鉄道唱歌 奥州・磐城編 第45番 福島浜通りを海沿いに行く 相馬市に到着

まずは原文から!

海にしばらく別れゆく 
小田(おだ)の緑の中村(なかむら)は
陶器(とうき)産地と兼(か)ねて聞く
相馬(そうま)の町をひかへたり

さらに読みやすく!

海にしばらく別れゆく 
小田(おだ)の緑の中村(なかむら)は
陶器(とうき)産地とかねて聞く
相馬(そうま)の町をひかえ(控え)たり

さあ、歌ってみよう!

♪うーみにしばらく わかれゆくー
♪おーだのみどりの なかむらはー
♪とーうきさんちと かねてきくー
♪そうまのまちをー ひかえたりー

(常磐線)
仙台駅→(※注1)→岩沼駅→相馬駅(旧・中村駅)→原ノ町駅→浪江駅→双葉駅(旧・長塚駅)→富岡駅→木戸駅→広野駅→久ノ浜駅→いわき駅(旧・平駅)→内郷駅(旧・綴駅)→湯本駅→泉駅→勿来駅→大津港駅(旧・関本駅)→磯原駅→高萩駅→日立駅(旧・助川駅)→常陸多賀駅(旧・下孫駅)→水戸駅→友部駅→石岡駅→土浦駅→松戸駅→北千住駅→南千住駅→日暮里駅(※注2)

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※注1 仙台駅→岩沼駅は東北本線の区間
※注2 当時は田端駅が終端

前回解説したように、ここからは常磐線(じょうばんせん。鉄道唱歌ができた明治時代は磐城線(いわきせん))を南下していくことになります。
海沿いに太平洋側を南下していくと、相馬駅(そうまえき、福島県相馬市)に到着します。

福島県相馬市(そうまし)は、かつて江戸時代には相馬中村藩(そうまなかむらはん)とよばれ、藩庁(はんちょう。現在でいうところの県庁のようなもの)は、相馬中村城に置かれました。
相馬中村城の城跡は、相馬市のやや西側、相馬駅の西約1kmほどの位置にあります。

歌詞の「中村(なかむら)」とは、かつて相馬市が先述の通り、相馬中村藩と呼ばれていたことと関連し、また現在でも相馬駅周辺に「中村」という地名が残っています。

相馬駅は、1890年代の開業当初は「中村駅」という駅名でした。1960年代に「相馬駅」に駅名変更しています。

歌詞にある小田(おだ)とは恐らく地名でも人名でもなく、文字通りの小さめの田んぼという意味でしょう。この田んぼの緑が美しい中村、という意味で歌われていることと思います。

また、歌詞では相馬は「陶器産地」と歌われていますが、相馬・南相馬(みなみそうま)・双葉町(ふたばちょう)のこの地域の周辺では、陶器の原材料となる物質がよく採れたそうです。
近辺で原材料が採れることは伝統工芸品にとって大きなメリットとなります。昔は現代のように長距離トラックや高速道路などが発展していませんでしたから、陶器を作って利益を得ようとしても、原材料を取り寄せるのが困難だったことでしょう。しかし、相馬のこの地域では近くで原材料が採れたので、陶器の生産を軸に地元の経済を発展させることができたと思います。
また、愛知県瀬戸市の瀬戸焼(せとやき)が発展したのも、近辺で原材料がよく採れたからです。これは大きなメリットだったことでしょう。瀬戸焼については、中央線鉄道唱歌第65番でも歌われていますね。

相馬氏(そうまし)は、先祖を関東地方の平氏とする、かつて相馬中村藩を統治した一族です。
相馬氏の先祖は平氏と書きましたが、いわゆる平安末期の1160年代~1180年代に平氏政権を築いて栄華を極めた平清盛(きよもり)よりも約200年前に、関東地方とりわけ千葉県で活躍していた平氏がいました。恐らく、移住してきたのでしょう(東国への下向)。有名どころでは、平将門(まさかど)という人物です。
千葉県の北部(現在の千葉市、市川市など)はかつては下総国(しもうさのくに)と呼ばれていたので、かつて千葉県で勢力を持っていた平氏は下総平氏(しもうさへいし)とも呼ばれます。

そして、こうした平氏の先祖は過去に辿っていくと平安初期の桓武天皇(かんむてんのう)にたどり着きます。桓武天皇を先祖とする平氏は、いわゆる「桓武平氏(かんむへいし)」とよばれます。
さらに、桓武天皇をさらに先祖を辿っていくと、やがて初代天皇の神武天皇(じんむてんのう)にたどり着きます。
その神武天皇の先祖も天照大神(あまてらすおおかみ)や伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)などの、日本神話における日本という国を作った神様たちにたどり着きます。

