今回の房総半島の旅は、江戸時代には千葉県北部の中心地だった佐倉市と、現在の千葉県の県庁所在地である千葉市の旅になります!そしてこの地域の旅行を楽しむための豆知識を、わかりやすく解説します!
(総武本線)
銚子駅→松岸駅
(成田線)
松岸駅→香取駅→成田駅→酒々井駅→佐倉駅
(総武本線)
佐倉駅→四街道駅→都賀駅→東千葉駅→千葉駅
※上記は全ての駅ではなく、スペースの都合上筆者が独断でピックアップしたもの
成田駅(なりたえき、千葉県成田市)を出て成田線(なりたせん)を南下すると、総武本線(そうぶほんせん)との合流点である佐倉駅(さくらえき、千葉県佐倉市)に着きます。
千葉県佐倉市(さくらし)は、江戸時代には佐倉藩(さくらはん)の藩庁が置かれたほどの重要な町でした。
現在の千葉県北部の中心地はいうまでもなく県庁所在地の千葉市ですが、当時の都(みやこ)は佐倉にあった、というイメージです。
また、江戸時代の佐倉には佐倉惣五郎(さくら そうごろう)という英雄がいました。彼は貧困に苦しむ農民を救うために、なんと幕府に対して直訴(じきそ。直接不満を訴えること)しましたが、幕府に対する反逆とみなされ、無念にも処刑されてしまったのです。
佐倉駅を出ると、今回の旅では松岸駅(まつぎしえき、千葉県銚子市)以来の総武本線へ再び乗り換えます。
そして総武本線を南西に進むと、千葉県の県庁所在地の千葉市の中心駅・千葉駅(ちばえき)へ着きます。
千葉市は、西は東京・南は房総半島への入口のため、交通の要衝(ようしょう)であるともいえます。
千葉駅には「発車メロディ」が無いことで知られます。
関東地方・首都圏の駅には比較的どこも発車メロディが採用されているわけですが、千葉駅には無いのですね。これはかつて駅周辺の地域から騒音の苦情があったため、とも言われています。
千葉は元々、鎌倉時代に源頼朝(よりとも)からとても信頼されていた千葉氏(ちばし)の天下でした。
千葉氏は、源頼朝が房総半島に逃れて上陸した際に、いち早く頼朝の味方につき、頼朝の平氏打倒と鎌倉幕府の設立に大きく貢献しました。
頼朝は神奈川県の「石橋山の戦い」で敗れた後、平氏の追っ手から逃れて房総半島へ上陸したのです。
源頼朝が房総半島へ上陸した経緯については、以下の記事でわかりやすく解説しているため、ご覧ください。
房総半島一周の旅8 源頼朝ゆかりの地、安房勝山へ はるばる海を渡ってきた土地
房総半島に上陸した頼朝は、平氏に不満を持つ武士達を次々に味方につけていったのでした。その中でも真っ先に頼朝の味方についたのが、この千葉氏だったわけです。
そして千葉氏は平氏の打倒と鎌倉幕府の成立に大きく貢献したため、頼朝によって深く信頼されることになりました。その結果、千葉氏は鎌倉時代には優遇され全盛期を極めました。
しかし室町時代になると千葉氏は内部分裂を繰り返すなどしたためにその勢いは衰えはじめ、戦国時代には相模国(さがみのくに。現在の神奈川県西部)の後北条氏(ごほうじょうし)の下について支援する立場となりました。
戦国時代の関東地方には先述の後北条氏が勢いづいてきたため、先述の通り千葉氏は後北条氏の下につき、後北条氏が房総半島に進出してくるためのお手伝いをしました。
それを房総半島で迎え撃ったのが、館山市(たてやまし)でお馴染みの里見氏(さとみし)です。
後北条氏と里見氏は千葉県市川市(いちかわし)の国府台(こうのだい)で激突しました(第二次国府台合戦)。
しかし里見氏は敗れ、下総国(=千葉県北部)を後北条氏に明け渡して支配される形となってしまいます。さらに里見氏は、1590年の豊臣秀吉が後北条氏を攻めた小田原攻めのときに遅れてやってきたことで秀吉の怒りを買い、上総国まで没収され、安房国(あわのくに)一国の支配となっています。
この小田原攻めにおいて、豊臣秀吉は得意技の兵糧攻めによって小田原城は陥落し、後北条氏は滅亡、豊臣秀吉は(大名がバラバラで群雄割拠だった)戦国の世をまとめ上げ、天下統一を達成しました。しかし先述の通り後北条氏の下についていた千葉氏でしたが、後北条氏が滅ぼされたことによって千葉氏もここに断絶してしまうことになります。
また千葉市には、小弓公方(おゆみくぼう)という戦国時代の武士の拠点がありました。
小弓(おゆみ)は現代では「おゆみ野」としてその地名が残っており、現在の蘇我駅の一つ隣・鎌取駅(かまとりえき)のあたりになります。
戦国時代は、関東地方でも武士の反乱が凄かったのです。
戦国時代の戦いの舞台といえば京都の「応仁の乱」にはじまり、織田信長をはじめとする尾張(名古屋)・信濃(長野県)・甲斐(山梨県)あたりが思い浮かびがちですが、関東地方や房総半島でも争いは絶えないものでした。
