まずは原文から!
大石良雄(おおいしよしお)が山科(やましな)の
その隱家(かくれが)はあともなし
赤き鳥居(とりい)の神さびて
立つは伏見(ふしみ)の稻荷山(いやりやま)
さらに読みやすく!
大石良雄(おおいしよしお)が山科(やましな)の
その隠家(かくれが)はあと(跡)もなし
赤き鳥居(とりい)の神さびて
立つは伏見(ふしみ)の稲荷山(いやりやま)
さらに読みやすく!
♪おおいしよしおが やましなのー
♪そのかくれがはー あともなしー
♪あーかきとりいの かみさびてー
♪たーつはふしみの いなりやまー
(東海道線)
米原駅→彦根駅→能登川駅→近江八幡駅→野洲駅→守山駅→草津駅→南草津駅→瀬田駅→石山駅→大津駅→山科駅→京都駅→山崎駅→高槻駅→茨木駅→吹田駅→新大阪駅→大阪駅→尼崎駅→芦屋駅→三ノ宮駅→神戸駅
※鉄道唱歌に関連する駅と、新快速列車が停車する駅などを表記
※この区間は「琵琶湖線」「京都線」「神戸線」などの愛称あり
逢坂山(おうさかやま)のトンネルを出ると、滋賀県を抜けてここからは京都府に入ります。
そして京都府の山科盆地(やましなぼんち)という盆地に出てきます。
やがて山科駅(やましなえき、京都府京都市山科区)に到着します。
山科(やましな)にはかつての東海道と京街道との分かれ道である、髭茶屋追分(ひげちゃやおいわけ)というものがありました。
追分(おいわけ)とは、江戸時代の旧街道(東海道)において、「分かれ道」を意味する言葉です。
髭茶屋追分(ひげちゃやおいわけ)は京都方面に向かう従来の「東海道五十三次」と、大阪へ向かう「東海道五十七次」の京街道(きょうかいどう)と呼ばれた街道を分ける道です。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)とは、江戸時代までの東海道における江戸の日本橋から京都までの53の宿場町を表す言葉です。
一方、東海道五十七次とは日本橋から大坂(大阪)までの57の宿場町のことをいいます。
なので、単に「東海道」といえば、京都までの五十三次のことを意味することもあれば、京街道をも含めた大坂までの五十七次のことを意味することもあります。
東海道五十七次(京街道)のゴールは大阪の高麗橋(こうらいばし)という場所になります。
京街道の宿場町は、現在の京阪本線(けいはんほんせん)の駅がほぼ準拠しています。
例えば伏見(ふしみ)・淀(よど)・枚方(ひらかた)・守口(もりぐち)といった宿場町を京阪本線の列車は通ります。
次に、歌詞にある「大石良雄(おおいし よしお)」について解説します。
大石良雄(おおいし よしお)とは、江戸時代の播磨(はりま)つまり現在の兵庫県赤穂市(あこうし)において、赤穂事件(あこうじけん)の復讐を果たした人物です。 そして、赤穂義士(あこうぎし)と呼ばれる47人の武士たちのリーダーでもあります。
なぜ復讐したのかというと、自分たちの主君(ボス)である浅野長矩(あさの ながのり)という人物が吉良上野介(きら こうづけのすけ)いう人物によって殺害された(正確には切腹に追い込まれた)からです。
その後、吉良上野介(きら こうづけのすけ)は東京の両国(りょうごく)という地域の邸宅にいました。
両国(りょうごく)とは、秋葉原のやや東にあり、お相撲さんの聖地(国技館)がある場所です。武蔵国(むさしのくに)と下総国(しもうさのくに)の両方の国の境目だから、このような地名になっています。
一方、 赤穂事件のあと大石義雄はじめとする47人の赤穂義士たちは、山科に隠れていました。
山科で1年間ずっと隠れ住んで、復讐のチャンスをずっとうかがっていたものと思われます。
ここは歌詞にある通りですね。
やがて、大石義雄率いる47人の赤穂義士たちは、東京(江戸)の両国にある吉良上野介の邸宅に侵入することになります。そして彼らは、見事に討ち入り・復讐を果たします。
そして47人の赤穂義士の墓は、東京の高輪(たかなわ)の泉岳寺(せんがくじ)に祀られています。これは鉄道唱歌 東海道編 第2番でも歌われている通りですね。
そして山科には、その47人の赤穂義士と大石良雄を祀るための大石神社(おおいしじんじゃ)があります。
大石神社は、兵庫県赤穂市にもあります。
また山科には、天智天皇陵(てんちてんのうりょう)があります。つまり、天智天皇のお墓ということになります。
天智天皇(てんちてんのう)とは、かつて中臣鎌足(なかとみのかまたり)と共に蘇我入鹿(そがのいるか)を倒した、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)のことです。
