【京都】観光のシンボル・嵯峨嵐山について、より深く探求!

京都・嵐山の観光・歴史や、その他基礎知識などについて、初心者の方にもやさしく・わかりやすく解説してゆきます!

平安時代の嵐山(画像はAIによるイメージです)

平安時代の嵐山(画像はAIによるイメージです)

室町時代の嵐山・渡月橋(画像はAIによるイメージです)

室町時代の嵐山・渡月橋(画像はAIによるイメージです)

  1. 京都のシンボル・嵐山
    1. 桂川にかかる「渡月橋」
      1. 上流と下流で名前が変わる、桂川
      2. かつて嵯峨天皇がここに離宮を構えたことが、その名前の由来
      3. 亀山天皇が、吉野から桜を持ってきたことがきっかけ
      4. 角倉了以によって開削された、保津川
  2. 嵐山国有林と、京都の景観を保つための取り組み
    1. 国がコストをかけて管理する「国有林」
      1. 森林法における「風致保安林」
      2. 森林法における「土砂流出防備保安林」
      3. 様々な法律によっても守られている、京都の嵐山国有林
      4. 江戸時代までは大部分が天龍寺の領地だった、嵐山国有林
      5. 明治の社寺上知令による、私有林の国有化
      6. 近代国家の形成と、土地の国有化の流れ
      7. 京都の厳しい景観規制と、高さ制限
  3. 嵯峨野に関する地理・歴史の様々な知識について
    1. エラい人たちの別荘地・嵯峨野
      1. 嵯峨天皇の離宮・嵯峨院から大覚寺へ
      2. 貴族や文人が憧れた、別荘文化とステータス
      3. 宇多法皇の仁和寺建立と「嵯峨御室」
      4. 後宇多法皇による院政と「嵯峨御所」
      5. 皇族や貴族の隠棲地としての役割
    2. 鎌倉後期・大覚寺統と、持明院統の対立
      1. 天皇の座をめぐる、大覚寺統と持明院統の激突
      2. 後嵯峨天皇の遺言と、鎌倉幕府への判断委ね
      3. 明確なルールが存在しなかった、当時の皇位継承
      4. 皇室典範による、現代の安定した皇位継承
      5. 幕府が提案した妥協案「両統迭立」
      6. 幕府の影響力拡大と、交互即位の始まり
    3. 足利尊氏が建立した天龍寺
      1. 後醍醐天皇への敬意と、祟りへの恐れ
      2. 戦前の評価「日本三大悪人」とその真相
      3. 尊氏と後醍醐天皇を結んだ名僧・夢窓国師
      4. 旅する夢窓国師が感動した虎渓山永保寺の建立
  4. 京都の観光は、やはり感動する

京都のシンボル・嵐山

京都・嵐山の景色(画像はAIによるイメージです)

京都・嵐山の景色(画像はAIによるイメージです)

嵐山あらしやまは、京都市のやや西にある観光地です。
京都の代表的な観光地であり、多くの外国人観光客からも人気があります

桂川にかかる「渡月橋」

特に、嵐山を流れる桂川かつらがわにかかっている

  • 渡月橋とげつきょう

は、これこそまさしく嵐山の象徴・シンボルになっており、多くの観光客で賑わっています。

嵐山・渡月橋(京都府京都市右京区)

嵐山・渡月橋(京都府京都市右京区)

渡月橋とげつきょうという名前の由来は、鎌倉時代後期の天皇である

  • 亀山天皇かめやまてんのう

により、

まるで、月の上を渡っているかのような橋だ

というイメージとして、渡月橋という名前になりました。

上流と下流で名前が変わる、桂川

なお桂川は、渡月橋を境界線にして、

  • 上流:大堰川おおいがわ、さらに上流は保津川ほづがわ
  • 下流:桂川かつらがわ

と呼称が変わります。

京都・嵐山の桂川(画像はAIによるイメージです)

京都・嵐山の桂川(画像はAIによるイメージです)

