鉄道唱歌 山陽・九州編の歌詞(広島・大本営跡)・観光・歴史について、わかりやすく解説してゆきます!
↓まずは原文から!
かたじけなくも大君の
御旗を進めたまひたる
大本營のありし土地
さらに読みやすく!
かたじけなくも 大君の
御旗を進め たまひたる
大本営の ありし土地
さあ、歌ってみよう!
♪かたじけなくもー おおきみのー
♪みはたをすーすめ たまいたるー
♪だいほんえいのー ありしとちー
神戸駅→兵庫駅→鷹取駅→須磨駅→舞子駅→明石駅→加古川駅→姫路駅→相生駅(旧・那波駅)→岡山駅→倉敷駅→福山駅→尾道駅→糸崎駅→三原駅→海田市駅→広島駅→西広島駅(旧・己斐駅)→五日市駅→宮島口駅→岩国駅→柳井駅→徳山駅→防府駅(旧・三田尻駅)
※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ表記
※鉄道唱歌のできた当時(1900年)は、防府駅(旧・三田尻駅)から先は開通していなかったため、徳山港から船で門司(九州)へ
かつて大本営が存在した、広島
日清戦争のとき、天皇陛下が自ら広島で指揮をとった、広島大本営
広島は、かつて大本営のあった街でした。
1894年に起こった日清戦争のころ、
- 宇品(うじな)の港
- 呉(くれ)の軍港
が戦争に有利だったため、広島には一時的に天皇陛下の本拠地となりました。
この時期は期間限定とはいえ、広島は天皇陛下の拠点となり、また軍の統括も広島に置かれていたのでした。
そのため、広島は一時的に日本の中心であり、日本の首都だったということもできます。
歌詞にある「かたじけなくも」とは、天皇を前にして畏れ多い(おそれおおい)という意味です。

大本営跡(広島県広島市)

大本営跡(広島県広島市)
「大本営」とは?
大本営(だいほんえい)とは、戦争において軍や情報などを統括統制する場所です。
大本営は、特に太平洋戦争(大東亜戦争)のもので有名です。
ウソだらけだった「大本営発表」
「大本営発表」といって、戦争の状況を国民に知らせていたものが知られます。
大本営は太平洋戦争(大東亜戦争)において、当初日本が戦争に連戦連勝を続けていた頃は、おおよそ事実に即した報道をしていました。
しかし、戦争が不利になり日本軍が敗退を続けるようになると、
- ねつ造
- 被害を過小に報道する
- 相手に与えた損害を、過大に報道する
などのことが常態化し、まるで「大本営発表=嘘」みたいなイメージが定着しました。
そのため、現代でも、会社では
- 「無能な意思決定機関」
- 「無能な管理職らの会議」
などに対して「大本営」というあだ名が付けられるなど、比喩的・揶揄的に用いられたりもします(今は少ないかな?)。
「日清戦争」とは?
日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年に日本と清(しん:当時の中国の名前)が戦った戦争です。
この戦争において、日本軍は軽快な動きで、鈍重な清艦隊を破り、見事な勝利を収めました。
強国・清を破り、日本の地位が向上
日本はそれまではアジアの小国と思われており世界からの評価は低かったのでした。○しかし、「眠れる獅子」として恐れられていた清を破ったことで、日本の評価がガラッと代わり、国際的な地位が向上したのでした。
逆に、清はそのアジアの小国とされていた日本に負けたことでその脆弱ぶりが明るみに出てしまい、欧米列強に次々に領土の侵略を許してしまうようになるのです。
下関条約(馬関条約)
また、戦争終了後に山口県下関市(しものせき)において、講和条約が結ばれました。○これを「下関条約」といいます。
また、当時の下関は「馬関(ばかん)」とも呼ばれていたため、馬関条約(ばかんじょうやく)とも言います。
この会議は、下関の春帆楼(しゅんぱんろう)という料亭で行われました。
下関条約(馬関条約)については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
鉄道唱歌は、実は二つの戦争の時期の曲でもあった
日清戦争が起きた1894年は、鉄道唱歌ができた1900年の6年前です。
また、その4年後の1904年には日露戦争が起きています。
鉄道唱歌は、歌詞からは想像つきませんが、こうした東アジアの動乱の軍事的に緊迫した時代に作られた歌なんですよね。
確かに、神奈川県・横須賀のところで
とあったり、愛知県・熱田神宮のところで
とあるなど、確かに明治時代の戦争の世を思わせる歌詞や、挙国一致のような風潮も歌詞に反映されているな、と思わなくもないです。
現代の価値観からすると違和感もある歌詞かもしれませんが、当時はそういう時代だったのだから、それも仕方ないと思います。
神奈川県・横須賀については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
