房総半島一周の旅16 千葉県・房総半島の東海岸沿いを北上 九十九里浜・成東・旭へ

今回の房総半島の旅は、千葉県・房総半島の東海岸沿いである九十九里浜・成東・旭といった地域を進みます。この地域の旅行を楽しむための知識を、わかりやすく解説します!

(東金線)
大網駅→東金駅→求名駅→成東駅

(総武本線)
成東駅→横芝駅→八日市場駅→干潟駅→旭駅→松岸駅→銚子駅

※上記は全ての駅ではなく、スペースの都合上筆者が独断でピックアップしたもの

大網駅(おおあみえき、千葉県大網白里市)からは、バスで東の九十九里浜(くじゅうくりはま)に向かうことになります。

九十九里浜(くじゅうくりはま)という由来は、源頼朝が99の矢を立てたことから、そのような名前になったとされています。

九十九里浜(千葉県大網白里市より)

源頼朝は1180年の「以仁王(もちひとおう)の挙兵」によって全国の源氏が平氏打倒のために立ち上がりました。
その後、神奈川県の伊豆半島に近いところにある石橋山の戦い」で破れていました
さらにそこから、神奈川県の真鶴(まなづる)という場所から相模湾(さがみわん)・東京湾を渡り、房総半島に上陸していました

ここで頼朝は、平氏打倒のための兵士をかき集めるために、房総半島を奔走しまくっていたのです。そして房総半島中の平氏に不満を持つ武士を次々に味方につけました。その時に真っ先に頼朝の味方についたのが、千葉県の元祖とも呼ばれる一族である千葉氏です。千葉氏の協力もあり勢いづいた頼朝は平氏を打倒し、鎌倉幕府を開いたのでした。

頼朝の房総半島上陸については、以下の記事さらに詳しく・わかりやすく解説していますので、ご覧ください

房総半島一周の旅8 源頼朝ゆかりの地、安房勝山へ はるばる海を渡ってきた土地

また、平安時代後期頃から千葉県を支配していた一族である千葉氏は、先述の通り鎌倉幕府の成立に大きく貢献したため、頼朝からの信頼があつい一族でした。そのため、千葉氏は鎌倉時代にかなり優遇され、また千葉氏の存在感があった時代でした。しかし、室町時代になると内部分裂(恐らくですが、政権争いが原因と思われます)で衰退し、戦国時代になると相模国(さがみのくに。現在の神奈川県西部)の後北条氏(ごほうじょうし)の下につきました。1590年の小田原攻めにあった後北条氏は秀吉の敵にあたるので、敗北した後北条氏の味方だった千葉氏にも秀吉から罰を与えられ、千葉氏は滅亡してしまいました

話が少しズレましたが、九十九里浜の話題に戻ります。

九十九里浜の沖は、江戸時代においては「東回り航路」のルートでした。
東回り航路」とは、江戸時代に河村瑞賢(かわむら ずいけん)というお金持ちが造った、海の航路です。
なぜ海の航路なのか?というと、江戸時代には航空機も鉄道も高速道路もなかったため、大量の荷物を運ぶには船に荷物を載せて運ぶ、というやり方が都合がよかったためです。
東回り航路」によって、仙台藩などで大量にとれたお米を銚子(ちょうし)から利根川を経由して、江戸に持ち込むことができました(ただし、これは九十九里浜の沖を通らない、江戸へのショートカットのルート)。
それによって得られた膨大な利益によって、伊達家(だてけ)の仙台藩は62万石の大きな藩だったのでした。

また、九十九里浜太平洋戦争大東亜戦争)における、ダウンフォール作戦においてアメリカ軍が日本を占領する時の上陸地候補に上がっていた場所でもありました。
ダウンフォール作戦とは、1946年に予定されていた、アメリカ軍による日本本土上陸作戦で、東京を占領して日本を降伏させることを目的とした作戦です。日本は終戦間近、「ポツダム宣言」を受け入れずになかなか降伏せず、いつまでも戦争が終わる兆(きざ)しが無かったからですね。
しかし実際には1945年8月15日に日本が降伏したため、ダウンフォール作戦が実施されることはありませんでした

ダウンフォール作戦でもし米軍が日本本土に上陸するとき、とても広くて上陸しやすい九十九里浜が候補地にあがりました。
しかし、問題は九十九里浜から東京までのルートが険しい道のりであるため(外房線や総武本線に乗っているとわかりますが、千葉方面へ抜けるには山間地帯を通らなければなりません)、九十九里浜で上陸した大量の兵士や戦車が大群で進むには適していませんでした。
また、江戸川・荒川といった、東京の一歩手前の大きな川も米軍の侵入には不適でした。もし川の向こうで日本軍のみならず民間人まで攻撃してきたら、また沖縄戦のような悲惨な戦いとなり、民間人・米軍双方に多大な犠牲が出ることが予想されたからです。
そのため、米軍は九十九里浜は上陸の候補地からは外し、神奈川県の相模湾(さがみわん)を上陸の候補地としました
相模湾(さがみわん)は九十九里浜よりもやや狭いですが、神奈川~東京の区間は特に山間地帯もなく、また元々道路がとてもよく整備されていて進軍しやすいことや、東京に近いこと等、さまざまなメリットから、相模湾を上陸候補地としたわけです。
米軍が、関東地方の地形をいかに研究して把握していたかがわかります。

大網駅(おおあみえき、千葉県大網白里市)からは、東金線(とうがねせん)に乗り換えます。
ここで西へ向かえば、蘇我駅(そがえき、千葉県千葉市)に戻ってきます。

東金線に乗り換えると、東金市(とうがねし)の中心駅である東金駅(とうがねえき、千葉県東金市)を過ぎ、難読駅名としても知られる求名駅(ぐみょうえき、千葉県東金市)に着きます。
やがて、総武本線と合流する駅となる成東駅(なるとうえき、千葉県山武市)に着きます。