かつて嵯峨天皇がここに離宮を構えたことが、その名前の由来

JR山陰本線嵯峨野線)の北側には、

  • 嵯峨野さがの

と呼ばれる観光地が広がっています。
これは後述するように、平安時代

  • 嵯峨天皇さがてんのう

が、ここに別荘である離宮りきゅうを構えたことが由来になっています。

「離宮」の例(画像はあくまでAIによるイメージです。実際のものではありませんので、ご了承ください。)

「離宮」の例(画像はあくまでAIによるイメージです。実際のものではありませんので、ご了承ください。)

亀山天皇が、吉野から桜を持ってきたことがきっかけ

また、先述の

  • 亀山天皇(当時は既に後継者に譲位しており、上皇

は、

いつでも吉野のサクラを見れるようにしたい

ということで、奈良県の吉野からサクラを嵐山に移植してきたとされています。

その後も夢窓国師むそうこくしという鎌倉時代室町時代のお坊さんによって、吉野からたくさんのサクラが移植されてきたのでした。

亀山上皇夢窓国師については、また後ほど改めて解説します。

角倉了以によって開削された、保津川

桂川かつらがわは、江戸時代

  • 角倉了以すみのくらりょうい

という人物により開削されてきました。
つまり、舟で通りやすい川にして、舟でたくさんの荷物を京都の町に運べるようにしたのです。

江戸時代の河川開削の例(画像はあくまでAIによるイメージです。)

江戸時代の河川開削の例(画像はあくまでAIによるイメージです。)

詳しくは、以下の記事をご覧ください。

【嵯峨嵐山】山陰鉄道唱歌を、わかりやすく解説!
山陰鉄道唱歌の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます! 嵯峨嵐山の観光・歴史などを、やさしく解説してゆきます!

嵐山国有林と、京都の景観を保つための取り組み

国がコストをかけて管理する「国有林」

京都の嵐山国有林の例(画像はあくまでAIによるイメージです。)

京都の嵐山国有林の例(画像はあくまでAIによるイメージです。)

嵐山のふもとには嵐山国有林こくゆうりんという、国の財源によって管理されている林が広がっています。
つまり国が自費で管理する林ということです。

京都の嵐山国有林の例(画像はあくまでAIによるイメージです。)

京都の嵐山国有林の例(画像はあくまでAIによるイメージです。)

嵐山の林はとても景観が重要な場所であり、また民間の人に好き勝手(例えば、変な建物やビルを建てたり、また乱獲をしたりなど)をさせないための林というわけです。
そして景観が乱れないよう、国を挙げて全力で保護して守っていくための場所である、ということです。

森林法における「風致保安林」

嵐山国有林森林法における「風致保安林」となっています。

風致ふうち」とは、例えば「すばらしい景色や風景」などのことをいいます。

この「風致」を守っていくために、国や国民は努力していかなければならないということです。

保安林」とは、森林法において「名所・旧跡であるために守るべき林」として、国(農林水産大臣)が指定する林のことです。

吹雪などから鉄道を守るために使われてきた「防雪林」も、いわゆる「保安林」の一つ(画像はあくまでAIによるイメージです。)

吹雪などから鉄道を守るために使われてきた「防雪林」も、いわゆる「保安林」の一つ(画像はあくまでAIによるイメージです。)

森林法における「土砂流出防備保安林」

また、嵐山国有林は森林法における「土砂流出防備保安林」となっています。

例えば、大雨などによって嵐山から土砂が流出してしまったりすると、周りにある伝統的な風流ある建物たちが破壊されてしまい、被害が拡大する可能性があります。
これは市民の安全はもちろん、京都のイメージダウンや観光客減にもつながってしまい、国にとっても観光客にとっても問題となります。

