今回の房総半島の旅は、江戸時代から成田参詣で栄え、また現在は日本の玄関口・成田空港のある成田市の旅になります!そしてこの地域の旅行を楽しむための豆知識を、わかりやすく解説します!
(総武本線)
銚子駅→松岸駅
(成田線)
松岸駅→香取駅→成田駅→酒々井駅→佐倉駅
(総武本線)
佐倉駅→四街道駅→都賀駅→東千葉駅→千葉駅
※上記は全ての駅ではなく、スペースの都合上筆者が独断でピックアップしたもの
佐原駅(さわらえき、千葉県香取市)を成田線(なりたせん)をさらに南下すると、前回解説した印旛沼(いんばぬま)の東を通り、やがて成田駅(なりたえき、千葉県成田市)へ着きます。
千葉県成田市(なりたし)は、成田山新勝寺(なりたさんしんしょうじ)と、また成田空港(なりたくうこう)の存在で知られます。
成田駅からは成田空港へと続く、空港支線が分岐していています。
この空港支線は、まるで新幹線の線路のような高架の上を通ります。それは元々「成田新幹線」を通す予定だったからです。
結局、成田新幹線は反対運動などにあったたに、実現しませんでした。
なぜ成田新幹線が実現しなかったのか、その理由については、詳しくは以下の記事の後半あたりに書いていますので、ご覧ください。
房総半島一周の旅1 東京を出発! 房総半島一周の旅へ(東京→葛西臨海公園)
成田は先述の通り、成田山新勝寺の存在で有名です。
昔(江戸時代頃まで)は成田参拝(なりたさんけい)といって、成田の不動権現(成田不動尊)に参拝する、というブームのようなものがありました。不動尊(不動権現)とは、見た目は怖いけど心の優しい仏様のことであり、また人々を煩悩(ぼんのう)から救ってくださる仏様のことです。煩悩とは、例えば「彼氏(彼女)欲しいなぁ~」「金持ちになりたいなぁ~」というなかなか叶いにくい欲求のために満たされない苦しみのことをいいます。
成田山新勝寺(しんしょうじ)は、平安時代の「平将門の乱(たいらのまさかどのらん)」を静めるために作られたお寺になります。
昔の人は現在の我々よりも「仏様の力」の存在を信じており、また現代よりも犯罪・争い・飢餓・飢饉・疫病などの多かった当時は「仏様に不安から救済されたい」という思いがありましたから、江戸時代は特にお寺や神社に通う(また、それに伴う旅や観光を行う)ことは、もはや人々の間ではブームや流行りのようにすらなっていました。
他にも江戸時代のメインなお参りで有名どころだと、三重県の伊勢神宮に参拝する「お伊勢参り」や、長野県の善光寺(ぜんこうじ)に参拝する「善光寺参り」などがあります。これらのお参りは、当時の人々にとっては「一生に一度は行きたい」ものでした。当時は新幹線も飛行機もなく、東海道や中山道(なかせんどう)のような徒歩での道路しかありませんでしたから、お参りに行くだけでも気の遠くなるような長さと苦労だったわけですね。
成田の場合も、成田山新勝寺に通うために、江戸幕府によって「成田街道(なりたかいどう)」という道が整備されていました。
街道とはいっても現代のような舗装された綺麗な道ではなく、当時は砂利(じゃり)などで現在のように舗装されていないような道でした(それでも当時としては綺麗で広くて画期的な道でした)。
まあ、車が無かった当時は人が通れれば充分だった時代なので、多少デコボコしている道でもOKだった、というわけでしょう。
その成田参拝の途中には宿場町がありました。旅人たちは何日もかけて徒歩(または馬で向かうという仕組みなので、途中で泊まるための町が必要でした。おもな宿場町は、市川市(いちかわし)や船橋市(ふなばしし)、佐倉市(さくらし)などにありました。そして成田街道は千葉市は経由しておらず、千葉市北部の八千代市(やちよし)の大和田(おおわだ)という町を通っていました。なので、JR総武本線よりも、むしろやや北を通る京成本線(けいせいほんせん)の方がかつての成田街道に準拠したルートを通っているといえます。
このように、JR線よりも私鉄路線の方が、かつての江戸時代の街道に準拠したルートになっていることも多いです。例えば京王線(けいおんせん)であれば甲州街道(こうしゅうかいどう)のルートを通っていますし、東武伊勢崎線(とうぶいせさきせん)であれば奥州街道・日光街道の宿場町をカバーしています。さらに、京浜急行(品川~川崎)や名鉄線(豊橋~名古屋)であれば東海道に沿ったルートになっています。