ここまで読むと、イコールで相馬氏は神武天皇や日本神話の神様たちの子孫である、ということができます。
つまり、威厳や神聖さが高く、より多くの人々の尊敬を集めることができます。その方が、人々を統治しやすくすることが可能になるという強みもあります。

令和の現在では先祖や家系の高貴さよりも、個性や個人の能力などが発揮されるべき「個の時代」ですが、昔はある国や地域を統治しようと思ったら、「先祖が平氏や桓武天皇にたどり着く」といったような家系や血筋などが非常に大切だったのです。
江戸時代の武士も、家系の高貴さや血筋の良さで給料が決まる、「家禄(かろく)」によって給料が払われていました。

話がずれましたが、相馬氏が平氏の子孫であるように、全国の有名な氏族も、「先祖が源氏である」という家系は多いです。
例えば、山梨県甲斐国(かいのくに)を治めた武田氏(たけだし)も、先祖が源氏にたどり着くとされています。
しかし豊臣秀吉は例外的で、百姓から自力で天下人となった方です。凄いですね。

さて、話を関東の平氏(下総平氏)に戻します。

平安時代の西暦900年代、関東地方で平将門(たいらのまさかど)という人物が反乱を起こしました。これを「平将門の乱」といいます。

平安時代の当時は、現在のような都道府県ではなく、「国」という単位で地域を支配・統治していました。例えば、武蔵国(東京都と埼玉県)、相模国(神奈川県)、下野国(栃木県)、上野国(群馬県)、下総国(千葉県の北部)、上総国(千葉県のやや南部)、みたいなイメージですね。

これらの国を統治するトップの人のことを「国司(こくし)」といいます。
その国に住む人から税金(米)などを徴収し、朝廷に献上するのも国司の役割です。

しかし、平安時代はこの国司の横暴さが問題化していました。豊作や不作に関係なく、税金を人々からむしり取ろうとするのです。
このようにして、国司と揉めてしまい、我慢しかねて関東地方で武装蜂起したのが、平将門という人物でした。これが平将門の乱です。

平将門は強く、なんと茨城県・栃木県・群馬県・千葉県などの領域を次々に占領してしまうという圧倒的強さでした。
あまりにも強さに、自身のことを「新皇」と名乗ったのです。
しかし残念ながら、朝廷に鎮圧されてしまい、処刑されてしまいました。東京都には平将門の首塚があります。
平将門は悲劇のヒーローとして、現代でも畏敬の念を集めています。

ちょうど同じ頃、西日本でも国司の横暴に耐えきれなくなり、武装蜂起した人物がいます。藤原純友(ふじわらのすみとも)という人物です。
藤原純友は、中国地方・四国地方・九州地方を中心に反乱を起こしましたが、残念ながらこちらも朝廷によって鎮圧されています。

東では平将門、西では藤原純友、のようにこの両者は平安時代の同時期に反乱を起こした人物として知られます。

話を元に戻しますが、関東地方の平氏(下総平氏)は、後に現在の千葉県で大きな荘園を持っていた千葉氏(ちばし)に続き、また福島県浜通りを統治した相馬氏(そうまし)に続きます。

こうした下総平氏、そして千葉氏、相馬氏も、
妙見さま(みょうけんさま)という北極星の神様を、主な神様として代々信仰しています。

妙見さま(みょうけんさま)、すなわち妙見信仰(みょうけんしんこう)とは、いわゆる北極星の神様のことです。北の夜空に動かない北極星を神聖な星とみなして、信仰する考え方ですね。
北極星とは、北の夜空にある、その場所から動かない星のことです。夜空の他の星は地球の自転に伴って太陽のように回転して動いているのですが、北極星は地球の北極の真上に位置するため、動きません。つまり、北極星のある位置はイコールで北極の位置と見なせるので、地図やコンパスが無かった時代は北極星の位置を探せば、北の方角がどっちにあるかがわかることになります。

北極星はこのように動かずに北を表す神秘的な星だともいえるので、北極星の神様は妙見さまとして信仰されてきました(妙見信仰)。

そして、相馬市には平氏、千葉氏、相馬氏らによって代々信仰されてきた妙見さまを祀(まつ)る神社として、相馬中村神社があります。

また、妙見信仰については、鉄道唱歌の次の番でもまた出てきます。

次は、原ノ町駅(南相馬市)に止まります!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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