房総半島一周の旅24 江戸川・荒川・隅田川を渡る 錦糸町・両国と、明暦の大火の歴史とのあゆみ

今回は千葉県の旅をめでたく終え、東京へ戻ってゆく行程となります江戸川・荒川・隅田川を渡り、錦糸町・両国・浅草橋という地域に至ります。この地域の歴史などの豆知識を、わかりやすく解説します!

(総武本線)
千葉駅→稲毛駅→新検見川駅→幕張駅→津田沼駅→船橋駅→市川駅→(江戸川)→新小岩駅→(荒川)→平井駅→亀戸駅→錦糸町駅→両国駅→(隅田川)→浅草橋駅→秋葉原駅

※上記は全ての駅ではなく、スペースの都合上筆者が独断でピックアップしたもの
※錦糸町駅からは「支線」扱いであり、運転系統は「中央・総武線」となる

市川駅(いちかわえき、千葉県市川市)を過ぎると、再び東京都へ戻ってきます

市川駅を出ると、千葉県と東京都の県境をなす江戸川(えどがわ)を渡ります
この江戸川を渡ると、東京都に入るわけです。
今回の旅では、本当に久しぶりの東京都ということになります。
思えば葛西臨海公園駅(かさいりんかいこうえんえき、東京江戸川区)を過ぎて、東京ディズニーランドの最寄駅である舞浜駅(まいはまえき、千葉県浦安市)に入ってから以来ですね。

その時の記事は房総半島の旅の第2回になりますので、まだ見られていない方は以下の記事是非ご覧ください

房総半島一周の旅2 葛西臨海公園に到着!東京の貴重な海の景色 そして飛び交う飛行機

江戸川(えどがわ)は、元々は栃木県を流れる渡良瀬川(わたらせがわ)の下流部分であり、その下流部分は太日川(ふといがわ)という名前でした。
渡良瀬川(わたらせがわ)とは、主に栃木県を流れる川です。
つまり栃木県を流れる渡良瀬川は、下流部分で太日川と名前を変え、東京湾に注いでいたのです。

ちなみに現在の渡良瀬川は、茨城県古河市(こがし)のあたりで利根川(とねがわ)と合流して、東の銚子(ちょうし)へ注いでいます。
これは江戸時代になって、銚子へと注ぐように、東へと(幕府による工事によって)大きくルートを変更されたことが理由です。
これを利根川東遷事業(とねがわとうせんじぎょう)といいます。銚子利根川の関係については、以下の記事でもわかりやすく解説しておりますので、ご覧ください

房総半島一周の旅17 銚子へ到着!国内屈指の水産都市

現代の江戸川は、茨城県南部の境町(さかいまち)のあたりで利根川と分岐して南へ流れ、東京湾に注ぎます。

つまり渡良瀬川は、いったん利根川と合流し、さらに江戸川と分岐するので、現在でも渡良瀬川は(トータルでは)江戸川となって東京湾に注ぐ川である、ともいえます。利根川を間に挟むかを省けば、江戸時代までの(先述の)太日川とよばれていた時期と同じで東京湾に注ぐ川です。

このように江戸時代には、人々を洪水の被害から救うため、また舟による水運(荷物を運ぶこと)で舟が関東地方を自在に行き交うことができるようにするため川のルート人為的な工事によってたくさん変更されているのです。
ここでは、江戸時代以前と現在では川(渡良瀬川・利根川・江戸川)のルートが異なっていた、ことを知っておくとよいでしょう。

東京都に入るとほどなくして、小岩駅(こいわえき、東京都江戸川区)・新小岩駅(しんこいわえき、東京都葛飾区)と過ぎます。新小岩駅を過ぎると、荒川(あらかわ)を渡ります。

荒川(あらかわ)は、元々は現在の隅田川(すみだがわ)でした。つまり現在の隅田川は、明治時代までは「荒川」だったのです。
そこに新たに「荒川放水路」という、洪水に備えたより大きく真っ直ぐな川が作られて、そちらが荒川の本流となったわけでした。放水路(ほうすいろ)とは、洪水に備えて一時的に水を退避させるための、人工的な川です。
その荒川放水路が明治時代に出来たことに伴い、後から出来た放水路の方がメインの「荒川」という扱いとなり、元々メインだった方の荒川は後に「隅田川」に改められたのです。

ではなぜ荒川放水路が作られたのかというと、明治43年(1910年)大規模な氾濫をおこし甚大な被害が出てしまったことがきっかけです。
詳しくは、以下の記事をご覧ください。

