鉄道唱歌 東海道編 第4番 大森を過ぎ、多摩川を渡り川崎へ

まずは原文から!

梅に名をえし大森(おおもり)を
すぐれば早も川崎(かわさき)の
大師河原(だいしがわら)は程(ほど)ちかし
急げや電氣(でんき)の道すぐに

さらに読みやすく!

梅に名をえし大森(おおもり)を
すぐれば早も川崎(かわさき)の
大師河原(だいしがわら)は程(ほど)ちかし(近し)
急げや電気の道すぐに

さあ、歌ってみよう!

♪うーめになおえし おおもりをー
♪すぐればはやもー かわさきのー
♪だーいしがわらは ほどちかしー
♪いそげやでんきの みちすぐにー

(東海道線)
新橋駅→高輪ゲートウェイ駅→品川駅→大森駅→川崎駅→鶴見駅→東神奈川駅→横浜駅→大船駅→藤沢駅→大磯駅→国府津駅(→小田原駅・熱海駅)

※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ抜粋
※鉄道唱歌の当時の「神奈川駅」と、現在の「東神奈川駅」は別の駅
※小田原駅・熱海駅は鉄道唱歌の当時のルートには含まれない

品川駅を出て、大森駅へ

品川駅を出て東海道線を南下すると、あの大森貝塚(おおもりかいづか)で有名な大森駅(おおもりえき、東京都大田区)に到着します。

大森駅(東京都大田区)
大森駅(東京都大田区)

大森はかつて「梅の名所」だった?歌詞の意味を考察

歌詞には「梅に名をえし大森を」とありますが、私(筆者)が実際に大森駅周辺で梅の名所や名所旧跡がないか、ネットを駆使したり現地を探し回ったりしましたが、結果的に見つかりませんでした。
例えば、もしかしたら「大森梅歴史博物館」「大森梅農場跡地」のような観光地があるのかな、と心の中では期待してて、あったら是非行こうかなと思っていたんですけど、残念がながらなかったようです(^^;

また「梅」は学問の神様・菅原道真公を表す隠語なのかな、など色々考えましたが、この地域(東日本)は菅原道真公とはほぼ縁(えん)も縁(ゆかり)もない地域ですし、さすがにそれは考えすぎでした。

鉄道唱歌ができた当時は、もしかしたら大森は梅の名所だったのかもしれません。

大森貝塚

大森で有名なものは、何といっても「大森貝塚(おおもりかいづか)」です。社会科の歴史の授業で習って知っている人も多いと思います。

大森貝塚(おおもりかいづか)は、縄文時代の人々が食べた貝殻を捨てていた場所です。では、なぜここに貝塚があるのか、そもそもなぜここで貝が採れたのか、不思議に思いますよね。

東京湾の海面は、時代によって高くなったり低くなったりと、大きく変化しています。これによって、海岸線が内陸部にまで来たり、またその逆になったりするのです。江戸城近隣の日比谷入江(ひびやいりえ)など、埋め立てによって現在の海岸線と異なるケースもあります。

例えば、江戸幕府が開かれた当時は、東京湾の海面が高く、江戸城のあるあたりまで海岸が来ていたようで、この入江は先ほど言及た「日比谷入江(ひびやいりえ)」と呼ばれていました。
江戸」という名前は、「入江の戸口」という意味から由来しているようです(諸説あり)。
この地域は埋め立てによって、海岸線は遠くなりました。

また、鉄道唱歌奥州・磐城編第4番「浦和に浦は無けれども~」のくだりでも解説したように、埼玉県の「浦和には浦がないのに、なぜ浦和なの?」っていう疑問もあると思いますが、古代は東京湾の海面が高く、埼玉県さいたま市見沼(みぬま)あたりまで海岸線がきていたようで(奥東京湾)、浦和には本当に浦があったようです(諸説あり)。

このように、東京湾の海面は時代によって上下するので、現在の海岸線と異なる場合が多いのです。

ここまでの説明でもうなんとなくわかると思いますが、大森貝塚のある地域には縄文時代に海岸線があったと考えられ、ここで縄文時代の人々が貝を捕って食べていたから、ここに貝塚が出来たわけですね。

余談ですが、近くに海も川もないのに、「~海」「~川」「~島」といった地名がある場合は、海や川が埋め立てられて存在しなくなっているのに、地名だけはそのまま残ってる、といったケースも多いです。

なぜ大森貝塚は発見された?

