鉄道唱歌 東海道編 第50番 四条大橋や銀閣寺、そして嵯峨野など 日本の風情ある文化を知ろう

まずは原文から!

夏は納凉(すずみ)の四條橋(しじょうばし)
冬は雪見(ゆきみ)の銀閣寺(ぎんかくじ)
櫻(さくら)は春の嵯峨御室(さがおむろ)
紅葉(もみじ)は秋の高雄山(たかおやま)

さらに読みやすく!

夏は納凉(すずみ)の四条橋(しじょうばし)
冬は雪見(ゆきみ)の銀閣寺(ぎんかくじ)
桜は春の嵯峨御室(さがおむろ)
紅葉(もみじ)は秋の高雄山(たかおやま)

さあ、歌ってみよう!

♪なーつはすずみの しじょうばし
♪ふーゆはゆきみの ぎんかくじー
♪さくらははーるの さがおむろー
♪もみじはあーきの たかおやまー

(京都市営地下鉄烏丸線)
京都駅→五条駅→四条駅→烏丸御池駅→丸太町駅→今出川駅
→(至・国際会館駅)

(山陰本線/嵯峨野線)
京都駅→梅小路京都西駅→丹波口駅→二条駅→嵯峨嵐山駅
→(至・保津峡駅、亀岡駅、園部駅)

※上記は全ての駅でなく、今回の京都観光に必要と思われる駅などを筆者の独断と偏見でピックアップしたもの

まだまだ続く、京都観光シリーズ 今回も京都の名所旧跡が盛りだくさん!

今回もまだまだ、京都の観光が目白押しです。
まだまだ続きますよ!!
それだけ京都の観光地は多いということです。

四条大橋と鴨川 祇園へと渡すその橋

四条大橋(しじょうおおはし)は、四条河原町(しじょうかわらまち)と東の祇園(ぎおん)方面への、鴨川(かもがわ)を渡す橋となっています。
京都の若者のメインの遊び場所といえばやはり四条河原町周辺だと思いますが、その鴨川(かもがわ)にかかる四条大橋を渡ると、一気に風情(ふぜい)のある、「祇園(ぎおん)」と呼ばれるエリアに入っていきます

祇園に建ち並ぶ、豪華で風情ある料亭

そこには、いわゆる「一見(いちげん)さんお断り」という高級料亭が並びます。
こうした高級料亭は、オーダーしてすぐ出来るのではなく、何日も前から予約して、最高級の食材を仕入れ、熟練した料理スペシャリストによって何日も何日も時間と手間をかけて作っていきます。もちろん、これだけの高級食材を使い、また職人の手で何日もかけて作るので、1食最低でも1万5000円~2万円程度から始まります。
なのでこうした高級料亭はキャンセルされると非常に困るといいます
ただ近年は社会全体の平均年収の低下などにより、より一般の人向けで入りやすいような店舗に変わってきている動きもあるようです。

祇園社にはじまる、スサノオを祀る八坂神社

また、前回も説明したように、祇園エリアには「八坂神社(やさかじんじゃ)」という、スサノオ(素戔嗚尊)という神様を祀る神社があります。「祇園」という地名は、かつて「祇園社」という名前だった八坂神社に由来します。
私は昔からよく祇園周辺は散策していたのですが、いつも日本人は私だけで、周りは外国人ばかりだった気がします(^^;)
私は珍しいタイプの日本人なんですかね?
そして、それだけ祇園は外国人に愛されている場所なんだなと実感しました。

足利義政の文化の象徴・銀閣寺

銀閣寺(ぎんかくじ)とは、正しくは慈照寺(じしょうじ)と呼ばれ、8代将軍足利義政(あしかが よしまさ)によって建てられた非常に価値の高い建物です。
足利義政は、妻である日野富子(ひの とみこ)の将軍後継者の権力争いを巡って、応仁の乱(おうにんのらん)というとんでもない戦乱を引き起こしてしまいました。
元々は足利義政のが将軍になるはずだったのですが、妻の日野富子に男の子が生まれたため、可愛い我が子を将軍にしたいという母親の意向と、優柔不断でどちらを将軍にするか決められない夫の足利義政のために、「子か弟か」という争いが勃発することとなりました。そして、それぞれのバックに細川氏・山名氏という強力な武士達が次々に付いて参戦し、両者入り乱れて戦う「応仁の乱」が勃発してしまいました。

京都中を戦禍に巻き込んだ、応仁の乱

応仁の乱」は1467年から約11年間、京都全体を戦火に包んだとてつもない戦いで、それが終わると時代はそのまま戦国時代に突入してしまいました。
応仁の乱は最初はあくまで先ほど述べた後継者争いの闘いにすぎなかったのですが、後にどさくさに紛れて、もはや本来の目的だったはずの後継者争いはどうでもよくなり、自分たちの強さを誇示して支配欲を満たしたいためのドロ沼の戦いとなってしまいました。その後11年間も続いてしまい、京都の街を灰にしてしまいました

応仁の乱から、波乱の戦国時代へ

しかもその戦乱はそれのみならず、なんとそのまま戦国時代へつながるきっかけとなってしまいました。その結果、力さえ強ければどんな者でも一人前になれるという、群雄割拠の時代になるのです。それまではどんなに武術が強くて能力が高くても、身分が農民だったら出世はできない・偉い立場の人にはなれないという不遇な時代でした。しかし戦国時代になるとその常識が覆されました。あの豊臣秀吉も、元々は農民という身分でしたが、実力で天下に上り詰めた人でした。

