まずは原文から!
瓊子内親王(たまこのみこ)の墓所(はかどころ)
父の帝(みかど)につくされし
其(その)孝養(こうよう)は世のかゝ゛み
さらに読みやすく!
瓊子内親王(たまこのみこ)の墓所(はかどころ)
父の帝(みかど)につくされし
其(その)孝養(こうよう)は世のかがみ
さあ、歌ってみよう!
♪たまこのみこのー はかどころー
♪ちーちのみかどに つくされしー
♪そのこうようはー よのかがみー
鳥取駅→湖山駅→宝木駅→浜村駅→青谷駅→泊駅→松崎駅→倉吉駅→由良駅→八橋駅→赤碕駅→御来屋駅→名和駅→大山駅→淀江駅→伯耆大山駅→米子駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
列車は米子市へ 後醍醐天皇ゆかりの地
列車は既に、鳥取県米子市(よなごし)の市域に入っています。
今回は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の娘さん(皇女)であった、
- 瓊子内親王(たまこないしんのう)
が米子に住みついたときのお寺である、安養寺(あんようじ/あんにょうじ)の話題となります。
隠岐を脱出した父・後醍醐天皇に尽くした、瓊子内親王
瓊子内親王(たまこないしんのう)は、後醍醐天皇の娘さん(皇女)になります。
彼女は父の後醍醐天皇が戦いに敗れ、隠岐の島(おきのしま)に流されたとき、京都を出て米子まで追ってきた、とても親思いな娘さんです。
「内親王(ないしんのう)」とは、女性皇族を表す地位です。
皇族女性には、原則として名前に「子」がつく
また、女性皇族の名前には、基本的に「子」がつくことが歴史的にほぼ伝統となっています。
これは保守論客で元皇族の竹田恒泰(たけだ つねやす)さんが仰っていましたが、竹田さん曰く、皇族と結婚する女性も名前に「子」がつくことが多いです。
現代の皇族でいうと、
- 愛子内親王(あいこないしんのう)
- 佳子内親王(かこないしんのう)
- 小室真子(こむろまこ)さん
また、皇族に嫁(とつ)ぐ女性も、慣習的にみな「子」がつくことが条件とされています。
- 上皇后陛下:正田美智子(しょうだ みちこ)
- 皇后陛下:小和田雅子(おわだ まさこ)
- 文仁親王妃紀子さま:川嶋紀子(かわしま きこ)
摂関政治で有名な藤原道長は、天皇家と親戚になって実権を握るために、4人の娘を皇族に嫁がせました。
そして4人の娘みんなに、名前に「子」をつけたのでした。
2025年から筑波大学へと通われる悠仁親王殿下(ひさひとしんのうでんか)の将来のお嫁さんになる方も、名前に「子」がついている必要があります。
もちろん「子」がついているだけでなく、皇族女性となるに相応しい、相当な品格のある女性であることが求められるでしょう。
竹田恒泰さん曰く、皇族男性は「子」がつく女性と出会ったとき、運命を感じるそうです。
というか、日本の長い歴史で先祖の皇族がみな「子」がつく女性と結婚してきたのに、自分がその「初の例外」となってしまうのは防止したいそうです。
つまり「美」だと、皇族男性とはほぼ結婚できないわけですね(^^;)
瓊子内親王にこよなく愛された、米子の地
前置きが長くなりましたが、話を本題に戻します。
「笠置山の戦い」にて挙兵した、後醍醐天皇
後醍醐天皇は、鎌倉時代の終わりに「鎌倉幕府を倒せ」といって挙兵したのでした。
しかし、京都の「笠置山(かさぎやま)」という場所で敗れ、隠岐の島に流罪(るざい)となってしまいました。
笠置山の戦いについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
隠岐島へ流罪となった父・後醍醐天皇を追ってきた、瓊子内親王

後醍醐天皇は、海のはるか向こうの隠岐の島から脱出してきたのだった(写真は大山町・名和公園より)(鳥取県)
そして、その後醍醐天皇を追ってきた瓊子内親王は、後醍醐天皇の娘だとバレないように変装をして米子の地までやってきました。
本当は隠岐の島まで一緒について行きたかったのでした。
しかし、後醍醐天皇の娘だということがバレてしまったため、仕方なく米子に留まります。
しかし、その米子をとても気に入り、京都には帰りたくなくなるほどでした。
米子を気に入り、京都には帰らず米子へ定住する
まだ若くして16歳で尼(あま。女性の修行僧)となり、米子の安養寺に留まりました。
彼女は先述の通り、あくまで
- 「米子に住みたい」
- 「京都には帰りたくない」
という意向があったようです。
そこで定住することに決めたお寺が、安養寺というわけです。
そして24歳という若さで、この世を去ったようです。
とても父親想いの、「世の鑑」
歌詞では、父の帝(みかど:ここでは後醍醐天皇のこと)に尽くされた、その孝養(こうよう)は世の鑑(かがみ)であると歌っています。
親孝行な、父親想いな娘さんって、今も昔も(もちろん身分も)関係なく素敵ですよね。
次は、米子駅へ
次はいよいよ、米子駅(よなごえき)に到着します!
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