なので、法律で「嵐山の林は全力で守っていく」という必要があるというわけです。

様々な法律によっても守られている、京都の嵐山国有林

また、嵐山国有林

  • 文化財保護法における史跡名勝:国が貴重な文化財を守るための措置(例えば補助金など)をしていくため、国民はそれに対して協力しなければならない
  • 都市計画法における風致地区:都市における風致ふうち(その風流な景色など)を保っていかなければならない
  • 古都保存法における歴史的風土特別保存地区京都市奈良市鎌倉市などを「古都」と定め、古都にふさわしくない変な建物などを許可なく建てさせないように、古都の歴史的風土を保存していかなければならない
  • 鳥獣保護法における鳥獣保護区:乱獲を防止し、みだりに周辺にいる鳥さんや動物さんなどの生活が脅かされないように守っていかなければならない

といった、それぞれの法律における保護対象に指定されています。
つまり嵐山をはじめとする京都の町並みは、世界中の外国人からも愛されるほどの「日本の宝」であるため、こうした厳しい法律を定めてまでも国が全力を挙げて保護して(守って)ゆきたいという、特別な場所だというわけです。

江戸時代までは大部分が天龍寺の領地だった、嵐山国有林

嵐山国有林は、江戸時代までは大部分が

  • 天龍寺てんりゅうじ

の領地でした。

天龍寺とは、足利尊氏が(尊敬しながらも)敵対していた後醍醐天皇が崩御されたことを受け、天皇を弔うために、先述の夢窓国師のすすめによって建てられたお寺です。

明治の社寺上知令による、私有林の国有化

明治時代になると

  • 社寺上知令あげちれい

により、全国各地にあったほとんどの私有林は、国に没収されてしまいました。

というのも、1871年の版籍奉還では、大名が持っていた藩の領地を、明治政府に対して返還しなければならなかった(没収される)のでした。

つまり、この理不尽を解消するため、私有地も(平等に)没収されることになったというわけです。

近代国家の形成と、土地の国有化の流れ

江戸時代までの土地はあくまで

  • 「藩のもの」
  • 「大名のもの」
  • 「個人のもの」

であり、幕府(国)のものではなかったわけです。
これは、藩の土地を大名のもの(所有地)にさせておくことで、江戸幕府への反発不満を防いでいたわけですね。

しかし明治の近代国家ともなると、国全体で一つにまとまって欧米諸国に追いつく必要があったため、次々に「国有化」の動きが進んでいったわけです。

そのため、嵐山の林も私有地ではなく、国有化されることになったのでした。

京都の厳しい景観規制と、高さ制限

その他、京都では景観を保持するために、建物には高さ制限(31m)があります。
また、電話ボックスやコンビニエンスストアなども「和風のそれっぽいデザイン」に変えなければなりません。

また、バブルのときに芸能人やアイドルなどのお店があるタレントショップも大流行して修学旅行生から大人気(年頃の生徒さんたちはそういったものが大好きですよね)だったのですが、「景観を乱す」として、廃止が相次いだのでした。

嵯峨野に関する地理・歴史の様々な知識について

エラい人たちの別荘地・嵯峨野

嵯峨野さがのは、794年に京都平安京が出来た後には、その美しくて風光明媚な景色のために、天皇大宮人おおみやびと高位な人たち)にとっての絶好の行楽地となっていったのでした。

つまり、彼らにとってリフレッシュ・休暇を満喫するための場所となっていったわけです。

京都・嵐山より(京都府京都市右京区)

京都・嵐山より(京都府京都市右京区)

嵯峨天皇の離宮・嵯峨院から大覚寺へ

平安時代のはじめに第52代・嵯峨天皇さがてんのうが、天皇の別荘である

  • 離宮りきゅう嵯峨院さがいん

をこの地に造営して、居住するようになりました。
そしてこれこそが、嵯峨野さがのという地名の由来となっています。

そして嵯峨天皇崩御された約30年後の876年に、嵯峨院は「離宮」から「お寺」に改められ、大覚寺だいかくじとなったのでした。

貴族や文人が憧れた、別荘文化とステータス

こうして、平安時代以降になると嵯峨野には、それ以降は多くのエラい貴族・詩を書く文人たちなどによって、別荘・山荘・お寺などの建立・造営が次々に行われていくようになります。
これはもはやある意味でそれがブームだったというか、「高貴な人にとってのステータス」だったのでしょう。

