徳川埋蔵金の謎を小学生にもわかりやすく解説!400万両の行方や赤城山伝説、隠された歴史の真実を、わかりやすく解説してゆきます!

徳川埋蔵金のイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです。実物・実際の景色等ではありませんので、ご了承ください。)
徳川埋蔵金の謎と400万両の行方とは?

徳川埋蔵金のイメージ(画像はあくまでAIによるイメージです。)
徳川埋蔵金は、日本の歴史のなかでもいちばん有名な宝探しロマンですね!
これは幕末の大混乱の時代に、江戸幕府がこっそりかくしたといわれる、とてもたくさんのお金のことです。
おおよそ群馬県あたりに埋められていると思われています。
徳川埋蔵金とは?
江戸幕府がたおれる直前に、どこかの地面のなかにうめたとウワサされている、ものすごく大きなお金のことです。
すなわち、こうした徳川家が何代にもわたってためてきた(とされる)キラキラの小判が、もしかしたら(群馬県の)どこかへひそかに運ばれたのではないか?というお話は、今でもみんなをドキドキさせてくれますよね!
徳川埋蔵金の基本概要とスケール
まずは、徳川埋蔵金がどれくらいものすごい金額のお宝なのか、基本をたしかめてみましょう。
- 金額のスケール:およそ400万両(今のお金の価値に直すと、なんと数千億円から数兆円ともいわれる大金です)。これって日本の防衛費にも匹敵するような、ほとんど国家予算に近いレベルのお金です。
- 隠されたとされる時期:幕末の1868年ごろ(明治維新がおきる直前です)と言われています。
つまり幕末が終わり、ちょうど明治時代に入ろうかという頃ですね。
すなわち、新しい新政府にせっかくの徳川の大量の財産を奪われたくないからと、幕府軍の偉い人が群馬県のどこかに隠したと言われるわけです。 - 有力な場所:群馬県にある赤城山など。
この赤城山の周辺をめぐっては、この徳川埋蔵金の発掘のために多くの人々が動き出しました(結果、見つかりませんでした)。
このように、徳川埋蔵金の400万両(現在の価値でおよそ数千億円から数兆円)という、ケタ外れの大きなお金の名前を聞くだけでワクワクしてきますよね!
すなわち、国全体の予算と同じくらいのとんでもない宝物が、もしかしたら日本のどこかの土のなかにねむっているかもしれません(ただし現在では否定されています)。
もちろん現実には法律などの関係で、実際にこの徳川埋蔵金を見つけても、必ずしも自分のものになるわけではありません。
しかしそれでも、もし本当にあったら一度でいいから見てみたいと夢を見るのも、ぜんぜん不思議なことではありませんよね!
埋蔵金伝説が生まれた歴史的背景

徳川埋蔵金(画像はあくまでAIによるイメージです。)
では、どうしてこのような徳川埋蔵金になるという伝説が生まれたのでしょうか?
そのきっかけは、歴史の教科書にも出てくるような幕末の大政奉還や明治維新、戊辰戦争などの大事件にありました。
迫り来る新政府軍と、江戸城の危機
1868年、当時の日本はとうとう江戸という古い世の中が終わり、明治という新しい時代の中に入ろうとしている時でした。
この時、薩摩や長州という新しい勢力による西洋の武器を蓄えた新政府軍が、江戸幕府を完全に倒すために、江戸城へせめこもうとしていました。
ここで幕府がまともに戦ってしまっては、当然、薩摩と長州の西洋から仕入れた最新の武器に負けてしまうことになります。
というのも、2年前の1866年に起きた第二次長州征伐で、すでに最新のミニエー銃などを備えた長州藩に敗れ去っていたからです。
もしここで幕府が下手に戦ってしまったら、最新の武器によって江戸の街が火の海に包まれてしまうというのは、幕府として分かりきっていたことでした。
江戸の町を戦火から救った「江戸無血開城」
そこで、勝海舟と西郷隆盛のふたりが、江戸の町を火の海にしないために話し合いました。
この2人はただ武力で力づくで行動するわけではなく、話し合いで賢くスマートに事をおさめようという、非常に頭の切れる姿勢でした。
こうして、勝海舟と西郷隆盛は戦わないで江戸のお城をあけわたすという「江戸無血開城」を決めたのでした。
- 勝海舟:幕府の代表として話し合い、江戸の町を戦火から救った人です。
- 西郷隆盛:新しい政府軍のリーダーとして、平和な開城を受け入れた人です。
ちなみに上野恩賜公園に彼の銅像があるのは、このときの江戸無血開城という非常に賢くクレバーな方法を選び、江戸の街を火の海に包まず多くの人々を救ったからです。 - 無血開城とは?