それは室町時代の関東管領(かんとんかんれい)と室町幕府が対立していたことにはじまります。
関東管領(かんとうかんれい)とは、室町幕府が関東地方に設置した、関東地方の武士たちを監視するために設置した機関です。それは関東の武士に反乱を起こされ、室町幕府を滅ぼされたらたまったもんじゃないからです。
御存じの通り、室町時代の一つ前の時代は、鎌倉時代です。
鎌倉幕府の場所は、現在の神奈川県鎌倉市であり、つまり関東地方に幕府が存在しました。
そのため、鎌倉幕府の残党の武士たちが結託して好き勝手に関東地方を暴れて支配したり、また京都にある室町幕府に逆らって一致団結して攻めてきたりすることのないよう、関東管領を設置して監視していたのです。
しかし、この関東地方の監視もうまくいきませんでした。
室町時代の中頃にかかると、徐々に足利将軍家まわりの権威が揺らぎはじめます。
それは将軍に政治に興味が無かったりやる気が無かったりして、また贅沢三昧(ざんまい)もしていたため、周囲からの信頼はガタ落ちとなってしまい、
「こんな将軍に政治など任せられん!」
という具合に、常に政権争いばかりになってしまっていました。
中央(幕府)が政権争いばかりになると、国内を良くすること(政治)に時間をかけるよりも、ライバルを蹴落として政権を奪うことばかりに時間をかけてしまうため、余計に政治が不安定となり腐敗していってしまいます。
そのため、室町幕府の求心力がゆらぐと、関東管領も幕府に逆らうようになってゆきます。
関東管領では、あの越後(新潟県)の上杉謙信で有名な上杉氏が世襲(つまり、親から子どもへ職を受け継ぐのが繰り返されること)していました。
その上杉氏を、室町幕府の味方である足利家が殺してしまう事件が起きたのです。
これを「享徳の乱(きょうとくのらん)」といい、これが関東地方の戦国時代の幕開けとされています。
足利家は室町幕府=京都のイメージが強いですが、元々は北関東・栃木県(現在の足利市)の出身です。
なので関東地方にも室町幕府の味方である足利氏がいたのでした。
その足利氏(=室町幕府の味方)が、室町幕府に逆らう関東管領のトップ・上杉氏を殺した、というイメージになります。
また、その関東管領の内部でも政権争いするようになって、関東管領は分裂してしまい、茨城県の古河公方(こがくぼう)や、伊豆の堀越公方(ほりごえくぼう)などに分裂してしまいます。
室町幕府がもう少ししっかりして全国をまとめていればよかったのですが、京都でも1467年の「応仁の乱」をきっかけに戦国時代に突入してしまいました。この応仁の乱も、将軍の足利義政(よしまさ)の頼りなさと優柔不断によって引き起こされた戦乱です(ただし、義政は文化に関しては天才だった)。
室町幕府が機能不全に陥り日本をまとめるトップが事実上いないため、全国各地で大名が好き勝手やる時代の到来です。
この時代はまさに(カッコよく言えば)群雄割拠、悪くいえばカオスな戦乱の世の中になってしまっています。
人間の権力欲・支配欲というものは、ヤバイくらいスゴイですよね。
男性は権力者になれば美人と結婚してたくさん子孫を残せるのですから、当然といえば当然なのかもしれません。
逆に権力争いで負けたら、一気に没落して子孫を残せず、自分が末代(まつだい)となる可能性だってあったわけです。
ちなみに江戸時代には、参勤交代によって地方の大名の財力を削ぐ、定期的に江戸に大名がやってきて将軍との主従関係の再確認を行う・信頼関係を構築するということが行われていたため、先程のように室町幕府と鎌倉が対立するというような幕府への反乱は起こりませんでした。それによって江戸時代は約260年の平和な世の中となり、江戸幕府は室町幕府の問題点を解消し、反省点を生かしていた幕府だった、ともいえます。
こうして房総半島でも戦国時代に突入し、先述の通り後に館山市を支配することになる安房里見氏(あわさとみし)なとの勢力が台頭してきました。
安房里見氏については、以下の記事にてわかりやすく解説しているため、ご覧ください。
房総半島一周の旅9 館山へ到着!安房里見氏、そしてX JAPANにゆかりある土地
千葉駅を出ると、次は津田沼(つだぬま)・船橋(ふなばし)に止まります!
注意
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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