鉄道唱歌 奥州・磐城編 第3番 赤羽を過ぎて、荒川の橋を渡る

荒川を渡ると、平井駅(ひらいえき、東京都江戸川区)・亀戸駅(かめいどえき、東京都江東区)・錦糸町駅(きんちしょうえき、東京都墨田区)と過ぎてゆきます。

亀戸は「かめいど」と読みます。いわゆる難読地名にあたるかもしれないので、「かめど」と読まないように気をつけたいところです。

錦糸町駅からは秋葉原方面へと向かうため、各駅停車でイエローのカラーである中央・総武線に乗り換えて向かうことになります。
ここで総武線快速にそのまま乗っていると、東京駅に戻ってしまい秋葉原駅に着くことができません。ただし、もし東京駅まで行ってしまった場合でも、青春18きっぷまたは北海道&東日本パスならば、山手線(または京浜東北線)に乗り換えれば2駅で秋葉原駅に着くことができます

したがって、東京駅ではなく秋葉原駅に向かいたい場合は、この錦糸町駅で乗り過ごさないようにしましょう

錦糸町駅のホームからは、東京スカイツリーの姿がとてもよく見えることになります。

東京スカイツリーは、東京の様々なビルが高層化したため、高さが足りなくなり電波が届きにくくなった影響を受けて、建設されました。
つまり東京スカイツリーは、634mという非常に高いところから、東京都中に(テレビラジオなどの)電波を届けるために建設されたわけです。
元々は1958年に出来た東京タワー(高さ333メートル)でも高さは充分に足りていたのですが、時代とともに東京都心部に高層ビルが増えてゆき、タワーが飛ばす電波がビルに遮(さえぎ)られるようになったためにスカイツリーができたのでした。

東京スカイツリーは、隅田川(すみだがわ)にかかる浅草駅(あさくさえき、東京都台東区)付近の吾妻橋(あがつまばし)からの眺めがとてもよいです。写真は、吾妻橋の北にある東武伊勢崎線(とうぶいせさきせん)の線路付近からのものです。

隅田川からの東京スカイツリーの眺め。東武伊勢崎線の付近より。(東京都台東区)

東京スカイツリーの高さは、634mになります。ムサシ(武蔵)とも読めるため、おぼえやすいですね。実際、日本人にとって馴染みある名前と合わせるため、あえてこの高さ(634m)になった、ともされています。
なお武蔵(むさし)とは武蔵国(むさしのくに)のことであり、現在の東京都・埼玉県神奈川県の一部に該当するエリアのことをいいます。
(くに)とは奈良時代の律令制におけるエリア分けのことであり、現代の都道府県に該当します。

東京スカイツリーと同じ高さの山に、山梨県大月市(おおつきし)の岩殿山(いわどのやま、標高634m)や、新潟県の弥彦山(やひこやま、標高634m)があります。
これらの山の詳細については、以下の記事でもわかりやすく解説しているため、ご覧ください

中央線鉄道唱歌 第15番 大月の名所・岩殿山 主君・武田勝頼に背いた部下とは

鉄道唱歌 北陸編 第39番 三条からは弥彦線に乗り換え、弥彦神社へ 祈るは国の(皆の)平和のため

錦糸町駅は、元々は「本所駅(ほんじょえき)」と呼ばれていました。現在でも本所(ほんじょ)という地名が錦糸町駅のやや北に残っています。
本所と南の深川(ふかがわ)は、1657年に江戸で起きた明暦の大火(めいれきのたいか)とよばれる大火災で住む場所を失った人々が逃れてきたことで、新たに発展してきた歴史ある街です
深川は、江戸時代に松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅をスタートさせた場所でもあります。

ちなみに錦糸町駅からそのまま南西に向かうと、馬喰町(ばくろうちょう)というエリアがあります。

馬喰町(ばくろうちょう)は、江戸時代に馬の栄養を与えていたことが由来の町となります。
馬喰町の地名(の漢字)をよく見ると、「馬を食わせる」ですから、確かにわかりますね。

江戸時代の交通手段はまたは徒歩がメインだったため、馬のエサやりや、疲れた馬の交換・手入れ馬の休憩などの馬のメンテナンスはとても重要だったのです
だったらガソリンを補給したり、傷んだ箇所メンテナンスしたり、車検を行ったりするのと同じですね。

近隣にある伝馬町(てんまちょう)という地名も、やはりに関連する地名になります。
伝馬町は、その昔に馬を交換していたことに由来します。
馬は何10kmも(当時の言い方であれば何”(り)”も)走ると疲れてしまうため、長距離移動するときは「」とよばれる場所で、馬の交換をしていたのでした
」で新しい馬と交換して、引き続き旅・移動を続けるイメージです。
まるでタスキをつないで走る「駅伝」みたいですね。お正月の箱根駅伝みたいな。そう、もうお気づきだと思いますが、これが「駅伝」の由来です
この馬を交換する行為を「伝馬(てんま)」「駅伝」などのようにいい、先述の陸上競技の一つ「駅伝」の由来となっています。