例えば、高度経済成長期に、

  • 長野県の軽井沢かるいざわ(山林の景色がキレイ、夏は涼しい)
  • 栃木県の那須なす(同じく山林の景色がキレイ、夏は涼しい)
  • 神奈川県の葉山はやま(海がとてもキレイ、冬は暖かい)

などといった景色・気候に優れた場所に、次々に別荘を建てていったのと似ています。
こうした場所に別荘を持てるということが「一流・デキる男の証明」になっていたからですね。

軽井沢のような別荘地のイメージ(画像はAIによるイメージです)

軽井沢のような別荘地のイメージ(画像はAIによるイメージです)

宇多法皇の仁和寺建立と「嵯峨御室」

平安時代に第59代・宇多天皇うだてんのうは、仏教に対してとても熱心だったのでした。
そのため、お坊さんとなり、法皇(=出家した天皇)となりました。

そして仁和寺にんなじを建てて、ここは嵯峨御室さがおむろと呼ばれました。

これは京都に本社を置く、体温計などのメーカーであるオムロンの社名の由来になっています。

後宇多法皇による院政と「嵯峨御所」

さらに鎌倉時代、第91代・後宇多天皇が譲位(天皇の位を、後継者にゆずること)された後に、

  1. 出家して法皇となり、
  2. さらに大覚寺で、院政いんせいを行った

のでした。

そのため、この地は

  • 嵯峨御所さがごしょ

とも呼ばれました。

後宇多法皇は、この大覚寺をより大きく綺麗になるように整備されたため、お寺に大きな貢献を果たしたのでした。

皇族や貴族の隠棲地としての役割

こうして平安・鎌倉・室町時代のあたりには、嵯峨およびその周辺の地域は、

  • 天皇やエラい人たちの、隠棲地いんせいち(老後に世の中を離れて、穏やかに暮らすための場所)

として、大きな役割をもっていくようになりました。

鎌倉後期・大覚寺統と、持明院統の対立

鎌倉幕府後期の第88代・後嵯峨天皇ごさがてんのうには、

  • 先述の第90代・亀山天皇(弟)
  • 第89代・後深草天皇(兄)

