まずは原文から!
兵庫(ひょうご)鷹取(たかとり)須磨の浦(すまのうら)
名所舊蹟(めいしょきゅうせき)かずおほし
平家(へいけ)の若武者(わかむしゃ)敦盛(あつもり)が
討(う)たれし跡(あと)もこゝと聞く
さらに読みやすく!
兵庫(ひょうご)鷹取(たかとり)須磨の浦(すまのうら)
名所旧跡(めいしょきゅうせき)かずおおし(数多し)
平家(へいけ)の若武者(わかむしゃ)敦盛(あつもり)が
討(う)たれし跡(あと)もここと聞く
さらに読みやすく!
♪ひょうごたかとり すまのうらー
♪めいしょきゅうせき かずおおしー
♪へいけのわかむしゃ あつもりがー
♪うたれしあともー ここときくー
(山陽本線)
神戸駅→兵庫駅→鷹取駅→須磨駅→舞子駅→明石駅→加古川駅→姫路駅→相生駅(旧・那波駅)→岡山駅→倉敷駅→福山駅→尾道駅→糸崎駅→三原駅→海田市駅→広島駅→西広島駅(旧・己斐駅)→五日市駅→宮島口駅→岩国駅→柳井駅→徳山駅→防府駅(旧・三田尻駅)
※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ表記
※鉄道唱歌のできた当時(1900年)は、防府駅(旧・三田尻駅)から先は開通していなかったため、徳山港から船で門司(九州)へ
神戸を出て、須磨海岸へ到着
神戸駅を出ると、兵庫駅(ひょうごえき、兵庫県神戸市兵庫区)→鷹取駅(たかとりえき、兵庫県神戸市須磨区)→須磨海浜公園駅(すまかいひんこうえんえき、兵庫県神戸市須磨区)→須磨駅(すまえき、兵庫県神戸市須磨区)と、海岸沿いに近いエリアを進んでいきます。
兵庫駅は、東海道編第63番でも解説したように、和田岬線(わだみさきせん)との分岐駅となります。
和田岬線(わだみさきせん)は、歴史的に港湾法面への貨物路線として作られた路線であり、モータリゼーションの現代でも残っている珍しい路線です。
須磨海岸は、海の景色がとても美しいです。
源平合戦「一ノ谷の戦い」の舞台
そしてこの須磨一体は、「一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)」で、源平合戦の一つとなるの戦いが行われた場所でもあります。
時代はもう1184年の源平合戦の末期であり、この時はもうすでに平清盛が亡くなっており(1181年)、源氏の巻き返しなどもあり平氏は劣勢に立たされていました。源氏の勢いは凄かったのです。
そして兵庫県・神戸のこの辺りは平清盛(きよもり)が一時的に都を移していた、「福原京(ふくはらきょう)」があった場所です。
この福原京は、京都からの反対も大きく、結局作りかけで都(みやこ)は再び京都に戻されています。
それだけ平清盛の勢いが凄かったのと同時にまた神戸市は一時的に日本の首都であったことがあったとも言えます。
熊谷直実と戦いむなしく散った、平敦盛の悲劇
平氏はこの一ノ谷の戦いですでに劣勢に立たされており、もはや敗戦続きで平氏軍はみな逃げるところでした。
そして、平氏の一人であるわずか16歳の若武者・平敦盛(あつもり)も、舟に乗って逃げようとするところを、一人の源氏の武将が呼び止めます。
そう、熊谷直実(くまがい なおざね)です。
彼は、埼玉県熊谷市(くまがやし)の街の名前の由来になった武将です。
熊谷直実は逃げようと舟に乗る平敦盛に対し、こう言いました。
「おい、そなたは相当な腕の持ち主に見える。
敵を目の前にして背を向けるとは、無礼であろう。正々堂々と勝負いたせ。」
なお、埼玉県熊谷市の熊谷駅(くまがやえき)前にある熊谷直実の銅像は、この時の平敦盛を呼び止めるシーンを再現したものです。須磨寺(すまでら)にも、このシーンを再現した二人の像があります。
平敦盛が持っていた「青葉の笛」
平敦盛(たいらの あつもり) は当時まだわずか16歳の美少年でした。
彼は武士でありながら、どちらかというと笛を吹くことの方が得意だったといいます。
戦場にまで持ってきていた「青葉の笛」で、味方の平氏の軍の心をうっとりさせます。
この笛の音は源氏軍にまで聞こえていたようで、「平氏軍は油断しているのか」と思われたようです。また、敵である源氏軍までこの笛の音に魅せられたようです。
その笛の音は、熊谷直実の耳にも入っていました。
そして、熊谷直実に呼びとめられた平敦盛は、戦いの末に敗れてしまい、熊谷直実はいざ首を討ち取ろうと彼の兜を外したときでした。
そこにいたのは、熊谷直実にとってまるで自分の息子と同じくらいの年齢であったため、首を討ち取るのは非常にためらわれました。
熊谷直実「君は一体何という名前だ!?」
平敦盛「お前に名乗る名前なんかない。お前こそ何という名前だ。」
熊谷直実「…熊谷直実だ。」
平敦盛「私の首を討ち取って、誇りに思うがよい。そして私の味方に聞くがよい。必ず誰かが私の名前を知っているだろう。」
熊谷直実は、できれはこの美少年を首を討ち取らずに逃がしてやる方法を考えました。
しかし、どっちみち追手が迫ってきて逃げ切ることは不可能と判断したため、 泣く泣く敦盛の首を討ち取りました。
そして、平敦盛が笛(青葉の笛)を持っていることに気づき、彼の名前が平敦盛であること、またあの美しい笛の音の正体が彼のものだったことに気付きました。
熊谷直実は源平合戦において、平敦盛を討ちとってからは世の中の無常さや残酷さを知ることとなり、高野山にこもって出家したのです。「出家」とは、お坊さんになって修行することをいいます。
なお補足ですが、熊谷直実の由来となった埼玉県熊谷市は、中山道(なかせんどう)における重要な宿場町であり、また高崎市と大宮のちょうど真ん中あたりにある新幹線も止まる重要な街・駅です。
また、熊谷市は静岡県浜松市や岐阜県多治見市と並んで、「日本一暑い街」としても知られます。
次回は、須磨寺そして「青葉の笛」について解説していきます!
注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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