鉄道唱歌 山陽・九州編 第2番 須磨の名所旧跡めぐり 平敦盛と熊谷直実の戦いの伝説

鉄道唱歌 山陽・九州編の歌詞(兵庫・鷹取・須磨海岸・平敦盛の歴史など)を、わかりやすく解説してゆきます!

須磨の海へと逃げる平敦盛を呼び止める熊谷直実(画像はAIによるイメージです)

須磨の海へと逃げる平敦盛を呼び止める熊谷直実(画像はAIによるイメージです)

まずは原文から!

兵庫ひょうご鷹取たかとり須磨すまの浦うら
名所舊蹟めいしょきゅうせきかずおほし
平家へいけの若武者わかむしゃ敦盛あつもりが
討うたれし跡あともこゝと聞く

さらに読みやすく!

兵庫ひょうご鷹取たかとり 須磨すまの浦うら
名所旧跡めいしょきゅうせき かずおおし
平家へいけの若武者わかむしゃ 敦盛あつもりが
討うたれし跡あとも ここと聞く

さあ、歌ってみよう!

♪ひょうごたかとり すまのうらー
♪めいしょきゅうせき かずおおしー
♪へいけのわかむしゃ あつもりがー
♪うたれしあともー ここときくー

(山陽本線)
神戸駅→兵庫駅→鷹取駅→須磨駅→舞子駅→明石駅→加古川駅→姫路駅→相生駅(旧・那波駅)→岡山駅→倉敷駅→福山駅→尾道駅→糸崎駅→三原駅→海田市駅→広島駅→西広島駅(旧・己斐駅)→五日市駅→宮島口駅→岩国駅→柳井駅→徳山駅→防府駅(旧・三田尻駅)

※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ表記
※鉄道唱歌のできた当時(1900年)は、防府駅(旧・三田尻駅)から先は開通していなかったため、徳山港から船で門司(九州)へ

現代語訳のまとめ

まずは、現代語訳から確認してゆきましょう。

  1. 兵庫ひょうごから鷹取たかとり、そして須磨すまの浦うらへと続くこの辺りは、
  2. 名所や古い歴史の跡(名所旧跡)が、数え切れないほどたくさんある。
  3. あの悲劇の平家の若武者・平敦盛たいらのあつもりが、
  4. 勇猛果敢に戦いながらも討たれてしまったその場所(跡)も、ここであると聞いているのである。

今回は、神戸→須磨の行程

神戸を出て、須磨海岸へ到着

神戸駅を出ると、

  • 兵庫駅ひょうごえき(兵庫県神戸市兵庫区)
  • 鷹取駅たかとりえき(兵庫県神戸市須磨区)
  • 須磨海浜公園駅すまかいひんこうえんえき(兵庫県神戸市須磨区)
  • 須磨駅すまえき(兵庫県神戸市須磨区)

と、海岸沿いに近いエリアを進んでいきます。

兵庫駅(兵庫県神戸市兵庫区)

兵庫駅(兵庫県神戸市兵庫区)

鷹取駅(兵庫県神戸市須磨区)

鷹取駅(兵庫県神戸市須磨区)

和田岬線との分岐駅・兵庫駅

兵庫駅は、東海道編 第63番でも解説したように、和田岬線わだみさきせんとの分岐駅となります。

和田岬線わだみさきせんは、歴史的に港湾方面への貨物路線として作られた路線です。
すなわち、モータリゼーションの現代でも残っている珍しい路線といえます。

モータリゼーション:自動車が社会に広く普及し、人や物の移動において自動車が中心的な役割を果たすようになる現象のことをいいます。

詳しくは、以下の記事をご覧ください。

鉄道唱歌 東海道編 第63番 和田岬と布引の滝 神戸の歴史をさらに学ぼう
鉄道唱歌 東海道編の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!神戸・和田岬線と「布引の滝」の地理・歴史を、やさしく解説してゆきます!↓まずは原文から!磯いそにはながめ晴れわたる和田わだのみさきを控ひかへつゝ山には絶たえず布引ぬのびきの瀧見たきみ...

平清盛の時代の和田岬(画像はAIによるイメージです)

須磨区(神戸市)に到着

海の景色が美しい、須磨海岸

須磨海岸(兵庫県神戸市須磨区)

須磨海岸(兵庫県神戸市須磨区)

須磨海岸は、海の景色がとても美しいですね!

須磨海岸(兵庫県神戸市須磨区)

須磨海岸(兵庫県神戸市須磨区)

源平合戦「一ノ谷の戦い」の舞台・須磨

そしてこの須磨一帯は、「一ノ谷いちのたにの戦い」が行われた場所です。
すなわち、源平合戦の勝敗を分ける重要な戦いの一つが行われた場所でもあります。

時代はもう1184年の源平合戦の末期でした。
この時はすでに平清盛が亡くなっており(1181年)、源氏の巻き返しなどもあり平氏は劣勢に立たされていました。
源氏の勢いは本当に凄かったのですね!

