まずは原文から!
三家(さんけ)の中に勤王(きんのう)の
その名知られし水戸(みと)の藩(はん)
わするな義公(ぎこう)が撰(えら)びたる
大日本史(だいにほんし)のその功(いさお)
さらに読みやすく!
三家(さんけ)の中に勤王(きんのう)の
その名知られし水戸(みと)の藩(はん)
わするな義公(ぎこう)が撰(えら)びたる
大日本史(だいにほんし)のその功(いさお)
さあ、歌ってみよう!
♪さんけのなーかに きんのうのー
♪そーのなしられし みとのはんー
♪わするなぎこうが えらびたるー
♪だいにほんしのー そのいさおー
(常磐線)
仙台駅→(※注1)→岩沼駅→相馬駅(旧・中村駅)→原ノ町駅→浪江駅→双葉駅(旧・長塚駅)→富岡駅→木戸駅→広野駅→久ノ浜駅→いわき駅(旧・平駅)→内郷駅(旧・綴駅)→湯本駅→泉駅→勿来駅→大津港駅(旧・関本駅)→磯原駅→高萩駅→日立駅(旧・助川駅)→常陸多賀駅(旧・下孫駅)→水戸駅→友部駅→石岡駅→土浦駅→松戸駅→北千住駅→南千住駅→日暮里駅(※注2)
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※注1 仙台駅→岩沼駅は東北本線の区間
※注2 当時は田端駅が終端
今回は、茨城県水戸市(みとし)の解説になります。
茨城県水戸市(みとし)は、茨城県の県庁所在地であり、また茨城県で最大の都市です。
あの「水戸黄門」で有名な水戸藩二代目藩主・徳川光圀(とくがわ みつくに)公で有名であり、また水戸は全国有数の納豆の名産地としても有名です。
水戸は、関ヶ原の戦い以前は佐竹氏(さたけし)という一族が治めていました。
しかし、関ヶ原の戦いで佐竹氏は徳川家(東軍)に敵対する「西軍」についたため、これによって徳川家の敵とみなされ、江戸時代になると大きく石高(こくだか)を減らされ、秋田に転封(てんぽう。罰として左遷されること)となりました。
佐竹氏は、先述の通り関ヶ原の戦い以前は水戸を統治する一族でした。そして秋田に移った江戸時代からは、佐竹氏が秋田藩(久保田藩)歴代の藩主となりました。
佐竹氏は、幕末まで一貫して秋田藩の藩主を務め上げました。一方の水戸は、それまでの佐竹氏に代わって、徳川家の統治下になります。
水戸は江戸時代から、いわゆる「徳川御三家(ごさんけ)」の1つとして有名です。
歌詞でも「三家」として歌われていますよね。
徳川御三家(ごさんけ)とは、徳川家のうち、以下の3つの家系のことをいいます。
以下がその3つの家系となります。
「尾張徳川家(おわりとくがわけ)」
現在の愛知県名古屋市が拠点。名古屋城が居城、本拠地。
尾張(おわり)とは、現在の名古屋のあるあたりをいいます。
「紀州徳川家(きしゅうとくがわけ)」
現在の和歌山県和歌山市が拠点。和歌山城が居城、本拠地。
紀州(きしゅう)とは、紀伊国(きいのくに)のことで、現在の和歌山県あたりのことをいいます。
「水戸徳川家(みととくがわけ)」
現在の茨城県水戸市が拠点。本項で解説。
ではなぜ、徳川家の分流・分家(支店のようなもの)がこれだけ各地に分散しているのか。
結論から言うと、
「徳川家の本家のバックアップ機能のため」
「徳川家の系統を途絶えさせないため」
などがいえるでしょう。
元々は徳川家康の約10人にも及ぶ息子たちが、それぞれ名古屋・和歌山・水戸に派遣され、彼らが藩主となって「尾張徳川家」「紀州徳川家」「水戸徳川家」がおこりました。
昔は、生まれた子供は現代と違ってすぐ死ぬことも少なくありませんでした。
また、現代と違って治安や衛生面・栄養面・安全面などで劣る昔は平均寿命が短く、若くして死んでしまうことも珍しくありませんでした。
しかし、仮にもし徳川家康が一人の女性としか結婚しておらず、子供も2~3人くらいしかいないと、あっという間に子どもがみな死んでしまうリスクがあり、徳川家はそこで簡単に系統が途切れてしまいます。
そうなると、徳川家のブランドや威厳はガタ落ちとなってしまい、全国の大名が徳川家に従わなくなり、幕府が滅ぼされてしまうかもしれません。