愛知県・熱田神宮については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
当時はどの国も、「自分達がやられないため」に必死だった
当時の日本も、清も、ロシアも、そして欧米列強も、みな自分たちが生き残るために必死でした。
「自分たちがやらなきゃ、自分たちがやられる」という時代です。
もちろん、どちらも自分たちが正義だと思っています。
そのためには、軍事力を高めなければならない。
それによって国力を高め、人口を増やし、経済力を高め、生産力を上げ、科学技術を発展させてきたのでした。
鉄道の技術も、皮肉なことにそうして発展してきました。
戦争によって産み出された技術が、現代の科学発展に繋がっているという皮肉
戦争よって、たくさんの尊い命が奪われました。しかしその代わり、戦争によって生まれた産物もあるわけなので、複雑な気持ちになります。
インターネットの技術も、元々は戦争に勝つために生まれた
現代の我々の生活に欠かせないインターネットも、元々は戦争で情報戦に勝つために生まれたものですし、航空機も戦争に勝つために発展してきたものでした。
後に解説する、広島に原爆を投下し、日本列島を灰に変えた爆撃機「B29 スーパーフォートレス」の技術も、現代の旅客機に大いに活用されているのです。
新幹線も、元々は戦時中の「弾丸列車」構想から生まれた
新幹線も、元々は「弾丸列車」といって、高速で軍事輸送するために発案されたものでした。
現代の東海道新幹線の線路は、弾丸列車のために強制的に買い取られた土地なのです。
それが戦争激化に伴い建設が中止され、一度は夢となった弾丸列車でしたが、戦後わずか19年後の1964年10月に東海道新幹線として夢が実現となったのです。
人類が成長するための手段は、戦争である必要はない
戦争は決して容認できません。それによって、奪われる多くの尊い命があるからです。
その一方で、人間は残念ながら競争に立たされないと、成長できない一面もあるのです。
そしてそれは戦闘機や戦車などで殺し合いをする必要はないのです。
例えば、
- 「オリンピック」
- 「ワールドカップ」
- 「大きな会社やビジネスで成功する」
- 「世界中の美女(美男)からモテるために偉大な成功をする」
- 「誰もが幸せになるインターネットサービスを作る」
など、何でもいいでしょう。
広島への原爆投下
そして、広島で忘れてはならないのが、1945年8月6日におきた原爆投下です。
この日の8時15分に、アメリカの爆撃機B29によって、広島市街地の中心に原子爆弾が投下され、広島市街地は壊滅状態に陥りました。
8月9日には、長崎でも原爆投下されています。
この原爆投下により、広島では20万人、長崎では7万人の尊い命が奪われました。
人類初の、核兵器投下
このとき、広島に投下された原子爆弾を「リトルボーイ」といいます。
これは正真正銘の核兵器であり、この原爆投下は人類最初(※)に核兵器が大都市に投下された例となります。
これ以上核兵器が投下されないためにも。
また、「HIROSHIMA」は、世界でも悲劇の町として知られています。
2016年にも、アメリカのオバマ大統領(当時)が広島を訪問されました。
なぜ広島に原爆が投下されたのか?戦争の経過とともに考える
では、広島になぜ原爆が落とされたのか。
ここからは、太平洋戦争の経過とともに考えていきましょう。
1941年12月8日「真珠湾攻撃」で、太平洋戦争開始
1941年12月8日に「ニイタカヤマノボレ1208」の号令とともに真珠湾攻撃が開始されると、日本とアメリカの戦いである太平洋戦争(大東亜戦争)に突入しました。
当初は連戦連勝の勢いだった
当初の日本は、連戦連勝の凄まじい勢いで、東南アジアの国々を次々に占領していきます。
それは戦争に必要な原料確保の目的もありましたが、当時は欧米列強に支配されていた東南アジアを解放する目的もありました。
これを「大東亜共栄圏」といいます。
日本軍の占領下におかれてからは、現地の東南アジアの人々はとてもよい施し・おもてなしを受けたといいます。
現代の東南アジアに親日国が多いのは、そのためです。
1942年6月、ミッドウェー海戦敗北
しかし、翌年の1942年5月頃になると、あまりにも勝ちすぎて日本軍は天狗になっていました。
油断しすぎて米軍に暗号が解読され、次の攻撃目標がミッドウェー島(太平洋の真ん中に浮かぶ島のこと)であることが筒抜けになってしまい、1942年6月のミッドウェー海戦で初めての大敗となりました。
ここで主力の空母(戦闘機が発着する大きな軍艦のこと)がみな沈んでしまい、日本軍の戦闘力は大幅ダウン。
ここから日本軍は劣勢となり、アメリカの猛反撃を食らうことになります。
劣勢となった日本 次々に太平洋の島々をアメリカに占領される
そのため、それまで日本軍が占領していた東南アジアの島々は次々にアメリカに奪われてゆきました。
そして、日本軍はことごとく敗北・撤退してゆきました。