かつて平清盛が遷した、福原京

そして兵庫県・神戸のこの辺りは、平清盛きよもりが一時的に都を移していた、「福原京ふくはらきょう」があった場所です。

平清盛の時代の「福原京」(画像はAIによるイメージです)

この福原京は、京都からの反対も大きく、結局作りかけで終わりました。
したがって、都みやこは再び京都へと戻されています。

それだけ平清盛の勢いが凄かったのと同時に、また神戸市は一時的に日本の首都であった、ということがわかります。

熊谷直実と戦いむなしく散った、平敦盛の悲劇

平氏はこの一ノ谷の戦いで、すでに劣勢に立たされていました。
もはや敗戦続きで、平氏軍はみな逃げ惑うところでした。

そして、平氏の一人であるわずか16歳の若武者・平敦盛あつもりも、舟に乗って逃げようとするところを、一人の源氏の武将が呼び止めます。

そう、熊谷直実くまがいなおざねです。
彼は、埼玉県熊谷市くまがやしの街の名前の由来になった武将です。

須磨の海へと逃げる平敦盛を呼び止める熊谷直実(画像はAIによるイメージです)

平敦盛を引き留める、熊谷直実

熊谷直実は逃げようと舟に乗る平敦盛に対し、こう言いました。

「おい、そなたは相当な腕の持ち主に見える。
敵を目の前にして背を向けるとは、無礼であろう。
正々堂々と勝負いたせ。
」

なお、埼玉県熊谷市の熊谷駅くまがやえき前にある熊谷直実の銅像は、この時の平敦盛を呼び止めるシーンを再現したものです。
須磨寺すまでらにも、このシーンを再現した二人の像があります。

須磨の海へと逃げる平敦盛を呼び止める熊谷直実(画像はAIによるイメージです)

須磨の海へと逃げる平敦盛を呼び止める熊谷直実(画像はAIによるイメージです)

平敦盛が持っていた「青葉の笛」

16歳の美少年・平敦盛

平敦盛(画像はAIによるイメージです)

平敦盛たいらのあつもりは当時まだわずか16歳の美少年でした。
彼は武士でありながら、どちらかというと笛を吹くことの方が得意だったといいます。
戦場にまで持ってきていた「青葉の笛」で、味方の平氏の軍の心をうっとりさせます。

この笛の音は源氏軍にまで聞こえていたようで、「平氏軍は油断しているのか」と思われたようです。
また、敵である源氏軍までこの笛の音に魅せられたようです。
その笛の音は、熊谷直実の耳にも入っていました。

平敦盛を、泣く泣く討ち取った熊谷直実

そして、熊谷直実に呼び止められた平敦盛は、戦いの末に敗れてしまいました。
熊谷直実はいざ首を討ち取ろうと、彼の兜を外したときでした。

そこにいたのは、熊谷直実にとってまるで自分の息子と同じくらいの年齢であったため、首を討ち取るのは非常にためらわれました。

熊谷直実「君は一体何という名前だ!?」

平敦盛「お前に名乗る名前なんかない。
お前こそ何という名前だ。」

熊谷直実「…熊谷直実だ。」

平敦盛「私の首を討ち取って、誇りに思うがよい。
そして私の味方に聞くがよい。
必ず誰かが私の名前を知っているだろう。」

熊谷直実は、できればこの美少年を首を討ち取らずに逃がしてやる方法を考えました。
しかし、どっちみち追手が迫ってきて逃げ切ることは不可能と判断したため、泣く泣く敦盛の首を討ち取りました。

そして、平敦盛が笛(青葉の笛)を持っていることに気づきました。
彼の名前が平敦盛であること、またあの美しい笛の音の正体が彼のものだったことに気付いたのです。

世の中の無情さを知り、出家することに

熊谷直実は源平合戦において、平敦盛を討ち取ってからは世の中の無常さや残酷さを知ることとなりました。
したがって、高野山にこもって出家したのです。
「出家」とは、お坊さんになって修行することをいいます。

熊谷直実の出身地・埼玉県熊谷市

なお補足ですが、熊谷直実の由来となった埼玉県熊谷市は、中山道なかせんどうにおける重要な宿場町です。
また高崎市と大宮のちょうど真ん中あたりに位置し、新幹線も止まる重要な街・駅でもあります。
また、熊谷市は静岡県浜松市や岐阜県多治見市と並んで、「日本一暑い街」としても知られます。

熊谷市については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 北陸編 第9番 吹上を過ぎて、熊谷へ 熊谷直実ゆかりの街 そして日本一暑い街
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次回は、須磨寺の「青葉の笛」の話題

おわりに:次回は、須磨寺そして「青葉の笛」について解説していきます!

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