この事件は、乙巳の変(いっしのへん)、または大化の改新(たいかのかいしん)と呼ばれていますね。
この「大化の改新」の後に、中臣鎌足は「藤原氏」の苗字を授かり、現代の日本にも数多くおられる「藤原さん」「佐藤さん」「斎藤さん」などの藤原氏の元祖となっています。
そして、中大兄皇子は天智天皇として即位することとなります。
なお、「佐藤」という苗字の由来は、(平安時代の関東地方で起きた「平将門の乱」で活躍した)栃木県佐野市(さのし)の藤原氏、という意味です。
また、「斉藤」の苗字の由来は、三重県の伊勢神宮に仕えていた「斎王(さいおう)」という女性がお住まいになられた御所である「斎宮(さいくう)」に務めていた藤原氏、という意味です。
少し話が逸れてしまい申し訳ありませんが、天智天皇は飛鳥時代に、滋賀県大津市に都を移したことでも知られます。
これを「近江大津宮(おうみおおつのみや)」といい、JR湖西線(こせいせん)大津京駅(おおつきょうえき、滋賀県大津市)の由来にもなっています。
また、天智天皇が亡くなると、その息子(大友皇子)と弟(大海人皇子)は権力争いで戦うという、壬申の乱(じんしんのらん)が起きました。
それは本来であれば、天智天皇の弟であるはずの大海人皇子(おおあまのおうじ)が天皇になるはずだったのですが 、我が子を第一に想いたいという親の習性からか、天智天皇は自分の子である大友皇子を天皇にしたいと考えてしまいました。
もちろんこれに対し、本来ならば自分が天皇になるはずだった大海人皇子は憤慨し、息子の大友皇子と戦うことになるのです。
結果は、 弟の大海人皇子が瀬田の唐橋(せたのからはし)で勝利して、天武天皇(てんむてんのう)となりました。これが壬申の乱です。
明治時代の鉄道開業当初の旧山科駅は、現在の山科駅より南へ約1キロほどの場所にありました。
これは、これから先、京都へ向かう際に現在のような真っ直ぐの綺麗なトンネルを掘ることができず、山を南側へ大きく迂回する必要があったからです。
そして大きく南側へ迂回した線路は、伏見稲荷(ふしみいなり)の南→西を通って、現在の奈良線(ならせん)に沿って大きく北へ迂回し、京都駅に至る経路でした。
だから歌詞には、このタイミングで伏見稲荷が登場します。
こうした歴史的経緯を知らないと、歌詞について「なぜここで伏見稲荷?東海道線の沿線にはないよな?」という疑問につながることになるでしょう。
伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は、京都市の南東にあるお寺で、千本鳥居(せんぼんとりい)で有名な神社です。
それは、無数の赤い鳥居が延々と並んで続く壮観な光景で、多くの観光客の人気を集めます。
京都の伏見稲荷大社は全国に3万もある稲荷神社の総本社(そうほんしゃ)です。
総本社(そうほんしゃ)とは、最も格式高い神社のことを言います。
例えば、富士信仰の浅間神社(せんげんじんじゃ)の総本社は、静岡県富士宮市にあります。また、秋葉信仰の総本社は、静岡県浜松市天竜区の秋葉神社にあります。
稲荷神社は、豊作にご利益のある神様です。
愛知県豊川市の豊川稲荷(とよかわいなり)も稲荷信仰の寺社の1つであり、茨城県笠間市の笠間稲荷神社(かさまいなりじんじゃ)と合わせて「日本三大稲荷」と呼ばれます。
なお、豊川稲荷は正式には「妙厳寺(みょうごんじ)」というお寺であり、鳥居は存在しますが神社ではありません。仏教における豊作の神様である「ダキニ天」が稲荷の神様と同じ神様であると信じられたため(同一視)、「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」のお寺として知られます。
明治時代の「神仏分離」によって鳥居は撤去されましたが、戦後に復活しています。
歌詞にある「神さびて」とは、神様のような威厳や威光を放っている、という意味です。つまり歌詞の3・4行目は
「まるで赤い鳥居が、神様のように威厳と威光を放ちながら立ちならんでいる。それは伏見稲荷大社である」
などのような意味になります。
伏見稲荷を過ぎると、現在の奈良線に沿って稲荷駅(いなりえき、京都府京都市伏見区)を大きく北上し、北西に向かい、やがて京都駅に着きます。
現在の東海道線では、東山(ひがしやま)という山科と京都を分け隔てる山の下を走る長いトンネルを過ぎて、鴨川(かもがわ)を渡り京都駅に着きます。
注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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