~新青森駅の開業により、かつてのJR東北本線のうち、
が「青い森鉄道」の区間に変わったことにあります。
そのため、青春18きっぷで移動するための救済措置として、
の相互発着であれば、この「青い森鉄道」の区間であっても青春18きっぷで移動し、野辺地駅から大湊線へつなぐことができます。
しかし、この条件では途中駅で降りることはできません。
例えば、青森駅で乗った場合は、野辺地駅まで列車を降りられないことになります。
一方、北海道&東日本パス(7日間11,330円で乗り放題。2025年現在)を利用すれば、
- 「青い森鉄道」
- 「IGRいわて銀河鉄道」
の区間も乗り放題になります。
そのため、上記の問題は、あまり意識する必要はありません。
したがって、もし7日間連続で東北地方や北海道方面へ旅行する予定であれば、北海道&東日本パスの方が1日あたりの料金も安くなります(約1,614円)。
そのため、おすすめです。
ただし西日本を旅行するのであれば、北海道&東日本パスは使えなません。
そのため、青春18きっぷを利用すれば、上手に旅行できてよいでしょう。
野辺地駅の西側にある、夏泊半島
野辺地駅を出ると、西へ西へと青森市方面へ進んでいきます。
すると、
- 夏泊半島(なつどまりはんとう)
という、北へ突き出た「∩」の字の半島にさしかかります。
私は山陰地方の鉄道旅をしているときに、鳥取県の
- 浜村駅(はまむらえき、鳥取県鳥取市)
- 青谷駅(あおやえき、鳥取県鳥取市青山町)
の間にある半島も「夏泊半島」であり、びっくりしたことがあります。
なお、浜村駅と青谷駅は、
- 宝木駅(ほうぎえき、鳥取県鳥取市気高町宝木)
とともに山陰鉄道唱歌 第16番でも歌われています。
詳しくは、以下の記事をご覧ください。

青森県第二の山・八甲田山
八甲田山(はっこうださん)は、青森県で
- 岩木山(いわきさん:別名、津軽富士)
に次いで2番目に高い山です。
ちなみに、
- 岩木山の標高は、1,625m
- 八甲田山の標高は、1,585m
となります。
僅差(きんさ)ですが、津軽富士が青森県で最も高い山(最高峰)ということになります。
八甲田山は、その次に高い山ということになります。
もちろん、八甲田山という単独の山があるわけではなく、複数の火山からなる、いわゆる
- 「連峰(れんぽう)」
となります。
言い換えれば、複数の火山をまとめて、八甲田山といいます。
標高1,585mという数字は、あくまでもその中で、最も高い山(大岳)の標高になりす。
明治時代の悲劇・八甲田山遭難事故
八甲田山は、その昔、とんでもない悲劇に見舞われた場所でもあります。
1902年に起きた「八甲田山遭難事故」です。
これは、
- 当時の日本陸軍が、
- 極寒の八甲田山での訓練中、
- 多くの兵隊さんが、吹雪や食糧難に見舞われて遭難し、凍死してしまった
という、悲劇としか言いようのない事故です。
ではなぜ、このような悲劇が起きたのか。
当時の日本は、日清戦争において朝鮮半島の利権を確保できていました。
しかし、当時のロシアがいわゆる「南下政策」をとっていたため、これが危うくなってきます。
当時のロシアが南下政策といって次々に南へ進出してきた理由は、「凍らない港の確保」にありました。
ロシアの冬はマイナス数十度は珍しくないくらいの極寒の地域であり、港は凍ってしまうため、まともにやっては船を出すことができません。
そのため、少しでも暖かい地域を確保するために、「南下政策」をとっていたというわけです。
しかしこれにより、日本からすれば折角勝ち取った朝鮮半島の利権を、ロシアに脅かされては困ります。
そして、徐々に日本とロシアの戦争は避けられないものになっていました。
実際に、2年後の1904年には日露戦争が起きてしまいます。
こうなると、日本はとしてはロシアとの戦いに備えなければなりません。
しかし、ロシアという極寒の地域で戦うことも想定し、兵隊さんたちには、極寒の地域で戦うための訓練が必要となってきました。
その訓練の場所として選ばれたのが、青森県の八甲田山という山でした。
1902年の1月。
真冬の極寒・豪雪の時期に、その訓練は始まります。
しかし、慣れない場所での訓練に当然ながら兵士たちは苦しみます。
- 吹雪によって、体感温度は一気に下がってしまった
- 慣れない場所で炊事をしようにも、火をつけることすらままならかった
- 調理用の鍋(なべ)も、雪の上に安定して置くことができないため、食事を作ることすらままない
という状態でした。
吹雪の極寒で眠ることもできず、また空腹のために兵士たちばどんどん疲弊していき、次々に倒れていきます。
また、吹雪で今どこにいるのかすら判らなくなってしまい、さらにはコンパスも寒さで凍結してしまい、使い物にならなくなってしまいました。
コンパスは、方角を確かめるために、非常に重要になります。
このように、コンパスがまともに使えず、地図と勘のみに頼った行軍では、道に迷ってしまいます。
来た道を引き返そうにも、もとの道も見失ってしまい、遭難状態に。
次々と兵士は凍死していき、悲惨な大事故となってしまいました。
このようや悲劇を二度と起こさないために、寒冷地などの訓練は、その後の教訓として生かされることになります。
そして、数少ない生存者である後藤房之助(ごとう ふさのすけ)さんは、発見されたときには半分死んだ状態で、直立した状態で立っていたとされています。
その時の状態を再現した後藤房之助さんの銅像が、八甲田山に立てられています。
八甲田山の教訓は、現代の自衛隊にも引き継がれています。
自衛隊は、吹雪などの厳しい気象条件を想定した訓練も行っています。
次は、浅虫温泉・野内方面へ
八甲田山を横(左側)に過ぎ、次は
- 浅虫温泉(あさむしおんせん)
- 野内駅(のないえに)
の方面へ進んでゆきます!
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