千葉県山武市(さんむし)は、山武杉(さんむすぎ)と呼ばれる杉で有名です。
成東(なるとう)という地名は、成田空港の東にあるためまるで「成田の東」と思いがちですが(実際には東というよりも南にある)、実は日本武尊ヤマトタケルノミコト)が日本神話で関東・房総半島を訪れたとき、波がすごく鳴っていたことから鳴濤(なるとう)に由来すると言われています。濤は「波」という意味です。日本武尊と房総半島の関係については、以下の記事でわかりやすく解説しているため、ご覧ください

房総半島一周の旅6 袖ヶ浦・木更津・君津・富津を進む 日本武尊にゆかりある海の地域

成東駅からは総武本線(そうぶほんせん)に乗り換え、引き続き海沿いを北東に進み、銚子(ちょうし)方面を目指します
成東駅から西へ進めば、佐倉市(さくらし)・千葉市(ちばし)・成田市(なりたし)に至ります。
こちらは銚子からの帰りに寄るため、後に解説します。

成東駅を出ると横芝光町(よこしばひかりまち)の駅である横芝駅(よこしばえき)、匝瑳市(そうさし)の駅である八日市場駅(ようかいちばえき)を過ぎます。

やがて干潟駅(ひがたえき、千葉県旭市)を過ぎて、旭駅(あさひえき、千葉県旭市)に着きます。

千葉県旭市(あさひし)の由来は、源平合戦の武将である旭将軍(あさひしょうぐん)・義仲(よしなか)あるいは木曽義仲(きそよしなか)こと源義仲(みなもとのよしなか)にあるともいわれています。

旭市にゆかりある木曽義昌(きそ よしまさ)という人物がおり、彼は長野県の木曽路(きそじ)をルーツとする木曽氏という一族でした。
彼ら木曽氏は旭将軍・義仲の末裔であることを自称しており(真実かどうかについては諸説あります)、その木曽義昌が戦国時代にここ旭市の地に入ってきたのです。

木曽義昌は戦国時代、木曽路から諏訪湖へと抜ける峠道にある「鳥井峠の戦い(とりいとうげのたたかい)」で織田信長側につき、甲斐(山梨)の武田勝頼(かつより)を攻め、追い詰めました。
偉大なる父・武田信玄(しんげん)が滅んだ後、息子の勝頼の代になって1575年の長篠の戦いで織田信長の鉄砲隊に敗れてからは急速に武田氏の力は衰えはじめました。そして美濃(岐阜)・尾張(名古屋)にいた織田信長は、木曽路を通って諏訪(長野)・甲斐(山梨)で待ち受ける武田勝頼を攻めたのでした

鳥井峠の戦い」については以下の記事わかりやすく解説していますので、ご覧ください。

中央線鉄道唱歌 第51番 鳥居峠のトンネルを越える かつて武田勝頼が戦った「鳥居峠の戦い」

話がズレましたが、木曽から千葉・旭に移り住んで来た義昌は、当時存在していた椿の海(つばきのうみ)を干拓(かんたく)し、干潟八万石(ひがたはちまんごく)という大きな農業用地を作り上げました。

椿の海(つばきのうみ)」とは、現在の千葉県旭市に戦国時代まで存在していたといわれる、大きな海のことをいいます。大昔、ある神様がそこに植えてあった椿の木を引き抜いてできただという伝説から、「椿の海」という名前になったそうです。

干拓(かんたく)」とは、海や湖の水を「水門」などて干上がらせ(水を排出して無くし)、陸地を作ることで田んぼ・畑にして農業用地を広げることです。これにより生産量が上がり、幕府の税収アップが期待できるのです。

干潟八万石(ひがたはちまんごく)」とは、先述の木曽義昌が、現在の旭市にあった椿の海を干拓したことでできた陸地・農業用地です。

この干潟八万石に由来する鉄道の駅が、総武本線・干潟駅(ひがたえき、千葉県旭市)です。

なお、旭市の名前の由来になったと思われる旭将軍(あさひしょうぐん)こと源義仲(みなもとのよしなか)は、平安時代末期に行われた源平合戦のときに、破竹の勢いで京都に入ってきた武将です。
彼は長野県出ると木曽の宮ノ越(みやのこし)で生まれたので、木曽義仲(きそよしなか)とも呼ばれます。
京都に入ってきたとき、彼は東の方から「まるで朝日が昇るようにやってきた」ので、「朝日将軍」または「旭将軍」の異名がつきました。

義仲については以下の記事で詳しくわかりやすく解説しておりますので、以下のページをご覧ください

鉄道唱歌 東海道編 第41番 粟津と木曽義仲 朝日将軍と呼ばれた武将の悲劇の最期

なお、私(筆者)は義仲を尊敬しておりますので、筆者のハンドルネーム(あさひ)も、旭将軍・義仲に由来しています(^^;)

旭市は大原幽学(おおはら ゆうがく)という人物にもゆかりある場所です。
大原幽学は江戸時代に、人々に農業を教えたりました。
しかしそれも虚しく、残念ながら幕府の迫害にあい、失意のうちに自殺するという悲劇の最期となってしまいました

旭市は農業において、千葉県内一位の収穫高を誇ります。
このあたりは「近郊農業」も盛んです。
近郊農業とは、東京などの大都市に近い場所で行う農業です。
東京に近いことから、消費人口の多い東京は素晴らしいマーケットになり、たくさんの野菜を売ることができるというメリットがあります。
また、出荷に時間やコストもかからないため、高い鮮度を保てるというメリットもあります。

旭駅を出ると、次は銚子(ちょうし)に止まります!

注意
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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