この理由については、おそらくですが明治時代に鉄道建設(現在のJR線に該当する線路の建設)があった頃に、宿場町が線路建設を反対したために、旧街道沿いに線路が建設されなかったことが挙げられます。
ではなぜ宿場町が線路建設に反対したのかというと、鉄道という新しい交通手段が登場すると、それまで宿場町を利用していた旅人たちが泊まらなくなる恐れ(鉄道だと早く着くため、宿場に泊まる必要性が無くなる)があったからです。あるいは、宿場町が鉄道の吐く煙を嫌った、という「鉄道忌避説」など様々な説が言われていますが、理由は定かではありません。
しかし、明治時代の終わりになると鉄道駅が建設されなかった町は衰退するという現象が起きたため(町は人々が集まりやすい駅前を中心に発展していったため)、衰退したかつての宿場町を救済するために後の私鉄路線となる(先述の)線路が建設されたものと考えられます。
成田空港(前・新東京国際空港)は、1978年に開港しました。関西国際空港などと並んで、現在の日本の玄関口となる空港です。
成田空港の建設計画ができたのは1960年代の高度経済成長期のことであり、当時の羽田空港(東京国際空港)が人口増・利用者増に対応しきれずもはや限界を迎えており、新しい空港を造る必要に迫られていたからでした。
当時の日本(特に東京)は人口が爆発的に増加しており、飛行機や滑走路の数が足りずに羽田空港がパンパンに逼迫(ひっぱく)していたため、新たに空港を新設する必要があったからなのでした。
しかし、新しい空港の候補地となった成田市・富里市(とみさとし)・芝山町(しばやまちょう)といった地域は、戦後の荒廃した日本の時期からようやく農業で建て直しをしようとしていた時期でした。しかし、そこへ国からなかば強制的かつ一方的に、またまともな事前説明もなく空港建設が決まってしまいました。
せっかく地元の農業がうまくいきだしたのに、そこに空港の建設が決まってしまっては、地元の農家からすればたまったものではありません。
これでは当然のように、農家の人達は怒ります。
そのため、成田空港は計画当初から大きな反対運動があり、空港近くの三里塚(さんりづか)という地域をメインに過激な反対運動に発展したりしました。
しかし、当初は農民の反対運動だったはずが、いつしか学生運動や政治団体、政治家までが介入してきて、出動した警察官までが反対派に襲撃されて犠牲になるほどの、文字通り血まみれ(辺りの地面が負傷者の血で塗られてしまうほど)の騒ぎになってしまいました。
1960年代~1970年代の当時は「学生運動」や「安保闘争」などといって、特に学生などの若い人達が、政府や警察などの国家権力に反抗するために、武器を手にとって(武装して)激しい暴力的な抗争を繰り広げたのでした。それによって、警察官にも多くの殉職者(職務中に負傷して死亡すること)が出たりもしました。
現代の日本ではまずこのような事は起こりません(こんな国家に対して反逆するような騒ぎを起こせば、まず死刑か無期懲役です)が、その代わり現代ではSNSやインターネットなどを介した政治への批判が辛辣(しんらつ)な世の中であるともいえます。
そのため成田空港の近くには、現代でも反対派の拠点などの跡地が残っていたりします。
また、反対派の拠点(小屋)が滑走路の建設を妨害したために、成田空港の滑走路は小屋を避けて曲がっている部分があったりもします。
皆さんは成田空港の問題についてどう思うでしょうか。
空港建設のために無理やり農地を取られた人達を可哀想だと思うか、それとも国の交通や経済の発展のために空港建設はやむを得ない事だったと思うか、人によって意見は様々だと思います。
成田駅を出ると、次は佐倉(さくら)・千葉方面へ向かいます!
注意
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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