錦糸町駅から中央・総武線秋葉原方面へと向かうと、やがて両国駅(りょうごくえき、東京都墨田区)に着きます。

両国(りょうごく)とは、武蔵国(むさしのくに)と下総国(しもうさのくに)の両方の国にかけられた橋である「両国橋(りょうごくばし)」に由来します。

武蔵国(むさしのくに):現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部(横浜市あたりなど)

下総国(しもうさのくに):千葉県の北部

とは先述の通り、今でいう「都道府県」に該当する奈良時代の律令制におけるエリア分けです。

江戸・隅田川(すみだがわ)には元々、やや北の千住大橋(せんじゅおおはし)にしか、橋がかかっていませんでした。
それは恐らくですが、軍事的な理由(全国各地の江戸幕府に不満を持つ大名が反乱を起こし、江戸に攻めて来ないようにするため)や、当時の橋は何度もかけても流されていたため(当時の川は今ほど真っ直ぐでなく氾濫しやすかったことや、橋そのものの耐久性や技術面もあまり良くなかったから)などの理由があります。

しかし江戸時代初期の1657年に、明暦の大火(めいれきのたいか)という大火事がおこりました。

先述の通り、両国(りょうごく)の隅田川には橋がかかっていなかったために、火災が起きても人々は川を渡ることができず、多くの人々が火に巻き込まれてしまい、10万人もの尊い命が奪われてしまいました。

それを幕府が反省したことによって隅田川に新たにかけられた橋が、両国橋(りょうごくばし)というわけです。
両国橋(りょうごくばし)は、千住大橋(せんじゅおおはし)に次ぐ江戸で2番目にできた橋ということになります。
千住大橋(せんじゅおおはし)も、現在の隅田川にかかる、やや北にある橋です。江戸時代には単に「大橋」と呼ばれ、江戸で最初にかけられた橋です。

こうした大火災からの火をよけるために、広小路(ひろこうじ)とよばれる大きな道路や、火除地(ひよけち)と呼ばれる広場が幕府によって設(もう)けられました。
つまり、火災がおきたとき延焼(えんしょう。燃え移ること)を防ぐため、より大きな道ができたのです。この大きな道のことを広小路(ひろこうじ)というわけです。
例えば上野にあるとても大きな道である、上野広小路(うえのひろこうじ)が有名ですね。上野広小路も、明暦の大火で起きた火災から逃れるためにできた大きな道路です。またこの大きな道路は、上野にある寛永寺(かんえいじ)に参拝するたくさんの人々が通るためにも使われてきました。

火事と喧嘩は江戸の花」という言葉があり、江戸(=江戸時代の東京)では木造建築がメインで住宅が密集していたため、ひとたび火事がおこるとあっという間に燃え移るほど、江戸の歴史は火事との戦いそのものでした。しかし大規模な火災が起こるたびに、道を広く、なるべく燃え移りにくいような住宅の構造になるなど、人々の努力は繰り返されてきたわけです

両国(りょうごく)は、お相撲さんの本拠地である国技館(こくぎかん)が有名です。
国技(こくぎ)とは、その国の伝統的なスポーツのことをいいます。例えば日本では相撲であり、カナダではアイスホッケー、スペインでは闘牛、アメリカではフットボールになります。

つまり、相撲は日本の国技であり、国を挙げての伝統的なスポーツということになります。
なぜ相撲が日本でこれだけ重要なスポーツなのかというと、それは古事記(こじき)などの日本神話にその起源が確認できるからです。

つまり相撲の起源は、先述の通り「古事記」などの日本神話にさかのぼります。
それは「大国主命(おおくにぬし)の国譲り」というエピソードにおける、大国主命と天照大神(あまてらすおおかみ)の戦いに由来します。
このとき、「タケミナカタ(大国主命側)」と「タケミカヅチ(天照大神側)」という神様が戦いました。
この戦いがまさに力くらべであり、相撲のようでした。この戦いで大国主命側が敗北したことで、天照大神日本という国をゆずったというエピソードです(これにより、天照大神と神武天皇を祖先とする、日本の天皇による世の中がはじまった)。
また、敗北したタケミナカタは長野県の諏訪(すわ)に封じ込まれ、これが長野県諏訪市の諏訪大社(すわたいしゃ)の起源ともなりました。
さらに詳しいことは、以下の記事でもわかりやすく解説しておりますので、ご覧ください。