大森貝塚が発見されたのは明治時代に入ってアメリカのモーセという学者によって、列車の窓から1877年に発見されました。

なぜこうなったのかというと、当時のメイン道路である東海道は大森貝塚の東約500mの位置を通っているので、長年ここが人によって発見される機会がなく、人々の注意関心が向かなかったことや、1872年の鉄道開通によってこの区間を人々が往来する機会が増えたこと、さらに学者ならではの肥えた目線によって、「ん?あれは何だ!?もしや!?」という結果に繋がった、など色々要因は考えられるでしょう。
(上記はあくまで私の予想であり、これらを記した参考文献や資料などが決してあったわけではないので、ご注意願います。)
普通の人が気付かないことでも、専門家の目線でみれば気付くことってありますから、このモーセという学者さんは貝塚を発見するなど選球眼に長けていたのでしょうね。

東海道線と旧・東海道は、離れた位置を走っている

なぜ東海道線が旧東海道と離れた位置に線路が引かれたのかについては、恐らく汽車が吐き出す煙に配慮してのことでしょう。いわゆる「鉄道忌避説(てつどうきひせつ)」と呼ばれるものです。
当初の鉄道はどちらかというと煙を嫌う人々によって嫌がられ、駅や線路を街中(特に宿場町)に引こうとすると反対運動などが起こり、結果的に宿場町(街の中心部)と離れた場所に駅を設置してしまう。しかし、時代が進み徐々に汽車が電車に置き換わってくると、もはや煙は関係ないので、今度は一転して鉄道開通歓迎モードに変わる。そして、駅周辺は盛り上がりどんどん商業施設が建ち並ぶ一方、駅に離れた位置にある宿場町は取り残され衰退してしまう・・・。こうした皮肉な結果を招いてしまいます。東海道線は日本で最も古い鉄道路線なので、東海道線沿線の街ではこうした例はよくあることなんですよね。

全国各地に「なぜ街の中心部に駅がないの!?」といった例は数多くあると思いますが、理由の1つとして上記のような歴史的事情があったことがおわかりいただけるかと思います。他には街の中心部に線路を通すとカーブがきつくなる、既に市街地が形成されていて用地買収ができなかった、など理由は他にもあると思います。

多摩川を渡り、神奈川県に入る 川崎市へ

話がだいぶ長くなりすみません。

大森駅を過ぎると、蒲田駅(かまたえき、東京都大田区)を過ぎて、東京都と神奈川県の県境をなす多摩川(たまがわ)を渡り、川崎駅(神奈川県川崎市)に入ります。

多摩川(たまがわ)は古くからとにかく荒れまくって氾濫する川として知られ、多摩川にかかる橋は歴史的に何度も流されています。
橋をかけてもかけても流されるので、江戸時代にはとうとう橋がかけられなくなりました(江戸時代は軍事上の理由から橋については厳しかったかったですから、その理由もあるかもしれません)。

橋をかけられないので、その代わりに「六郷の渡し(ろくごうのわたし)」といって、渡し船(わたしぶね)で人々の往来を支えていたのでした。ちなみに六郷とは、東京都大田区の多摩川付近の地名です。

歌詞にあるように、川崎駅(かわさきえき、神奈川県川崎市)についたら、京浜急行大師線(だいしせん)に乗り換えて、川崎大師(かわさきだいし)の観光に向かいます。

川崎駅(神奈川県川崎市)

関東初の「電車」だった、京浜急行・大師線 川崎大師への路線

京浜急行大師線(だいしせん)は、京浜急行史上初の路線(発祥地。1899年開通)であり、関東地方初の「電車」として知られています。
それまでは「汽車」がメインでしたからね。
歌詞でも「急げや電気の道すぐに」とあります。
大師線は、川崎大師方面への観光・参拝をする多くのお客様を乗せるために開通した鉄道路線ということになります。
この鉄道路線が大変賑わったため、京浜急行はどんどん発展していくことになります。
そして、大師線による川崎大師への参拝が大変賑わったため、それまでは初詣は地元の神社仏閣で済ませるのが常識だったのが、「電車で初詣に行く」という文化を作り、初詣の常識が見事に変わったそうです。
私も、「初詣は電車で静岡県の浅間神社に行く!」ということをよくやるので、そういう文化の起源がこの大師線にあるのかと思うと、とても興味深いですね。

川崎大師(かわさきだいし)は非常に歴史の古いお寺ですが、江戸時代に徳川将軍が「厄除け」のために訪れたことで全国的に有名になり、「厄除け」のお寺として有名です。
厄除けの他、商売繁盛などにもご利益があります。
また、川崎大師周辺は様々なお店が建ち並ぶ門前町が形成されていて一大観光地としても楽しむことができますので、川崎に来られた場合はぜひ川崎大師に立ち寄ってみましょう。

川崎駅に戻ったら、再び東海道線に乗り、横浜方面へ進んでいきましょう!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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