そのため、昔は「側室(そくしつ)」といって複数の嫁さんを抱え、子供も10人ほどもうけることで自分の系統や血筋が途絶えることを防いでいました。
また、尾張・紀州・水戸に徳川家を分散しておくことで、いざ江戸の徳川本家に何かあったときに、現代でいうところのバックアップ的な機能を果たすことができます。現代の会社でいうところのBCP(事業継続計画)のようなものです。
実際、徳川将軍は7代目の家継(いえつぐ)のときに、江戸の本家の系統は途絶えてしまいました。徳川家継は5歳という年齢で就任しましたが、病弱でわずか8歳で亡くなっています。
その後「享保の改革」で有名な8代目将軍の徳川吉宗(よしむね)は、紀州徳川家から就任しました。
また、冒頭でも述べた通り、水戸はあの「水戸黄門」で有名な、二代目藩主徳川光圀(とくがわ みつくに)公で有名です。
「この紋所(もんどころ)が目に入らぬか!」
誰もが知ってるフレーズですね。
紋所(もんどころ)とは、徳川家の紋章(もんしょう)が描かれたものです。
これを見れば一発で徳川家の偉い人だというのがわかるので、これを見た人々は途端に平伏(ひれふ)してしまうわけです。
「大日本史(だいにほんし)」とは、徳川光圀公が編さんを始めた、いわば日本史の教科書のようなものです。歴史について研究し、歴史についてまとめた資料・書籍のようなものです。
この大日本史などの編纂などにより、「水戸学」が発展していきます。
「義公(ぎこう)」とは、徳川光圀公の諱(いみな)のことです。諱とは、亡くなった方に対して敬意をこめて付けられる名前のことです。
「撰ぶ(えらぶ)」とは、「編纂する」「記述する」などの意味になります。特に、天皇の命令で本を書くことを「勅撰(ちょくせん)」といいます。
「功(いさお)」とは、つまり功績(こうせき)のことですね。
この「大日本史」「水戸学」などにより、水戸藩では、徳川家でありながら天皇や皇室や伝統を尊重する、いわゆる「日本という国体」を守るという考え方になっていきます。
現在でいうところの右派系、保守系の考え方です。
そのため、徳川御三家の中でも水戸藩は「勤王(きんのう)」と呼ばれました。
これは鉄道唱歌の歌詞にある通りです。
この大日本史の作成には約200年かかったといわれ、完成したのは明治時代に入ってからです。
また、「古事記」や「日本書紀」などの歴史書についても言えることですが、歴史書というものは時の権力者・為政者(いせいしゃ)によって都合よく、またデータや統計などに基づかない主観も入っていたりするもので、常にその信憑性(しんぴょうせい)が疑われ、専門家や有識者の間で議論になったりします。大日本史も例外ではなく、その信憑性が議論になったりします。
もちろん、私のこのブログも(もちろん充分調べた上で書いてはいますが)私の主観や思い込み、誤った情報などが混じっていたりする可能性もあるので、注意しなければなりません。
歴史書や大日本史に限らず、現代でも書籍やネット等の情報を読むときは、ひろゆきさんの言うところの「ウソをウソと見抜く力」、つまり情報リテラシー能力が必要です。どんな書籍や文献にも、人間が書く以上、誤植や思い込み、自分にとって都合のいい主張や勘違いなどが混じる可能性があるからです。
もちろん書いている側(著者)もそれなりの信念に基づいて書いていると思うので全部疑ってかかってはなりませんが、読み手側も著者の一方的な主張に洗脳されることがないよう、ある程度「疑う力」も必要です。
そしていつもお願いしていることですが、私のブログ記事にもし誤りを発見された場合は、できるだけ優しい口調でご指摘願えれば、こちらでも再度調べた上で、再度勉強し直した上で修正しますので、ご協力お願いします(^^;)
次回は、水戸の弘道館(こうどうかん)・偕楽園(かいらくえん)などの話題となります!
注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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