中央線鉄道唱歌 第32番 軍神・タケミナカタの鎮座する、諏訪大社の上社

また、両国には江戸の文化についての展示が豊富な「江戸東京博物館」があります。とても勉強になるため、訪れる価値は非常に大きいです。

両国は、47人の赤穂義士(あこうぎし)によって敗れた吉良上野介(きら こうずけのすけ)の邸宅があった場所になります。
地元の兵庫県赤穂市(あこうし)でボス(浅野長矩/あさの ながのり)を殺され(自害に追い込まれて)しまった47人の赤穂義士たちは、両国の吉良邸に侵入し、討ち入りを果たしました。これにより、吉良上野介は滅ぼされてしまいました。
赤穂義士についての詳しくは、以下の記事をご覧ください。

鉄道唱歌 東海道編 第2番 高輪泉岳寺 赤穂義士たちの墓

鉄道唱歌 山陽・九州編 第9番 相生駅から、47人の赤穂義士ゆかりの地へ

隅田川は、滝廉太郎(たき れんたろう)の「」という曲で有名ですね。
滝廉太郎は、他にも「荒城の月」「箱根八里」などの曲で知られます。

両国駅を過ぎると、隅田川を渡り、浅草橋駅(あさくさばしえき、東京都台東区)に着きます。今回の旅のゴールである秋葉原はもうすぐそこです。

浅草橋には、柳橋(やなぎばし)とよばれる花街(かがい)がありました。
花街(かがい)とは、いわゆる遊郭(ゆうかく)で構成される街ということになります。
遊郭(ゆうかく)とは、ダイレクトにいえばお金を払って女性との○行為をやらせてもらえる、というお店のことです。
ただ、遊郭は風紀を乱しやすい(性病も蔓延しやすくなる)ということで、江戸時代では吉原遊郭(よしわらゆうかく)しか幕府によって公認されていませんでした。
しかし吉原遊郭は、実際に女性と体の関係に至るまでには様々な手続きが必要となり面倒であり、しかも立地的に不便で料金も高く手軽さに欠けていたため、あちこちに「岡場所(おかばしょ)」と呼ばれる(より便利で安くて手軽な)幕府非公認の遊郭が存在していました。

もちろん幕府もこうした非公認の遊郭(岡場所)の存在には気づいていたでしょうが、何でもかんでも取り締まってしまうと、世の中の男性たちの性欲の捌(は)け口が無くなってしまい、また切羽(せっぱ)詰(つ)まった女性にとっても稼ぎ口が無くなってしまうことにもつながり、それによって暴動などがおきるよりはマシだったので(鎮圧するにも幕府にとっても多大なコスト)、おそらく幕府としては(表向きは禁止しつつも)黙認していたということでしょう。
しかし、「寛政の改革」で有名な松平定信(まつだいら さだのぶ)や、「天保の改革」で有名な水野忠邦(みずの ただくに)は、これらの改革でやたら厳しい規制を行ったため、こうした岡場所をどんどん取り締まってゆき(エ○本も取り締まった)、人々の楽しみを奪ってゆきます。
なのでこうした厳しい改革による取締りから逃れてきた人々(つまり女性)が花街を形成して出来たのが、浅草橋の柳橋ということになります。

ちなみにこうした厳しい改革への批判は、
白河の清きに魚も住みかねて 元の濁りの田沼恋しき
という歌に代表されます。
田沼(たぬま)とは、松平定信よりも前に政治を行っていた老中・田沼意次(たぬま おきつぐ)のことをいいます。
この歌の意味は、あまりにキレイ過ぎる川では魚は生きていけない(例えば、もし害虫を全部駆除してしまったら、その害虫を食べる動物も生きていけなくなり生態系が乱れるのと同じ)、何でも厳しすぎる世の中はかえって生きづらい、といった内容を歌っています。

ちなみに超余談ですが、江戸時代には藤本箕山(ふじもと きざん)と呼ばれる、日本中の遊郭を旅してまわったという遊郭のスペシャリストがいました。現代でならば遊郭系YouTuberとなっていたでしょう。
元々家が大金持ちだった彼は、遊郭での女性との時間に感動し、すべての財産を遊郭につぎ込んでしまいあっという間に財政破綻してしまいました。もちろん周囲の人々からは馬鹿にされます。
しかし彼は遊郭通いを決して諦めず、不屈の精神で日本の津々浦々の遊郭を探訪し、「色道(しきどう)」として遊郭の素晴らしさを極めます
そして長年の遊郭通いの経験から色道を極めた藤本箕山は、「色道大鏡(しきどうおおかがみ)」という遊郭大百科を制作・完成させるという、前代未聞の偉業を達成させています。
江戸時代にはとてもユニークな才能を持った天才がいたのだと思い知らされますね。

浅草橋駅を出ると、今回の旅のゴールであら秋葉原駅に至ります。

次で房総半島一周の旅シリーズは最終回であり、秋葉原(あきはばら)の話題となります!

注意
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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