戦いをして血を流すことをやめて、平和にお城を相手にゆずりわたすことです。
人々にとっては平和でいいことなのですが、戦うことが正義の武士たちにとってはプライドを引き裂かれ、不平不満のたねになることもあります。
もちろんこの無血開城は、戦わずしてお城を明け渡したため、一部の武士にとってはプライドを傷つけられる出来事であり、納得できない武士たちも存在しました。
彼らはひたすら北へ逃げて戊辰戦争となって追い詰められていきました。
その戊辰戦争の中心人物のひとりと言える土方歳三については、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。

江戸城の明け渡しと新時代の幕開け
話が少しそれましたが、このようにして、それまで徳川の将軍のものだったお城(江戸城)を受け取った新政府軍は、新たにその江戸城を明治天皇の住まい(現在の皇居)とすることに決めました。
これによって明治時代からは、天皇が国を治める世の中という新しい権力(逆に言えば、「徳川の世の中は終わった」という大きな宣伝)を、世の中に対して大々的にアピールしたのです。
つまり明治天皇が江戸城を新たな皇居としたのは、「天皇の世の中である」アピールであるのと同時に、従来の「徳川の世の否定」のアピールでもあったわけですね。
金庫がからっぽ?徳川埋蔵金伝説の始まり
この江戸無血開城のときに、新政府軍の皆さんはワクワクしながら幕府の大きな金庫を開けました。
しかしながら、明治の新政府軍の皆さんは、そこで大ショックを受けます。
なんと、金庫のなかがキレイさっぱり「からっぽ」だったのです!
消えた財宝と疑念の始まり
このとき、新政府軍の人たちはこううたがいました。
- 「きっと幕府の人間たちが、降伏する直前に、」
- 「すべてのお宝を別の場所へ運び出して、」
- 「地下へうめてしまったにちがいない!」
このからっぽの金庫を見たときのびっくりした(というか、非常に落胆した怒りにも近いような)気持ちこそが、大きな徳川埋蔵金のお話のはじまりだったわけですね。
ただしその理由は、最後にも述べますがあくまで明治時代の「未来の発展のコスト」のために全部使っていたからでした。
この時の「金庫がすっからかんだった」という落胆は、単に大金に対する損失感だけではありませんでした。
というのも、もしこの大量のお金がどこかに持ち出されていたとしたら、
- 密かに幕府の再興と、明治政府討伐の新たな軍資金として使われる
という、大きな危険性があったからです。
こうなると明治新政府側としては生きた心地がしませんよね!
キーパーソン・小栗忠順と赤城山
この財宝かくし(=明治新政府の討伐のための新たな軍資金隠し)のリーダーとして真っ先に疑われたのが、それまで幕府のたくさんのお金の動きを握っていたお仕事である勘定奉行をつとめていた小栗忠順でした。
- 勘定奉行とは?
江戸幕府のお金の出入りをすべて見張っていた、いちばんえらい責任者の役職です。
今でいう財務大臣のような存在ですね。 - 小栗忠順:幕府のお金を管理し、日本の近代化を進めた頭の良い役人です。
天才官僚・小栗忠順の足跡
小栗忠順は、ものすごく頭の回転がはやい、天才的な幕府で働いていたお役人でした。
例えば横須賀製鉄所をつくるなど、明治時代になって日本が欧米列強に対して追いつき追い越すための仕組みをたくさんつくったすごい人です。
- 横須賀製鉄所:外国に負けないように、日本の船を造ったり直したりした大工場です。
権田村への隠棲と大八車の謎
しかし(元々の勤め先の)幕府がたおれると、小栗さんはこれからは戦いをやめて、誰にも邪魔されずに静かに暮らすためお仕事をやめて、ふるさとの近くである上野国(今の群馬県)の権田村へと引っ越していきました。
いわゆる隠遁というものですね。
- 上野国:現在の群馬県にあたる、昔の日本の地域の名前のことです。
しかしその「群馬県の地元への引っ越し」のときに、小栗忠順たちの一行が、
- 大八車という(大量のお金が積めるほどの)大きな荷車に対して、
- たくさんの荷物を積んで運んでいた
ところを、事もあろうに村人に見られていたのです(もちろんその大量の荷物の正体はお金ではなかったわけですが)。
こうしたことから「徳川埋蔵金」の噂が広まり、
- 「小栗忠順が幕府再興・明治新政府討伐のための軍資金を、赤城山のふもとにうめたのではないか!」
と強くウワサされるようになりました。
もしそれが本当だったら、まだ江戸幕府の残党が明治政府打倒のための軍資金をどこかで密かに蓄えているということに他なりません。
こうなると明治新政府としては大慌てです。
現代に続く赤城山発掘プロジェクト
この徳川埋蔵金の伝説は、明治時代からも地元のある家系によって発掘が続けられていましたが、特に平成の初め(1990年代)にテレビ番組の特番で大きく取り上げられたことで、全国的な大ブームへと発展しました。
こうして徳川埋蔵金の噂が世間に広まって評判になると、赤城山を大規模に掘り起こすプロジェクトが何度も組まれるようになったのです。
例えばこうした発掘隊の皆さんは、ショベルカーなどの大きな重機で山をけずり、巨大な穴をほる様子をテレビで多くの人が見て、ワクワクした人たちがたくさんいました。
当時は発掘の様子を一目見ようと大勢の観光客や取材班が押し寄せ、現地の温泉街やお店にたくさんのお金が落ちるという、思わぬ経済効果も生まれました。
ただその努力もむなしく、残念ながら小判の山は見つかりませんでしたが、この件とは関係ない別の昔の銅像などが見つかって大きな話題になりました!