戦乱をよそに、趣味・文化に没頭した足利義政

一方、将軍職をゆずって政治をやめてからの足利義政は、自分のやりたいことに没頭します。そのやりたいことというのが、文化芸術です。彼は京都の東側にある山である「東山(ひがしやま)」の麓(ふもと)の地域でその文化を開花させたので、このときの室町時代の文化を「東山文化(ひがしやまぶんか)」と呼ばれます。東山文化は、室町幕府三代目将軍であった足利義満(よしみつ)の築いた北山文化(きたやまぶんか)と並んで、室町時代を代表する文化となっています。その東山文化に始まる、日本庭園だったり、「(たたみ)」や「(ふすま)」などからなる和室などは、現代にも通じる、そして外国人にも好んで愛される日本独特の襖と畳と庭園の文化です

政治には向いていなかったが、文化には才能があった足利義政

はっきり言って、彼は政治家には向いてなかったのでしょう。もしかしたら、発達障害の気質もあったのかもしれません。苦手や興味がないことには全く無関心で努力しようともしませんが、好きなことになるととことん追求して努力を惜しまないのは、典型的な発達障害の気質であると思います。
足利義政は政治に関してはてんでダメでしたが、 文化に関しては一流の才能を発揮しました。人は例え過去にうまくいっていなくても、どこで才能開花するか分からないものです。
現代でも、例えば会社員として全く務まらなかった人が起業して成功したり、また転職した瞬間に適材適所に配置されてうまくいくケースもありますよね。

私はクイーンQUEEN)というイギリスのロックバンドが好きなのですが、彼らは日本庭園とはじめとする日本の文化が大好きだったそうです。歌を担当していたフレディ・マーキュリー日本庭園を自宅に持っていたそうですし、ギターのブライアン・メイも日本の(たたみ)が大変気に入ったそうです。
クイーンは1973年のデビューのとき、散々「時代遅れだ」などと批判され酷評されていたのですが、日本に初めて来たときに多くの日本のファンから歓迎され、そこから彼らは日本が大好きになったそうです。「Teo Torriatte手を取りあって)」という(サビのみですが)日本語の曲があるほどです。クイーンのメンバーは何度もプライベートで日本に来たり、京都を訪れていたといいます。
もし、この時の足利義政による、現代の日本文化にも通じる文化人としての努力と才能が無かったら、もしかしたらクイーンのメンバーがあれだけ日本を愛することはなかったかもしれません。そして、日本の文化がこれだけ多くの外国人から愛されることもなかったかもしれません。

古くから皇室の別荘地だった、嵯峨御室

嵯峨御室(さがおむろ)、つまり仁和寺(にんなじ)は桜の景色がすごく優れた場所で有名です。この桜は、「御室桜(おむろざくら)」と呼ばれ、京都でも特に遅咲きの桜として知られます。
仁和寺真言宗御室派の総本山のお寺として知られます。
御室(おむろ、みむろ)とは、天皇陛下の居所(きょしょ)、つまりお住まいのことです。
実際、この場所は平安時代の西暦900年代に宇多天皇(うだてんのう)の居所になったことに由来します。
宇多天皇は、かつてより仏教に対する興味が深かったため、息子の醍醐天皇(だいごてんのう)に位を譲ると、出家して法王となりました。なお、「出家」とは僧侶として修行に出ることであり、「法王」とは出家した天皇のことをいいます。
また、宇多天皇は学問の神様・菅原道真を重用した天皇であり、また次の醍醐天皇のときに左遷されています。

また、嵯峨野(さがの)という地域は、その約100年前に嵯峨天皇(さがてんのう)による離宮(りきゅう)が置かれたことに由来します。離宮とは、天皇の別荘のことであり、御用邸(ごようてい)の大きいバージョンになります。

和気清麻呂にゆかりある、高雄山・神護寺

高雄山(たかおやま)は神護寺(じんごじ)といわれ、和氣清麻呂(わけきよまろ)によって建てられたお寺です。東京都八王子市の高尾山(たかおさん)とは異なります
昔はお寺のことを「」とも呼んでいました。お寺を開くことを「開山」といい、また格式の高いお寺を「総本山」「大本山」などのようにいいます。

和氣清麻呂(わけきよまろ)は奈良時代に、九州の大分県・宇佐神宮(うさんじんぐう)に赴いたことで知られます。

奈良時代は仏教勢力があまりに強くなり政治に意見介入していたことはこれまで何度も説明してきた通りですが、このときついに「道鏡(どうきょう)」という仏教勢力の人物が天皇になりたいと言い出す状況までに発展しまさた。

和気清麻呂は、それが本当に正しいのかを神様に尋ねるために、わざわざ九州まで赴き、宇佐神宮で「道鏡は天皇に相応しくない」という神様の答えを得たのでした

この結果に道鏡は当然ながら怒りました。その後に、和気清麻呂は罰として左遷されてしまったのでした。
和気清麻呂の宇佐神宮訪問のことは、鉄道唱歌 山陽・九州編 第35番でも歌われていますね。詳しくは以下の記事で解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 山陽・九州編 第35番 宇佐神宮を参拝!和気清麻呂も訪れた八幡神社の頂点

なお、和氣清麻呂は岡山県の和気町(わけちょう)の出身です。

まだまだ続く、京都観光 次回も頑張って勉強しよう

京都編は、まだまだ続きます。そろそろ飽きてきたり疲れてきたりする人もいるかもしれませんが、頑張ってこれらの話題についてきていただければ幸いです。では、次回に続きます!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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