悲惨な太平洋での戦い
例えば「バンザイ攻撃」といって、「天皇陛下万歳!」と叫びながらアメリカ兵に突撃して全員焼き殺されたり、また
- 弾薬も食料も絶たれ、兵士の飢え死にが続出してしまう
- 最後を覚悟した日本兵が、次々に島の崖から飛び降りて自殺してしまう
するなど、凄惨(せいさん)たるものでした。
このあたりは、「大人の教養TV」というYouTubeチャンネルで、非常に詳しく、わかりやすく解説されています。
YouTubeでぜひ、
- 「大人の教養TV ガダルカナル島」
- 「大人の教養TV サイパン島」
などで検索してみてください。
国民に知らされない、敗戦・撤退の実態
この間にも、先程述べた大本営(だいほんえい)が
- 日本軍の被害を過小に報道する
- 日本軍がまるで勝っているかのような報道をする
ことをし続け、国民には戦争の実態は知らされませんでした。
零戦がオワコン化 神風特攻隊の常態化
さらに、アメリカ軍は次々に高性能な戦闘機や爆弾を開発していったのに対し、日本軍は1943年になっても開戦当初の戦闘機である「零戦(ゼロ戦)」を使い続けていたため、もはや時代遅れとなっていました。
艦隊に攻撃が当たらないため、戦闘機に爆弾を乗せて敵艦隊に突っ込むという「神風特攻隊(かみかぜとっこうたい)」まで行われました。
これによって、多くの若い命が失われてしまうことになったのでした。
サイパン島の陥落 日本本土が射程圏内に
さらに、1944年にはサイパン島が陥落し、大変なことになりました。
なぜかというと、サイパン島に滑走路を建設されたら、B29などの爆撃機が日本本土に飛んで来られるからです。
つまり、日本列島全体がB29の攻撃範囲に入ってしまうため、実際に翌年の1945年からは日本列島は毎日のようにB29の空襲の脅威にさらされることになってしまいました。
1945年、日本での大規模空襲が本格化
1945年3月10日の東京大空襲では10万人の命が奪われ、また7月には仙台・和歌山・富山、そして新潟県の長岡市など、多くの都市が空襲で無残な姿となりました。
また、アメリカ軍はやがて日本本土に上陸し、1946年には東京を占領するため(ダウンフォール作戦)、まずは沖縄・九州から徐々に上陸を試みました。
そのため、沖縄は戦場となり、女性や子供含め多くの人々が犠牲になりました。
なお、アメリカ軍により1946年に予定されていた東京占領(ダウンフォール作戦)は、1945年8月に日本が降伏したため、実現にはなりませんでした。
長岡大空襲については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
ダウンフォール作戦については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
広島・長崎への原爆投下 日本の敗北、戦争の終結
日本は「ポツダム宣言」という降伏要求を無視して、「一億玉砕」などというもはや無茶な精神論で戦い続けました(しかも、実際に日本の人口が1億人を超えたのは1960年代以降)。
アメリカは日本の戦争継続意欲を削ぐため、また戦後のアメリカの国際的優位をアピールする目的で(これはあくまで一説)、原子爆弾を投下することとなりました。
そして1945年8月6日に広島に原爆投下。9日には長崎に原爆投下。
それは朕(私)の望むところではありません。」
この言葉をもって、1945年8月15日に、天皇陛下(昭和天皇)による玉音放送(ぎょくおんほうそう)がなされ、日本(大日本帝国)は敗北となりました。
この日本の敗北をもって、太平洋戦争(大東亜戦争)および世界中を巻き込んだ第二次世界大戦は、すべて終了となりました。
戦争は、人々に悲しみをもたらす
戦争は、人々に悲しみをもたらします。
戦争によって発展した科学技術も否定できませんが、やはり待ち受けるのは多くの人々の悲しみです。
戦争ではなく、「自分に合ったやり方」で人に勝とう
現代に生きる我々は、戦争をしなくとも、殺し合いをしなくとも、人に勝って幸せになる方法はいくらでもあります。
それはスポーツ、勉強、仕事、ビジネス、何でもいいです。
自分にあったやり方で、自分の強みで、人に勝ちましょう。自分が苦手なことや相手が得意なことで不利な戦いをする必要はありません。
また、今は負けていても、また別の機会に勝てばよいのです。
今回は戦争の話ばかりになってしまい申し訳ありませんでしたが、皆さんが広島(平和都市・ヒロシマ)を訪問される際に、少しでも戦争の悲劇や、現代の平和について考えるきっかけとなれば幸いです。

広島城(広島県広島市)
次回も、広島の話題
次回は、
- 饒津神社(にぎつじんじゃ)
- 宇品(うじな)
- 呉(くれ)
など、引き続き広島の話題となります!
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