歴史を学ぶ上でためになる真相と教訓
さて、ここからが歴史を学ぶうえで本当に大切なお話になります。
「ほんとうに400万両もの大金があったの?」というギモンですね。
幕府財政の破綻と近代化投資の実態
結論からいうと、最近の歴史の調べ学習では
という考え方が正解とされています。
幕末の幕府は大赤字だった
では、なぜそんな徳川埋蔵金を捻出できるほどの大量のお金が実際には残っていなかったのでしょうか。
それは、当時は海外との貿易による物価の上昇や、戦いのための費用、外国から強い軍艦や武器を買ったことで、お金はすでに無くなっていました。
そもそも幕末から戊辰戦争で大量の軍事費を使ってしまったわけなので、幕府にそんな後世に残せるほどの大量のお金が残っていたとは到底考えにくいわけです。
小栗忠順の先進的な投資
ほかにも、小栗忠順はお金を土にかくすどころか、これからの日本のために全部使っていました。
すなわち、これから欧米列強などが攻めてくるかもわからないなら、日本はこれからあちこちに工場などをつくっていかないといけないわけなので、貯金する暇や余裕などなかったというわけです。
このようにして、小栗さんは船をつくる工場など、未来の日本のための施設をたくさんつくっていたのでした。
からっぽの金庫が示す真実
すなわち、徳川埋蔵金ともいわれる金庫がからっぽだった理由は、決してその大量のお宝をかくしたからではありませんでした。
当時の幕末の混乱した世の中にあって、すでに明治時代など未来のための準備にお金を使い切っていて、すっからかんだったというのが、ほんとうの真相だったわけですね!
つまり、隠せるようなほど大量のお金が残っていたわけではなかったのでした。
遺された真の財宝:産業インフラ
明治維新のあと、新しい政府のリーダーとなった大隈重信は、のちにこう話しています。
- 「明治政府がやった近代化のお仕事は、ぜんぶ小栗忠順がつくった設計図のとおりにやっただけなんだ」
つまり、小栗忠順の主導によって、明治はじめの様々なインフラは、徳川埋蔵金に該当するような大量のお金によってたくさんつくられていました。
こうして考えてみると、ほんとうの「徳川埋蔵金」とは、決して土のなかにうめられた黄金のことではなく、小栗忠順たちがこれからの未来の日本のために残してくれた「近代的な工場や港そのもの」だった、というわけですね。
ロマンとして語り継がれる埋蔵金伝説
本当の歴史を知ると「小判がないなら、ちょっぴり残念だな」と思うかもしれません。
しかしそれでも徳川埋蔵金のお話には、色あせないかっこよさがありますよね!
「もしかしたら本当にあるかもしれない!」と想像するだけで、毎日がドキドキして冒険に出たくなります。
そもそも明治の発展は、そこで埋蔵金として使わず貯金でもしていたら、日本は追いつけず後進国になり下がっていたかもしれません。
歴史のナゾを追いかけながら、むかしの人たちの考えや知恵を学ぶことこそが、歴史のいちばんの楽しさなのかもしれませんね!
おわりに・まとめ
徳川埋蔵金にまつわる400万両のお話は、大きな夢を届けてくれる最高の歴史ロマンです。
たとえ本当の答えが「お宝を土にかくした」のではなく「未来の日本のために使い切った」だったとしても、幕末を全力で駆け抜けた人たちの知恵や思いは、今も変わらずかがやいています。
山やお城をたずねるときは、ぜひ日本の未来をつくろうとした昔の人たちの足跡に思いをはせてみてくださいね!
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