の2人の息子がいました。
この2人の息子が次の天皇の座を争って、皇位継承問題が起こるわけです。

  • 亀山天皇は、大覚寺統だいかくじとう
  • 後深草天皇は、持明院統じみょういんとう

となりました。

亀山天皇(弟)とその子孫が引き継いでいく天皇の家系は、

  • 大覚寺統だいかくじとう

と呼ばれました。

また、亀山天皇の兄である後深草天皇の息子以降の子孫が引き継いでいく天皇の家系を、

  • 持明院統じみょういんとう

というわけです。

天皇の座をめぐる、大覚寺統と持明院統の激突

父親の後嵯峨上皇が崩御された後、

  • 亀山天皇(弟)の大覚寺統
  • 後深草天皇(兄)の持明院統

は、「天皇の座」をめぐって対立していくことになります。
つまり、どっちが天皇の座を引き継ぐのか、ということで争っていったわけですね。

後嵯峨天皇の遺言と、鎌倉幕府への判断委ね

父の後嵯峨天皇は、崩御される時に

「どちらの天皇を即位させるか」

という遺言を明確に残さなかったのでした。
そのため、これがトラブルの原因となってしまったのでした。

しかも遺言によれば

鎌倉幕府に決めてもらおう

としたわけです。

これは、

  • 過去に天皇鎌倉幕府に対して、何らかの恩義があったから
  • 天皇が鎌倉幕府に対して、配慮・忖度そんたくをしていた

からだとされています。
つまり、天皇は鎌倉幕府との関係性を壊したくなかったわけですね。

明確なルールが存在しなかった、当時の皇位継承

現代の日本のように、

  • 皇室典範こうしつてんぱん

という法律のように皇位継承順位という明確なルールが決まっていればよかったのですが、当時はそういった具体的な皇位継承の決まりは、恐らく無かったのでしょう。

皇室典範による、現代の安定した皇位継承

当時は、例えば皇室内で争ったり、また幕府に助言してもらったりで決めていたのでした。

現代では皇室典範により皇位継承順位が明確に決まっています。
そのため、例えば平成から令和になるときに

  • 徳仁なるひと皇太子殿下(当時)
  • 秋篠宮文仁あきしののみやふみひと親王殿下

が、それぞれ皇位継承で争うといったことは、基本的には無かったわけです。

幕府が提案した妥協案「両統迭立」

鎌倉幕府はこの皇位継承に関して(父の後嵯峨天皇の遺言を受けて)、どっちの天皇即位させればよいかについての判断を迫られました。

しかし幕府としては、例えば選ばなかった側の天皇から恨みを持たれたりしないように、無難解決案として、

  • 両統迭立りょうとうてつりつ

を提案したのでした。
つまり、それぞれの系統が交互に天皇の座につくということを提案したわけです。

幕府の影響力拡大と、交互即位の始まり

このように鎌倉幕府は、皇室の継承問題に口を出すほどの影響力にもなっていたわけです。

その後は、持明院統大覚寺統から、交互に天皇が即位するという感じとなりました。

後醍醐天皇は、大覚寺統からの天皇です。

足利尊氏が建立した天龍寺

足利尊氏は、南北朝時代に敵対していた後醍醐天皇の崩御の知らせを聞いたとき、嵯峨野

  • 天龍寺てんりゅうじ

を建立しました。

それは、ここが後醍醐天皇の出身である大覚寺統ゆかりの地であった事に由来しています。

後醍醐天皇は、先述の通り大覚寺統からの天皇でした。

後醍醐天皇への敬意と、祟りへの恐れ

足利尊氏は、確かに後醍醐天皇に対して反旗をひるがえして南朝に追い込んだりはしたのですが、あくまで天皇に対して尊敬の念・意思はあったというわけです。

また、「死者の呪い・たたり」がくることを恐れたため、ともいわれています。

昔は、現在以上に祟りの存在を恐れており、後醍醐天皇の祟りが自分の身にふりかかってくることを恐れたから、というのもあるでしょう。

そこで、夢窓疎石(国師)というお坊さんの助言をかりて、天龍寺を建てたというわけです。

戦前の評価「日本三大悪人」とその真相

足利尊氏は、戦前までは日本三大悪人とも呼ばれていました。
それは後醍醐天皇という天皇を倒してしまったからです。

そのため、天皇崇拝が絶対的だった明治時代~戦前までの時期は、足利尊氏評価はとても低かったのです。

ちなみに「日本三大悪人」のうち、あと2人は、

  • 平安時代に天皇に逆らって関東で大暴れした平将門たいらのまさかど
  • 奈良時代に女性天皇と恋仲になりメロメロにさせ、それを利用して皇族でもないのに、天皇になろうとした道鏡どうきょう

です。

尊氏と後醍醐天皇を結んだ名僧・夢窓国師

鎌倉時代から室町時代にかけてのお坊さんである、

  • 夢窓国師むそうこくし(または夢窓疎石/むそうそせき)

足利尊氏は、とても仲が良かったことで知られます。
また、後醍醐天皇ともとてもよい関係を築いており、尊氏や天皇からとても信頼されていました。

そして、国師号を7回も授与されています。

旅する夢窓国師が感動した虎渓山永保寺の建立

夢窓国師は、岐阜県多治見市たじみし

  • 虎渓山永保寺こけいざんえいほうじ

の建立にも携わっています。

それは世の中に対してなんだか疲れた感じになっていた夢窓国師が各地を旅していたときに、美しい

  • 土岐川ときがわ

の眺めに感動し、

「ここに楽園を作ろう」

として、虎渓山永保寺を建立したのでした。

京都の観光は、やはり感動する

室町時代の嵐山(画像はAIによるイメージです)

おわりに:嵐山の景色は、本当に良いものとなっています。

今回はここまでです。

お疲れ様でした!

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